15.備中国 岡山県総社市総社  JR伯備線総社駅  '97.10.23 04.11.21


備中国府跡


備中国府は、まだ見つかっていない。ただ、岡山県総社市に「北国府(きたこう)」、「南国府」という字名があり、ここに備中国府があったことはほぼ間違いなさそうである。この地区では、ほとんどすべての家が国府姓であり、「城後」、「城内」、「内堀」、「外堀」、「築地」といった小字名も残っているという。

南国府地区に「御所宮」と記された石碑が建っていた。ここが備中国府の中心であったと考えられている。総社市西山にかって存在した「古郡神社」の跡と、北国府にある「荒神社」結んだ南北線上にこの「御所宮」があるのも、なにかの証なのかもしれない。

御所宮碑

備中国総社

出雲から特急八雲で、吉備路を南下し、備中高梁(たかはし)で乗り換えて総社市に向かう。
高梁川が美しい。総社市は全国で唯一総社を市名とする市である。期待が大きかったが、総社市
は想像以上に小さな町であった。腹が空いたが駅前にはそば屋が一軒だけ。その店で聞いたら、
総社の宮まではとても歩いては行けぬと言う。駅前からタクシーに乗った。

5700坪の境内には、池を巡らした三島式庭園とともに、本殿、拝殿、回廊などが建っている。
本殿は昭和55年(1980)の再建だが、そのほかの建物は江戸期のものだという。


毎年10月18日、19日の祭礼には、子供神輿が各町内から70以上も出され、その行列は3時間に
も及ぶとか。

鳥居
総社の掲額が掛かる。
回廊
かなり長い回廊が続く。


本殿
主祭神は大名持命(大国主命)
その妻須世里姫。昭和の再建。
拝殿
備中国の主要な304社を合祀する。


池と回廊
5700坪の境内に広がる三島式庭園と長い回廊。

備中国分寺


備中国分寺跡は岡山県営「吉備路風土記の丘公園」になっている。一帯はのどかな田園風景が広がり、天平の昔を偲ばせる。

古代の国分寺の遺跡はほとんど残っていないが、昭和46年(1971)の岡山県教育委員会の発掘調査により、南門、中門、築地などが検出されている。北から山が迫っているので、金堂、講堂を南北に配した国分寺式伽藍配置は無理だとされ、塔と金堂を東西に並べた法起寺式であろうというのが、大方の推論であるらしい。

しかし、現地に立ってみると、山の張り出しはそれほどでもなく、国分寺式の配置も不可能ではなさそうに思える。そのうえ回廊の外、東南の隅で検出された建物跡を塔跡とすれば、見事な国分寺式伽藍配置が完成する。こんな風に思うのは私だけだろうか。

備中国分寺伽藍配置図
南門、中門、回廊、築地と東南の建物跡が検出された。


南門跡の礎石
南門跡には3個の礎石が残されている。
建物跡
ここの説明板にも塔跡という説もあると
書いてあった。


現国分寺山門
この下あたりに金堂がねむっていそうだ。
勅使門と客殿
この下に講堂の遺構がありそうだ。


日照山国分寺
真言宗の寺で享保2年(1717)の再興。
現国分寺本堂
西面して建っている。


古代国分寺の礎石
境内には古代の国分寺で使われた礎石が、いくつかある。碑の台座になっていたり、
お地蔵さんを乗せていたりする。


五重塔
なんと言ってもこの国分寺の見ものはこの五重塔だ。吉備路に広がる田園風景に
実に良くマッチしている。画家の平山郁夫さんもこの塔をこよなく愛したという。
文政4年(1821)に着工し、20年の年月をかけて完成した。昭和55年(1980)国の
重要文化財に指定。
総高34メートルの瓦葺き。三層まではケヤキ材、四層、五層は松材が使われている。


吉備津神社(備中国一之宮)

備中国一之宮は吉備津神社である。
崇神天皇の御代、四道将軍の随一とうたわれた吉備津彦命を祀る。仁徳朝の創建で、延喜式
では名神大社。一品吉備津大明神。備前国、備後国も一之宮は吉備津彦命を祀るが、延喜式
には載せられていない。とすると、延喜式の編纂の後で、この吉備津神社から神様もお分かれに
なったのではないだろうか。

本殿
比翼入母屋造りのこの社殿は他に例を見ない独特のもので、「吉備津造」とも云われる。
応永三二年(1425)25年の歳月をかけて再建された。


拝殿
七五三のお詣り。
鳴釜
雨月物語で有名な鳴釜の神事は、釜で湯
を沸かし吉凶を占うもので、吉事なら、釜が
ごうごうとう鳴り、凶事なら鳴らないとされる。


本殿を2キロほど奥に入ると、吉備津彦の御陵のある吉備の中山に出る。清流が美しい細谷川。

古今集に

真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけき



備中国地図



高松城・吉備津神社・吉備津彦神社




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