46.筑後国 福岡県久留米市   JR久大本線久留米大学前駅  2003.05.27



筑後国府跡

筑後国府は福岡県久留米市の合川町、朝妻町、御井町にわたって営まれた。第1期から、第4期までの国府遺跡が発掘されている。昭和36年(1961)九州大学によって、本格的な発掘調査が行われ、大量の瓦や築地塀あとが出てきた。その後、久留米市教育委員会が引き継ぎ、30年間で実に188回の発掘調査を行ってきた。

その結果、この地区を筑後国庁が転々と移動したことが解ってきた。7世紀の初期国府は合川町古宮地区に置かれ、8世紀の中頃に同町阿弥陀地区へ移動した。この国庁は天慶4年(941)の藤原純友の乱で焼失し、約600M東方の朝妻地区へ三遷する。この第3期国庁は、一辺140Mの大溝に囲まれた全国でも最大規模の遺跡である。


筑後国府跡の説明版
合川公民館の入口にあった。
出土した土器の破片
発掘現場事務所におびただしい数の土器の破片が
並べてあった。


    
律令制度が衰退に向かった10世紀中頃に、造営が始まった第3期筑後国府は、全国的に
みても、特異な特徴が見られる。大溝で仕切られた国庁域は正方形であり、その中央に正殿を置き、脇殿は正殿の南方と北方にも存在したらしい。このような例は、国庁遺跡にはこれまで類例が無く、東北地方の城柵官衙遺跡に見られるだけである。第2期の国庁が藤原純友の乱で焼失したことの影響があるのだろうか。


第3期国庁跡発掘現場
国庁域東端の発掘現場。かなり深く掘り下げている。
同現場
発掘作業員は近所の主婦が多そう。


第3期国庁は延久5年(1073)に、「今の符」(第4期国庁)に移動したことが、高良大社に伝わ
る高良記に記されている。第4期国庁は市立南筑高校の校庭から発掘されている。


味水御井神社(筑後国総社)


筑後国総社は味水御井神社(うましみずみいじんじゃ)とされる。しかし、古くから一之宮高良大社の摂社とされてきたので、本質的には高良大社が総社の機能を果たし、山上の大社に代わって、日常の国司拝礼などは、この神社で行われてきたのであろう。

いまでは、ほとんど地元の人も知らないさびれようで、「味水」を「うましみず」と読める人は、まず居ないであろう。JR久大本線の久留米大学前駅の横の陸橋を、線路の向こう側に渡ったところにある。普通では絶対にわからない。

この清水を国庁の近くまで引いて、人工の小川を作り、国司達が曲水の宴を楽しんだ跡も第3期国庁跡近くの国司館跡から見つかっている。


味水御井神社
ひっそりと隠れるように鎮座している。
祭神は水波能売命。
8月7日の七夕が祭日という。
朝妻の清水
神社の前には、きれいな清水がわき出ている。朝妻の清水
と呼ばれ、神聖な水とされた。

茶店があって、流しそうめんやところてんが美味しい。


筑後国分寺跡

筑後国分寺跡は、不思議なことに日吉神社の境内にあった。どうして、寺の遺跡に神社が建ってしまったのか、理解に苦しむところである。現在は講堂の基壇と礎石が一つだけ残っている。天平勝宝8年(756)に全国26カ国に灌頂の幡、道場の幡などが頒布されたが、ここ筑後国分寺も、その中に名を連ねている。

昭和44年(1969)から学術調査が行われ、伽藍配置がほぼ推定されている。


筑後国分寺講堂跡
間口27M、奥行き13Mの版築基壇と
14カ所の礎石跡が検出されている。
礎石
ただ一つ残った礎石。大きな碑の陰に隠れている。


塔跡
県道を挟んで国分僧寺塔跡の標識が立っている。
9M四方の建物が想定されているが、
礎石などは何も残っていない。
日吉神社
境内に国分寺遺跡を有する日吉神社。
なぜか久留米には日吉神社が多く、
4社もあるんだとタクシーの運転手が教えてくれた。


現存寺本堂
護国山国分寺と称する。
避難した元三大師
明治の廃仏毀釈の時、高良山速成院が取り壊される際、
元三大師像をここに移している。


高良大社(筑後国一之宮)

筑後国一之宮高良大社は、久留米市御井町の高良山の山頂に鎮座する。
高良山は標高312メートル、眼下には筑紫平野が一望に見渡され、筑後川が悠々と流れている。筑紫の君磐井の乱にあっては、この高良山麓が最後の決戦場になった。

古くは「高良玉垂宮」と称し、延喜式内明神大社、神階は高く、宇多天皇の寛平9年(897)には正一位に進んでいる。10月の大祭には、太宰府から勅使が立ち、九州九カ国の国司、郡司が参集したという。祭神は高良玉垂命。


高良大社社殿(重要文化財)
万治2年(1659)久留米藩主有馬頼利の寄進により造営。
高良大社社殿 透塀
柿葺(こけらぶき)権現造。江戸初期の様式を伝える。


筑後国地図




国府物語のトップページへ。