40.越後国 JR北陸本線直江津駅 新潟県上越市国府 02.07.13


越後国の国府は、和名抄では頸城(くびき)郡とあるので、上越市の国府地区とする説が
有力だが、まだ、はっきりした遺構は発見されていない。

しかし、親鸞聖人が念仏流布を咎められて、承元元年(1207)に越後の国府に流された
記録があり、親鸞聖人の配流所の跡に、本願寺国府別院があるし、国府という地名も残っ
ているので、この近くが越後国府であったことは確かだろう。



越後総社 (府中八幡宮)


越後総社は、はっきりしないが中世以降は府中八幡宮が総社の機能を果たした。
上杉謙信の直筆の扁額があると聞いて、行ってみたが、越後総社という扁額には
なんと空海筆と書いてあった。まさかとは思うけど。空海という別人の書だろうか。

本殿の中には、有栖川宮の手になる立派な扁額が、立てかけてあったが、この小
さなお堂には、似つかわしくない大きさであった。

府中八幡宮の表示碑 八幡宮本殿


本願寺国府別院


親鸞聖人は、承元元年(1207)鎌倉幕府により念仏停止の弾圧を受けて、越後国府
に流される。配所の竹之前草庵で、六年間の流罪生活を送る。ここで近くの豪族の娘、
恵信尼と結婚、建保二年(1214)、許されて常陸国に旅立つまでここに住んだ。

国府別院の碑 国府別院の本堂


五智国分寺


越後国分寺の跡もまだ見つかっていない。しかし、この地には五智国分寺と称する
立派な寺がある。永禄5年(1562)上杉謙信が国分寺堂宇の腐朽を惜しんで再建
したもので、当時の境内は東西十町、南北八町とあり、明治二年の宗門人別帳に
よると、国分寺領には52世帯、312人が住んでいた。


本堂は文政四年(1821)に再建されたもので、東西12間、南北10間、高さ11間の
堂々たる建物であったが、昭和63年1月、子供の火遊びの不始末から五体の如来
像ともどもに焼失してしまった。

平成9年(1997)に5年の歳月をかけて、新本堂が落成した。

本堂正面 安国山華蔵院国分寺と号す 本堂側面


経堂
元禄6年(1693)の棟札が残る。
三重塔
安政3年(1856)に着工、未だに未完成。


仁王像
山門を守る。天保七年(1836)の作。
なぜか、わらじやら下駄が飾ってある。


五智如来

ところで、なぜ五智国分寺というのだろうと、不思議に思っていたら、タクシーの運転手が
知っていた。さすがに地元だ。
大日如来を初めとする五人の如来様を、五智如来というのだそうだ。

大日如来(法界体性智) 万物を慈しむ太陽の功徳
薬師如来(大円鏡智)   病魔を退散させる医薬の功徳
宝生如来(平等性智)   福徳財宝五穀豊穣の功徳
釈迦如来(成所作智)   知恵聡明の功徳
阿弥陀如来(妙観察智) 往生極楽の功徳

大日如来は仏教で云う胎蔵界の主仏で、他の四仏は金剛界の仏なので、本来は同居する
ことは無いはずだが、一丈六尺の五智如来はなぜか仲良く、我々を守ってくれている。五智
国分寺の謎の一つでもある。
  



古代の国分寺は何処に行った

さて、古代の越後国分寺は、何処にあって、その後どうなったのだろう。
不思議なことに、越後国分寺に関する史料は皆無に近い。

その中で唯一、国分寺の消息を伝える文書がある。
京都相国寺の禅僧 万里集九が残した漢詩による旅行記「梅花無尽蔵」がそれで、
その中に越後国分寺を描いた詩がある。
長享二年(1488)というから、謙信の国分寺再建の74年前の記録である。

堂宇如山冠海涯  (国分寺の堂塔は山のように立派で、海にかぶさるようだ。)
如来盛五宝蓮華  (祭られている如来は、美しく飾られている。)
白盲聞昔得明眼  (昔、盲人がここで目が見えるようになったという。)
梁上至今留琵琶  (感激して置いていった琵琶が、今も梁上にある。)


かっこ内は、私の勝手な解釈だが、「堂宇如山冠海涯」とは、何処のことか、未だにわかっていない。
もしかすると、海に没してしまったのではないかという説もある。現在の五智国分寺は、海には近いが
「冠海涯」という印象ではない。74年の間に何が起こったのであろうか。



越後国一之宮 居多(こた)神社


越後国の一之宮は、居多神社という。弥彦神社も一之宮を名乗るが、中世では上杉氏
と組んだ居多神社が一之宮として、君臨した。しかし、時代が移るに従って勢いは弱まり、
明治12年には海岸侵食のため現在地に移り、のち、火災によって本殿が焼失した。
その後は、仮社殿のまま今日に至っている。もはや昔日の面影はない。

大国主命とその妻奴奈川姫、その子建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀る。

気多大社の系統で、居多をコタではなくケタと呼ぶのが本当だとする説もある。

居多神社入り口 居多神社本殿 仮社殿のままで淋しい。


越後国地図



もうひとつの一ノ宮 弥彦神社(2009.07.29)


越後国にはもうひとつ一ノ宮がある。佐渡島の真南に位置する弥彦神社だ。おやひこさまと呼ばれ、標高638Mの霊峰弥彦山を含む60万坪の神域は、延喜式名神大社の風格を感じさせる。 祭神は天香山命饒速日命の子で、越の国を平定した物部系の神である。

朱塗りの鳥居をくぐると、深閑とした境内には杉や欅の大木が生い茂り、万葉集の次の歌を思い出させる。

いやひこ おのれ神さび 青雲のたなびく日すら 小雨そぼ降る

訪れた日もときおり小雨が降っていた。

弥彦神社                 Panasonic Lumix G1 G-Vario 14-45

中ノ鳥居から続く参道 隋~門


拝殿
明治45年、門前町から出火した火災によりすべての社殿が焼失。大正5年(1916)に再建された。隋~門をくぐると堂々とした拝殿が現れる。入母屋造り、唐破風を付けた銅板葺きである。この後ろに三間社流造りの幣殿と本殿があるが、残念ながら回廊に妨げられて、写真が撮れない。


新潟湊

新潟は古くから、信濃川と阿賀野川が日本海に注ぐ海上交通の要所であった。律令時代には淳足柵沼垂城がおかれ国防上の拠点でもあった。平城京跡から出土した木簡から、六世紀にはこの地の豪族高志深江が、国造に任命されたということがわかっている。

鎌倉、室町時代には信濃川右岸に蒲原津、阿賀野川右岸に沼垂湊が栄え、交易による商業が大きく興隆した。その後、信濃川左岸に新しい湊が作られ、蒲原津に代わって次第に勢力を拡大する。新潟の始まりである。

一時、上杉氏の勢力下に置かれたが、江戸期には長岡藩領となる。
天保14年(1843)、老中水野忠邦は日本海の交通の要衝である新潟を、長岡藩から取り上げ(新潟上知)幕府直轄領とした。幕末まで新潟奉行により統治された。

安政6年(1859)、幕府は朝廷の勅許を待たず、アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、ロシアと修好通商条約を結び、函館、神奈川、兵庫、長崎と新潟を開港。明治2年、明治政府により追認された。


白山神社大船絵馬
嘉永5年(1852)、越後の幕府領の年貢米を運んでいた市島次郎吉が奉納した。
横3メートル60、縦1メートル90という巨大な絵馬で、新潟湊の殷賑ぶりを表している。


新潟市歴史博物館みなとぴあ
信濃川の河口にある博物館。開港当時の運上所や、第四銀行の旧支店など美しい
建造物が目を楽しませてくれる。第四銀行旧支店の中はレストランになっていて、
美味しいフランス料理が、クラシックな雰囲気の中で楽しめる。
新潟運上所(税関)
明治2年に建てられた新潟運上所。
開港された函館、神奈川、兵庫、長崎、
新潟の5港のうち、唯一現存する
運上所建物。国の重要文化財である。
旧新潟市庁舎を模した本館
明治43年に再建された2代目市庁舎を
イメージした建物。
明治の洋館建築の雰囲気を再現している。
大変に美しい建物である。


越後地図 新潟・弥彦神社付近


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