万葉集筑紫歌壇


太宰帥(だざいのそち)大伴旅人、太宰少弐小野老(おののおゆ)、筑前守山上憶良、造観世音寺別当沙弥満誓(しゃみまんせい)、大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)など、錚々たる万葉歌人が当時の筑紫に集まっていた。大伴旅人邸には、これらの歌人が集い、あたかも中央の文壇がこぞって筑紫に移動したような、華やかなサロンを形成していた。

神亀2年(725)山上憶良
筑前守に就任、次いで神亀4年(727)大伴旅人太宰帥に就任。この頃から天平2年(730)10月に旅人が大納言に昇進して、12月頃に太宰府を離れるまでが、ここ、九州筑紫の地に万葉の文化が花開いた時であった。

万葉集には、こうした上流貴族の歌の他に、東国から徴集されて、遠く筑紫の地で国土防衛に当たらされた
防人の歌が、数多く載せられている。これらも広い意味で筑紫歌壇と言えるであろう。


梅花の宴 天平2年(730)正月13日、太宰帥大伴旅人邸で行われた梅花の宴には、太宰府の役人達のほか、九州各国の国司が参加し、梅をテーマに歌を詠んだ。万葉集巻五に梅花歌三十二首として採録された。

下に掲げた歌のうち、赤字の歌がその時の歌である。

新元号令和 
2019年4月、平成最後の月に5月からの新元号が発表された。なんと出典は万葉集。しかもここで紹介している「梅花の宴」の序文から「令和」が採用された。 下はその序文の一部。
 

「時に初春の月にして気淑く風ぎ梅は鏡前の粉を披き蘭は珮後の香を薫す」

 
令月:良い月  気淑(よ)く:空気は美しく  鏡前の粉を披き:鏡の前の美女が化粧する
珮(ハイ):瑪瑙



筑紫歌壇を彩る人々とその代表歌

太宰帥 正三位 大伴旅人 (665生〜731従2位大納言で没)

大伴旅人は天平期の万葉を代表する大歌人である。大伴氏はもともと軍事を司る氏族で、旅人も養老4年(760)には、征隼人持節大将軍として、九州に遠征している。彼はまた、酒をこよなく愛した詩人でもあった。万葉集には彼の酒賛歌が11首も載せられている。

古代からの名族大伴氏の宗主として、54才で中納言中務卿。中央政界に重きをなしたが、長屋王失脚、藤原氏の台頭と共に次第に力を失い、太宰帥として筑紫に赴任した時は、すでに63才の老翁であった。天平2年(730)大納言に昇進し都へ帰るが、翌年没。


世の中は 空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり
 旅人は太宰帥として九州に赴任してすぐに妻を亡くす。
 哀しみが心にしみ通る絶唱。


・橘の 花散る里のほととぎす 片恋しつつ 鳴く日しぞ多き
 「橘の花散る里の」という言い回しが、後世の歌人に好まれて類歌が多い。
 橘の花ちる里の 夕づくよ 空にしられぬ 影やのこらん(藤原定家)
  ほととぎす きけどもあかず 橘の花ちる里の 五月雨の頃(源実朝)

・いざ子ども 香椎の潟に白妙の 袖さえ濡れて 朝菜摘みてむ
太宰府の官人達と、香椎の宮に詣でた時の歌。ちょっと官能的。

・あわ雪の ほどろほどろに降りしけば 奈良の都し 思ほゆるかも
 「ほどろほどろに」のような畳言葉がこの人の特徴でもある。

・我が園に 梅の花散る 久かたの天より 雲の流れ来るかも
 自邸に太宰府の官人、九州各国の国司を招いて、梅見の宴を催した。
 

・古の 七の賢(さか)しき人たちも 欲(ほ)りせし物は 酒にしあらし
 竹林の七賢人になずらえて、酒飲みを擁護している。
 魏から晋に政権が移る時、世を捨てて無言の抵抗をした中国の賢人に、
 藤原氏によって中央政界を追われた自分の姿を重ねたのかもしれない。


・あら醜(みにく) 賢(さか)しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似む
 私も思わず「そうだ、そうだ」と手を叩きたくなる。

    

大宰大弐 従四位上 紀 男人 (682生〜738正四位下大宰大弐で没)

万葉集巻五の梅花の宴では、大弐紀卿として初句を詠んでいる。漢詩集の「懐風藻」に紀男人として名を連ね、皇太子首皇子(のちの聖武天皇)の侍講を勤めた。

正月(むつき)立ち 春の来らば かくしこそ 梅を折りつつ 楽しき終へめ
 梅花の宴で詠まれた三十二首の冒頭を飾る歌。

     

大宰少弐 従五位下 小野老 (?〜737従4位下大宰大弐で没)

老と書いてオユと読む。大伴旅人の少し後に少弐として太宰府に着任。   

・青丹良し 寧楽の都は 咲く花の 匂ふがごとく いま盛りなり
 小野老の太宰府着任を祝う宴で詠まれた。

・時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟 潮干の浦に 玉藻刈りてな
 旅人の歌と同様、太宰の官人達が香椎の宮に詣でた時の歌。

梅の花 いま咲けるごと 散りすぎず 我が家(え)の園に ありこせぬかも
 大伴旅人邸の梅花の宴で詠まれた。

      

大宰少弐 従五位下 粟田比登 (?〜?)

万葉集には粟田大夫とみえる。

・梅の花 咲きたる園の 青柳は縵(
かづらにすべく 成りにけらずや
 大伴旅人邸の梅花の宴での歌。


筑前守 従五位下 山上憶良 (660生〜733没)

山上憶良は第7次遣唐使の一員として、大宝2年(702)唐にわたる。長安に2年から5年滞在して帰国し、霊亀2年(716)従五位下伯耆守、養老5年(721)には皇太子(後の聖武帝)の侍講に任命されているから、当時第一級の知識人であった。

大伴旅人と共に筑紫歌壇をリードした双璧である。神亀3年(726)に、筑前守として九州に渡り、2年後に偶然にも太宰帥として筑紫に赴任してきた旅人と出逢った。都を遠く離れた筑紫の地にあって、二人は肝胆相照らし、お互いの歌人としての才能を認め合い、刺激しあっていたことであろう。作風も性格もまったく違うが、このふたりの存在は、万葉集のこの一時期を輝かしいものにしている。
     

・憶良らは いまは罷(まか)らむ 子泣くらむ そもその母も 吾(あ)を待つらむそ
 酒飲みの旅人に対して、憶良は下戸に近かったのであろうか。家で待つ妻子が
 いるから、宴席はこのくらいにして、もう帰りますよと云うわけだ。

・大野山 霧立ち渡る 我が嘆く 息嘯(おきそ)の風に 霧立ち渡る
 旅人の妻が亡くなった時、なぐさめた歌。悲嘆に沈むため息で、霧が立つほどと。

・瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ
 眼交(まなかひ)に もとなかかりて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ

・銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも
 上の2首は学校で嫌と云うほど読まされた。万葉集と言えばこれだった。

・春されば まづ咲く屋戸の 梅の花 独り見つつや 春日暮らさむ
 
梅花の宴での歌。ひとりで見るよりみんなで見る方が良いと、
 反語に解釈するのかな。

・秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数ふれば ななくさの花

・萩の花 をばな 葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花
 この2首で秋の七草を覚えたものですね。

・世のなかを 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
 今の不況の日本に居るみたいだ。憶良もだいぶ屈折している。

・士(をのこ)やも 空しかるべき 万代(よろずよ)に語り継ぐべき 名は立てずして
 死に臨んでの歌だが、なんだか自分のことを云われてるみたいだ。

     


豊後守 従五位下 大伴首麻呂 (?〜?)

万葉集には大伴大夫とある。江戸の万葉学者契沖は、大伴三依ではないかとしたが、年齢や位階が合わない。     

・世の中は 恋しげし ゑや かくしあらば 梅の花にも 成らましものを
「ゑや」は詠嘆の助詞。恋の苦しみから、いっそ梅の花にでもなってしまおう、とでも云うのだろうか。

     

筑後守 外従五位下 葛井大成 (?〜?)

万葉集には葛井大夫とみえる。葛井はフジイと読むらしい。大成はオオヒロと読む。
百済系の人で大阪の藤井寺が、一族の本願地という。


・梅の花 今盛りなり 思ふどち 挿頭(
かざし)にしてな 今盛りなり
 
梅花の宴での歌。楽しくてしょうがない雰囲気が良く出ている。

・今よりは 城の山道は さぶしけむ 吾が通はむと 思いしものを
 大伴旅人が都へ帰った後の気持ちを歌ったもので、城の山道は基山の
 あたりだろうか。

・海女をとめ 玉もとむらし 沖つ波 かしこき海に 船出せり見ゆ
 
有明海で真珠が採れたのだろうか。海女姿の少女達が、船出していく。

     

造観世音寺別当 従四位上 沙弥満誓 (?〜?笠麻呂美濃守、尾張守を歴任)

沙弥満誓は、笠朝臣麻呂として歴史に登場する。慶雲3年(706)従五位上美濃守、和銅7年(712)木曽路を開通させるなど、国司として抜群の働きを認められる。霊亀2年(716)尾張守を兼務。養老元年(717)には、元正天皇を美濃国の養老の泉に案内して喜ばれ、元号を養老とするきっかけを作る。この際、従四位上に叙される。養老五年(721)元明上皇の病平癒を願って出家。満誓と号す。養老七年(723)2月造観世音寺別当として太宰府に着任。この略歴を見ても大変な能吏であったことがわかる。    

・しらぬひ 筑紫の綿は 身に付けて 未だは着ねど 暖けく見ゆ
 綿は筑紫の特産物であった。
 これから始まる筑紫での生活に期待して、胸をときめかしている。


・世の中を 何に譬へむ 朝開き こぎにし船の 跡なきごとし
 後拾遺集には少し形を変えて載せられている。
 世の中は 何に喩えむ あさぼらけ こぎゆく船の あとの白波

・見えずとも 誰恋ひざらめ 山の端に いさよふ月を よそに見てしか

・ぬば玉の 黒髪変り 白けても 痛き恋には 逢ふ時ありけり
 幾つになっても、男は恋をするもの。

・青柳 梅との花を 折り挿頭(かざ)し 飲みての後は 散りぬともよし
 
梅花の宴での歌。前の葛井大夫の歌に和しているのか。

     


太宰大監 正六位下 大伴百代 (?〜?正五位下豊前守)

太宰大監として天平2年(730)の梅花の宴に臨んだ大伴百代は、天平10年(738)には兵部少輔、天平13年(741)美作守、天平18年(746)従五位下豊前守、翌年正五位下にすすんだ。    

・ぬば玉の その夜の梅を 手(た)忘れて 折らず来にけり 思ひしものを
 漆黒の闇夜でも梅の香りは匂うのに、何もせずに来てしまった。
  こんなにもそなたのことを思っているのに。

・恋ひ死なむ 後は何せむ 生ける日の ためこそ妹を 見まく欲りすれ
  恋のために死ぬことなどなんでもないが、この世に生きた証拠にひと目なりとも逢いたいものだ。

梅の花 散らくはいづく しかすがに この城(き)の山に 雪は降りつつ
 梅花の宴での歌。梅の花が散っていると言うけれど、ここには雪が降っているのではないですか。


大伴坂上郎女 (700頃生〜750頃没)

大伴坂上郎女は旅人の異母妹である。大変な美人であったらしく、穂積皇子に愛され、皇子薨去ののちは、参議藤原麻呂に愛され、次いで、異母兄大伴宿奈麻呂に嫁いで二人の娘を産む。夫の死後、異母兄旅人を頼って太宰府に渡る。旅人の子、家持には母代わりとして訓育に当たり、大きな影響を与える。採録84首を数える万葉集中最大の女性歌人。

ところで、「郎女」は「いらつめ」と読む。「女郎」も「いらつめ」と読むが、五位以上の貴族の娘を「郎女」、身分の低いものを「女郎」と書き分けたらしい。    


・来(こ)むと云ふも 来(こ)ぬ時あるを 来(こ)じと云ふを 来むとは待たじ 来じと云ふものを
 言葉遊びだが、巧みさはさすがだ。

・黒髪に 白髪(しろかみ)交じり 老ゆるまで かかる恋には 未だ逢はなくに
 これも言葉遊びか、贈答歌であろうか。
 

・夏の野の 繁みに咲ける姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものを
 ひっそりと、可憐な恋心。

・恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛(うつく)くしき 言(こと)尽くしてよ 長くと思はば
 こうして逢っている時は、たくさん愛の言葉を言ってほしい。
 いつまでも愛してほしいから。女心が正直に出ていて好きな歌。

・我が背子に 恋ふれば苦し いとまあらば 拾ひて行かむ 恋忘れ貝
 恋忘れ貝ってどんな貝だろう。

     

筑紫娘子児島(?〜?)

万葉集巻六に、太宰帥大伴旅人が都へ帰る時、水城の駅まで追ってきた児島という名の遊女が、紹介されている。旅人とかなり親しい関係にあったらしい。卑賤の身の女と、高位の貴族の相聞が残されているのも万葉集の特徴であろう。

・凡(おお)ならば かもかも為むを かしこみと 振り痛き袖を 忍びてあるかも
 普通の人ならああもしたいこうもしたい。でも貴方は偉いお方、
 振りたくてならない袖も、じっと我慢しています。


・大和路は 雲隠りたり 然(しか)れども 我が振る袖を 無礼(なめ)しと思ふな
 大和へ帰って、逢えなくなっても、私の振っている袖を、忘れないで。

旅人はこの児島の別れの歌に応えて、次の歌を返す。

・大和路の 吉備の児島を 過ぎて行かば 筑紫の児島 念ほゆるかも
 吉備の児島を通る時に、きっとそなたのことを思い出すだろう。

防人の歌

防人」は「崎守」の意味だとか。東国から集められて、はるばる筑紫に送られ、筑紫、対馬、壱岐に配備されて、唐・新羅の連合軍の来襲に備えた。任期は3年。往きは国費だが、帰りは自費で帰らなくてはならなかったらしい。万葉集巻20に84首が載せられた。父母や妻子、恋人との別れの歌が多いが、中には地元の娘との浮気の歌もあって、彼らの人間らしさをかいま見ることが出来る。    
 
・筑紫なる にほふ子ゆゑに 陸奥(みちのく)の可刀利娘子の 結ひし紐解く
 可刀利娘子は「かとりおとめ」と読むのだろうか。この浮気男め。

・葦の葉に 夕霧立ちて 鴨が音の 寒き夕し 汝をば偲はむ
 寒い夕方に立哨していると、鴨が鳴くにつけ、お前が恋しく思われる

・水鳥の 立ちの急ぎに 父母に 物言はず来にて 今ぞ悔しき
 水鳥が立ち騒ぐようにあわただしく出てきてしまって、もっと両親としみじみした時間を過ごせばよかった。

・忘らむて 野行き山行き 我れ来れど 我が父母は 忘れせのかも
 はるばるこんな遠くまで来てしまったけれど、父母のことが忘れられない。

・百隈の道は 来にしを またさらに八十島過ぎて 別れか行かむ
 こんなに遠くまで来たのに、また船に乗って、もっと先に行くのか。

・旅衣 八重着重ねて寐のれども なほ肌寒し 妹にしあらねば
 お前が居ないので、いくら重ね着をしても夜寒くて眠れない。

・常陸指し 行かむ雁もが 我が恋を 記して付けて 妹に知らせむ
 常陸の方へ雁が帰っていく。
 雁に結び文をつけて、向こうにいる恋人に我が恋心を知らせたい。


・闇の夜の 行く先知らず行く我れを いつ来まさむと 問ひし子らはも
 行先をも知らされず、夜更けに連れていかれる我に、
 「いつ、帰ってくるの?」と問いかけた子供達に、逢いたくてたまらない。

     
筑前国へ

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