67.豊前国  福岡県京都郡豊津町  平成筑豊鉄道豊津駅 2005.04.24


豊前国は、秦の始皇帝の末裔だと称する秦氏や、宇佐神宮を本拠とする辛島氏など渡来系の人々が開拓した国だと言われている。

奈良時代、豊前国を舞台にした大きな戦いがあった。藤原広嗣の乱である。

藤原広嗣は奈良政界の大立て者藤原不比等の孫だ。
不比等の子の武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂の四兄弟は、天平九年(737)に大流行した天然痘によりあいついで世を去った。宇合の長男であった広嗣は、非常に優れた知性の持ち主で、唐から帰ってきた吉備真備に師事し、政界で重きをなすはずであった。しかし、やはり唐帰りの玄ム僧正と肌が合わず激しく対立した。

藤原四兄弟亡き後の大和朝廷は、左大臣橘諸兄のもと、唐から帰朝した吉備真備玄ムが実質的に牛耳っていた。その玄ムと衝突した広嗣は、大宰少弐に左遷される。左遷といっても、太宰府の長官である太宰帥、次官である大弐は共に兼官で都にいたので、少弐の広嗣が全九州を掌握していたといえる。それに広嗣はなかなか人気もあったらしい。中央政府の政策に不満を持つ広継は、太宰府から朝廷へ玄ムの罷免を求める上表文を送り、兵を集める。
時に天平十二年(740)。藤原広嗣若干27才の反乱であった。

聖武天皇光明皇后は激怒して、陸奥国多賀城の鎮守府将軍を勤めた大野東人を、西征大将軍として派遣した。大野東人はまず豊前国宇佐八幡宮に戦勝祈願をし、太宰府に攻め上った。迎え撃つ広嗣軍も豊前国に進出し、豊前国板櫃川(いたびつがわ)が両軍激突の場となった。
広嗣は九州の豪族を率いて奮戦したが衆寡敵せず、ついに首を奪われる。

彼はのちに怨霊となって玄ムを殺し、聖武天皇を悩ませることになる。全国に国分寺を建立させるのも、流行病と広嗣の怨霊を鎮めるためであったといわれる。板櫃川はいまも小倉市内をゆったりと流れている。


豊前国府跡


豊前国府の遺構は、昭和59年(1984)から実施された発掘調査によって、豊津町国作字御所宮ノ下で発見された。政庁を中心に南北650m、東西490mの範囲に国府域があったと推定されている。政庁の300m南方には、太宰府と宇佐八幡宮を結ぶ官道が走っていた。

国府の中心建物は、8世紀から12世紀まで何度か建て替えられている。正殿を中心に東西に脇殿を置く典型的な国衙の配置である。12世紀の半ばにはその痕跡が無くなり、居館のような建物に変わってしまった。

9世紀から10世紀の第三期の政庁を復元し、その周辺を含めて豊前国府跡公園として整備してある。1万8千uの公園は良く整備され、政庁の北側と西側は万葉歌の森として、万葉の歌碑がそここに建っていて、とても良い雰囲気である。

豊前国府跡公園
整備された園路、休憩施設などが
心地よい。日本古来の在来植物を
植えてある。
万葉の歌碑
万葉の歌碑は12。この碑は額田王。
あかねさす紫野行き標野(しめの)行き
       野守は見ずや 君が袖振る


築地塀の復元
古来の工法(版築)で復元してある。
東脇殿跡
発掘で確認された柱跡を基壇上に復元。


中門跡から正殿跡を望む
中門跡は基壇上に発掘された柱列を復元。正殿は推定地に基壇を設けてある。


惣社八幡神社


豊前国の惣社は、惣社八幡神社だ。鎮座する地は京都郡豊津町国作字惣社で、豊前国府跡に隣接している。

境内
境内は広く静かな佇まいだ。一の鳥居から二の鳥居にかけて、新しい灯篭が並んでいる。
ただし、隣接する国府跡公園に比べると、少し淋しい。祭神はもちろん八幡神である。


拝殿の掲額 本殿


豊前国分寺


豊前国分寺の発掘調査は、昭和49年(1974)、60年(1985)〜62年(1987)に実施され、現存する国分寺の本堂の北側から、奈良時代の講堂跡の遺構が発掘された。また、山門の南側からは門の礎石と思われる大きな石が出土した。調査結果から奈良時代の国分寺の敷地は、東西160m、南北は160〜220mと推定され、南門、中門、金堂、講堂が南北一直線上に並び、金堂の南東に七重塔が建っていたと思われる。弘仁式の寺料は二万束。

豊前国分寺は平安時代に天台宗の勢力下に入り、室町時代まで法灯を伝えてきたが、天正年間に大友氏の戦火により焼失した。しかし、江戸期にはいると藩主小笠原氏の支援を受けて本格的に再建され、本堂は寛文6年(1666)、鐘楼門は貞享元年(1684)に建立された。

大同元年(806)唐から帰国した空海は、都に上らず豊前国分寺に逗留したという伝説がある。
その縁からだろうか現在の金光明山国分寺は真言宗である。

境内全域は昭和51年(1976)国の史跡に指定された。

山門 鐘楼門


本堂 三重塔


門の礎石 出土した瓦


国分寺跡史跡公園
昭和59年(1984)から10年かけて整備された。講堂跡の基壇を復元し
現存寺の境内を含めて史跡公園になっている。


講堂跡基壇
本堂の北側から、東西26.7mの講堂遺構が発掘された。


宇佐神宮(豊前国一之宮)


豊前一之宮は有名な宇佐神宮だ。祭神は左から順に一之御殿に応神天皇、二之御殿に比賣大神、三之御殿に神功皇后を祀る。こう並ぶと二之御殿が中央になり、どうみても主祭神が比賣大神のように思える。比賣大神とはどのような神であろうか。古来種々の説があるが、神宮の案内では宗像三女神だという。

八幡神は最初、土地の豪族宇佐氏の本拠地馬城嶺に現れ給ふたという。それが渡来系の辛島氏が祭祀を司るようになって、八流の旗ヤハタの神になり、さらに大神氏に祭祀権が移る中で応神信仰に変化したという。仏教の影響も強く、この神社の謎は深く、複雑だ。

道鏡事件で御託宣の神として、一躍脚光を浴びる。道鏡と藤原氏の権力闘争に、辛島氏、大神氏の神宮祭祀権の争いがからみあった事件で、道鏡失脚と共に辛島氏の勢力も衰える。

延喜式で明神大社に列す。全国四万社を数える八幡様の総本社である。

蓮池 拝殿


拝殿と回廊
宇佐神宮の拝礼は二礼四拍手一礼とされる。
この拝礼法は出雲大社と宇佐神宮のみである。


豊前国地図1


豊前国地図2


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