62.淡路国   兵庫県南淡路市三原町   2005.01.22



淡路は古代、日本発祥の地とされてきた。古事記、日本書紀の語るところによれば、高天原からおのころ島に降り立った伊弉諾イザナギ伊奘冉イザナミの二神は夫婦の交わりを始め、次々に島々を産んでいく。いわゆる国産みクニウミ神話である。
彼らが最初に産んだ島が、淡道之穂之狭別島アワジノホノサワケノシマと呼ばれた淡路島である。本州や四国、九州がそのあとに続き、いわゆる大八島オオヤシマといわれる日本列島が形作られていくのであるが、その最初の島がここ淡路島アワジシマなのだ。

古事記上巻

ここで、少し古事記の本文に触れてみよう。戦後教育では無視されてきた古事記だから、本文を読むのは初めてという人が多いかもしれないが、読んでみればそう難しいわけではないし、話も多少エロチックで興味もあろうかと思う。読みにくい漢字は出来るだけ仮名に替えた。


ここに天つ神、もろもろの命(みこと)以ちて、伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱の神に、
「是のただよえる国を修めつくり固め成せ。」
と詔(の)りて、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言よりさし賜ひき。故、二柱の神、天の浮橋に立たして、其の沼矛を指し下ろしてかきたまへば、塩こうろこうろにかきなして引き上げたまふ時、其の矛のさきよりしたたり落つる塩、累なり積もりて島と成りき。是れ、淤能碁呂(おのごろ)島なり。

其の島に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。
ここに其の妹伊邪那美命に問ひたまひけらく、
「汝(な)が身は如何にか成れる。」
ととひたまへば、
「吾(あ)が身は、成り成りて成り合はざる処一処(ひとところ)あり。」
と答へたまひき。ここに伊邪那岐命詔りたまひけらく、
「我が身は、成り成りて成り余れる処一処あり。故(かれ)、此の吾が身の成り余れる処を以ちて、汝が身の成り合はざる処に刺し塞(ふた)ぎて、国土を生み成さむとおもふ。生むこといかに。」
とのりたまへば、伊邪那美命
「しか善けむ。」
と答へたまひき。ここに伊邪那岐命詔りたまひけらく、
「然らば吾(われ)と汝(いまし)とこの天の御柱を行き廻り逢ひて、みとのまぐはひせむ。」
と詔りたまひき。かくちぎりて、すなわち
「汝(いまし)は右より廻り逢へ、我(あれ)は左より回り逢はむ。」
と詔りたまひ、ちぎりおへて廻る時、伊邪那美命、先に
「あなにやしえをとこを。」
と言ひ、後に伊邪那岐命
「あなにやしえをとめを。」
と言ひ、おのおの言ひおへし後、其の妹に告げたまひけらく、
「女子、先に言へるは良からず。」
とつげたまひき。然れどもくみどに興して生める子は、水蛭子(ひるこ)。此の子は葦船に入れて流し去(う)てき。次に淡島を生みき。是(こ)も亦、子の例には入れざりき。

ここに二柱(ふたはしら)の神、議(はか)りて、云ひけらく、
「今吾(あ)が生める子良からず。なお天つ神の御所にもうすべし。」
といひて、即ち共に参上(まゐのぼ)りて、天つ神の命(みこと)を請ひき。ここに天つ神の命以ちて、ふとまににうらなひて、詔(の)りたまひけらく、
「女(をみな)先に言へるに因りて良からず。亦還り降りて改め言へ。」
とのりたまひき。故(かれ)ここにかへり降りて、更に其の天の御柱を先の如く往き廻りき。
ここに伊邪那岐命、先に
「あなにやしえをとめを。」
と言ひ、後に伊邪那美命
「あなにやしえをとこを。」
と言ひき。かく言ひおへてみあひして、生める子は、淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)。次に伊予之二名島(いよのふたなのしま)を生みき。、、、、、以下略


おのころ島神社の大鳥居
とてつもなく大きい。初めて見ると
かなり違和感を覚える。
おのころ島神社本殿
簡素な神明造で、清々しい。
イザナギ、イザナミの二神は、
ここで愛し合ったのだろうか。


十一明神神社(淡路国総社)


淡路国の国府は、三原郡に置かれたとされているが、正確な位置はまだ確認されていない。
総社は南あわじ市十一カ所に鎮座する十一明神神社とされる。町村合併で南あわじ市になったが、ここは旧三原町であり淡路国庁もこの近くであったと思われる。

淡路国の明神大社である伊佐奈伎神社と大国魂神社を除いた延喜式内十一社を合祀する。

拝殿
拝殿の屋根には「一国総社」と誇らしげに掲示されている。

本殿
流れ造の本殿である。
十一社の掲額
合祀されている十一社を掲示している。


淡路国分寺

現国分寺は、珍しく律宗の寺で護国山と号する。天平の国分寺は、この寺の境内に眠っている。
塔の跡だけ発掘調査が行われ、昭和二十六年(1951)国の史跡に指定された。

延喜式の寺料は5千束だから、全国の国分寺のうちで最小規模の寺のひとつだ。


国分寺境内
本堂と並んで、旧国分寺の本尊である丈六の釈迦如来像を安置する収蔵庫がある。

収蔵庫
歴応三年(1340)に作られた丈六の
釈迦如来座像を安置する。

国の重要文化財に指定されているためか、
厳重に鍵が掛かっていて、お姿を拝する
ことが出来ない。何とも残念であった。
釈迦如来は
古代の国分寺の本尊は、聖武天皇
詔勅により釈迦如来とされたはずだが、
現存している国分寺の本尊は、ほとんど
薬師如来像だ。釈迦如来像を伝えて
いるのは、この淡路国分寺と若狭国分寺
の二寺だけである。

塔跡
大日如来を祀る小堂が建っている。
心礎は2M四方の立派なものだそうだが
小堂が閉ざされていて、見ることが出来ない。
塔の礎石
心礎を覆った小堂の外に、五個の礎石が
あった。こちらは無造作に置かれているだ
けだ。



伊弉諾神宮イザナギジングウ(淡路国一之宮)


淡路国一之宮は津名郡一宮町に鎮座する伊弉諾神宮だ。延喜式内明神大社であり、明治には官幣大社に列した。伊弉諾尊を主祭神とする。

伊弉諾尊イザナギノミコト黄泉ヨミの国から逃げ帰って、日向の阿波岐原アワギハラの清流で禊ぎミソギをする。その時に、天照大神アマテラスオオミカミ素戔嗚尊スサノオノミコト月読命ツキヨミノミコトの三貴神が産まれる。ここから高天原の日本神話が始まるのだが、伊弉諾尊はあとを天照大神に託して、この淡路の地を幽宮カクリノミヤとして鎮まったという。

古代から霊験あらたかで、履中天皇が狩りをした時、罪人が供人として随行していたのを、「血臭に耐えない」と告げられたとか、允恭天皇が狩りをした時、獲物が無く占ってみると、「海底の真珠を採って祭りをすれば獣が捕れる」と告げられ、その通りにすると獲物が多かったとか、この神の神威として伝えられている。

例祭は四月二十二日。


参道
石灯籠が並ぶ参道。

拝殿
桁行五間で舞殿を兼ねている。
銅葺き入母屋造。
本殿
向拝の付いた三間社流れ造。
檜皮葺の優美な建物。


夫婦大楠
境内にあった巨大な楠。樹齢九〇〇年。
元は二株の木が成長するにつれて、
合体し一株に育ったという。樹高30M。


淡路廃帝淳仁天皇悲話


我が国の天皇百二十五代の中で、廃帝と呼ばれる帝は淳仁天皇おひとりである。
天武天皇の子で日本書紀の編者として知られる舎人親王トネリシンノウの第七子大炊王オオイノオオキミ

当時の最高実力者藤原仲麻呂と親しく、仲麻呂の長男真依マヨリの未亡人粟田諸姉アワタノモロネを妻とする。仲麻呂は叔母である光明皇后に可愛がられ、一方で女帝であった孝謙天皇にも寵愛された。当時は光明皇后付きの役所紫微中台の長官として、左大臣の橘諸兄、右大臣で実兄の藤原豊成をも凌ぐ権勢を誇った。

大炊王の青春時代はこの仲麻呂と共にあり、仲麻呂邸の田村第で妻と共に起居していたらしい。
仲麻呂の推挙で天平宝字元年(757)孝謙天皇の皇太子となり、翌年即位する。

しかし天皇として輝いていたのは、ほんの数年であった。孝謙上皇が道鏡と親密になると、次第に仲麻呂は疎んじられ、上皇と仲麻呂、そしてそれにつながる天皇の間には冷たい溝が広がるようになる。

天平宝字六年(762)天皇は孝謙上皇に道鏡の件で諫言したところ、逆に上皇の怒りを買い決定的に不仲になる。2年後さらに仲麻呂も失脚して乱を起こし敗死してしまう。後ろ盾を失った天皇は、帝位を剥奪され淡路に幽閉される。天平宝字八年(764)のことであった。その翌年の天平神護元年(765)に、幽閉先から逃亡を図り、捕らえられて翌日変死。三十三才の若さであった。以後、淡路廃帝、淡路公などと称されていたが、やっと明治になって第四十七代淳仁天皇と諡号が追贈された。

参考
世に廃帝と呼ばれるお方は3人おられる。壬申の乱で天武天皇軍に敗れた大友皇子、承久の乱の時、順徳天皇から譲位された懐成親王と、この淳仁天皇のお三方である。このうち大友皇子は戦乱のさなかで、即位したという記録がない。懐成親王は即位の礼や大嘗祭も行われないまま三ヶ月で退位させられ、廃帝と呼ばれるより半帝と呼ばれてきた。いずれにしても失礼な話で、明治になって大友皇子は39代弘文天皇、淡路公は47代淳仁天皇、懐成親王は85代仲恭天皇と追号され歴代天皇に加えられた。このうち天皇として実質的に政権の座にあり、廃帝の名にふさわしい(?)のは、淳仁天皇おひとりと言ってよいであろう。

野辺の宮跡
淳仁天皇が幽閉されていた宮跡。
三十三才の若い廃帝は、さぞ無念で
あったろう。

どなたを祀っているのか。小さな祠。
小公園の片隅に、そっと祀られている。

宝積寺
十一明神社の参道にある寺。
淳仁天皇の菩提寺とされる。
一千二百年忌碑
淳仁天皇一千二百年忌の碑。
宝積寺の境内に建つ。


淡路地図

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