60.備後国 広島県府中市元町  JR福塩線府中駅  2004.11.07


古代の吉備国は大化の改新後、備前、備中、備後、美作の四カ国に分割された。そのうち備後だけが明治以降広島県とされ、福山、府中、三次、尾道、庄原、三原、因島の各市に神石、甲奴、世羅など9郡を擁する広島県東部地域として現在に至っている。

古代から畳表の産地として有名で、後白河院高野山に畳表を納めた記録が残っている。以来徹底した品質管理で好評を博し、江戸時代には「備後表座」も成立して、隆盛を極める。太平洋戦争後の価格統制時代には、他県産に比べて10%ほど高い価格設定が認められたほど、その品質の高さが評価されていた。

室町期には応仁の乱の西軍の総帥山名宗全が備後守護職となったが、戦国時代には尼子氏、大内氏、毛利氏による戦乱に翻弄された。江戸時代には福島正則改易ののち、福山城に水野氏が入り五代続くが、後嗣が無く断絶、宇都宮から阿部正邦が十万石で移封される。
幕末の福山城主阿部正弘は老中職に補され、日米和親条約を結んだ。


備後国府跡


備後国府は現在の広島県府中市に営まれた。この市は大変珍しいことに、東京の府中市とまったく同じ市名を名乗る。全国で同一市名は府中市ただひとつなのだ。福島県の郡山市に対して奈良県には大和郡山市、山形県村山市に対して東京の東村山市武蔵村山市というように、同一の市名は名乗れないのだ。この府中市だけが市制施行が同時期であったために、特例中の特例として認められたのだという。

備後国府が府中にあったとことは、古くから推測されていたが、国庁の所在はなかなかわからなかった。それが昭和59年(1984)から始まった元町ツジ遺跡の発掘調査により、奈良時代から平安時代にかけての掘立柱建物の遺構が見つかり、さらに須恵器や土師器に混じって、当時としては高級品の緑柚陶器が数多く出土し、曹司とか国司館のような古代備後国庁の関連建物跡ではないかと推定されている。

ツジ遺跡の発掘現場
府中市教育委員会により継続されている。府中市元町の広谷公民館の裏手に当たる。
備後国府の政庁跡にたどり着く日も近そうだ。


小野神社(備後総社)


備後総社小野神社境内にある。もともと、総社の社地であったが江戸時代に小野神社をこの地に遷し、元町の鎮守とした。総社は境内社として祀られている。昭和初期に老朽化したので、氏子たちが一人一日一銭の貯金を3年間続けて、昭和9年(1934)に現在の本殿を造ったと境内の碑に記録されている。

鳥居と階段
ものすごい勾配の階段。怖いぐらい。
小野神社拝殿
祭神は孝安天皇妃の押媛命。


総社 総社神社の掲額


備後国分寺


備後国分寺は府中から福塩線に乗って、神辺駅からタクシーで10分ほど走った所にある。
古代の山陽道に面して参道の入口があり、天平の国分寺遺構を貫くように参道が通っている。

古代の国分寺は今では跡形もないが、唯一の遺物として奈良国立博物館所蔵の国宝「紫紙金字金光明最勝王経」がある。これはもともと備後国分寺に伝わったものだというのだ。聖武天皇の命により、官立の「写金字経所」によって書写されたもので、全10巻が完全に揃った貴重なものである。天平18年(746)10月に完成したと正倉院文書に記録されている。
延喜式の寺料は二万束。

江戸期の延宝元年(1673)近くの大原池が、集中豪雨のため決壊し、堂々川が氾濫し堂塔伽藍はすべて流失した。遺構は厚い土砂に埋まっていて、発掘調査は困難を極めたという。

備後国分寺配置図
参道の一番奥に掲示されてあった。
昭和四七年(1972)以降の発掘調査の結果、
二町四方の寺域に、南門、塔、金堂、講堂が
法起寺式の配置に並んでいるのが検出されたとある。

参道入口
かなり大きな2本の松の木が巨大な門の
ように立っている。
南大門跡の表示
松の巨木の根元に南大門の表示が。
見のがしそうだ。


金堂跡
無粋な金網があって、どう撮っても
サマにならない。
塔跡
こちらは柿がたわわに実っていた。


講堂跡
講堂の遺構を参道がぶった切って
いるように見える。
参道
現国分寺の山門まで、
一直線に続いている。


現国分寺の山門
唐尾山医王院と号する真言宗の寺である。
本堂
本尊は元禄期に造られた薬師如来。


吉備津神社(備後一ノ宮)2009.3.4取材


備後国一ノ宮は、福山市新市町に鎮座する吉備津神社である。吉備国が4カ国に分割された際に、備中の吉備津神社から分祀されたと思われる。拝殿を通さずに、本殿に直接参拝出来る独特の様式で、神仏混淆の名残を色濃く残す。

祭神は、大日本根子彦太瓊命オオヤマトネコヒコフトニノミコト大吉備津彦命オオキビツヒコノミコト稚武吉備津彦命ワカタケキビツヒコノミコトの三柱である。

大日本根子彦太瓊命は、第七代孝霊天皇のことで、古事記によれば吉備国を平定した大吉備津彦命の父帝である。五十狭芹彦と呼ばれたこの皇子は、第十代崇神天皇が全国平定に派遣した四道将軍の一人で、吉備国を平定したので吉備津彦を名乗る。稚武吉備津彦命は吉備津彦命の異母弟で、兄を助けて吉備国平定に功があった。
本殿
本殿を直接拝せる独特の様式で、地元では一宮イッキュウさんと呼ばれ親しまれている。


公孫樹
日本老樹名木第415号。
天然記念物である。
秋に行ってみたいなあ。
本殿正面
破風付き入母屋造
慶安元年(1648)の造営。
昭和40年国の重要文化財指定。

元弘元年(1331)笠置山によった後醍醐天皇を奉ずる楠木正成などの倒幕の挙兵は、一ヶ月で幕府軍によって鎮圧された。元弘の変である。この時、備後の豪族桜山茲俊は、ここ吉備津神社背後の桜山に陣を敷き、楠木正成に呼応して倒幕の兵を挙げた。しかし、元弘の変が失敗に終わり、正成戦死の誤報を信じた茲俊は、吉備津神社に火をかけて自刃した。

備後国地図


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