27.越前国 福井県越前市 JR北陸本線武生駅 98.11.14  2013.10.04


    かって越の国と呼ばれた地域があった。現在の福井、石川、富山、新潟の各県にまたがる地域で、朝鮮半島や大陸からの交通路になっていて、先進文化が栄えていた。継体天皇の皇妃の出身地という説もある。

律令時代に入ると、越の国は越前、越中、越後、加賀、能登に分割され、それぞれに国府が置かれた。越前国は都から最も近い国として、越の道の口として栄えた。越前国府は丹生郡武生(太介不)に置かれたと記録にある。武生市は合併で越前市となってしまった。古い由緒ある地名が失われて、ちょっと惜しい気がする。

 
第1回 こしのくに国府サミット 

越の5ヶ国の国府は未だ発見されていない。そこで、国府所在地と推定されている越前市、小松市、七尾市、高岡市、上越市の各市が情報交換をしながら、市民の理解を深め、調査活動を活発化しようと、こしのくに国府サミットが企画され、2013年10月、第1回サミットが、越前市で開かれた。私にも越前市教育委員会からご連絡をいただき、15年ぶりに武生駅に降り立った。

 
 基調講演をする大橋泰夫島根大学教授

基調講演は国府研究の第一人者、島根大学の大橋泰夫教授。先生は栃木県のご出身で、下野国府や、出雲国府の発掘調査で大きな成果を上げられ、最近では隠岐国分寺の発掘を手がけられている。サミット後の見学会で親しくお話をうかがえたのは、私にとって最大の収穫であった。

 
 
 国府サミットの発展を誓う市長達

幻の越前国府
 
越前市役所の前に、武生の地名の起源とされる古代歌謡催馬楽の碑が立っている。 

見知乃久知(みちのくち) 太介不乃己不尓(たけふのこふに) 和礼波安利止(われはありと) 於也尓万宇之太戸(おやにもうしたべ) 己々呂安比乃加世也(こころあひのかぜや) 左支无太知也(サキムダチヤ)

(道の口 武生の国府に 我はありと 親に申したべ 心あいの風や サキムダチヤ)

催馬楽は古代の民俗歌謡で、8世紀末から9世紀にかけて歌われたという。太介不乃己不(武生の国府)は、国府の地名が詠まれた珍しい例で、遠江の見附の国府と2例しか残っていない。サキムダチヤは合いの手だろうか。

その武生の国府、越前国府は未だ発見されていないが、近年、国府や国分寺関連の墨書土器や瓦が発掘され、越前国府が武生地方にあったことがほぼ確認されつつある。サミットの翌日、越前市教育委員会の柚原さんや野澤さんの案内で、市内の発掘現場を見て回った。

国府、国分寺関連の遺物が発掘された場所 

平成8年(1996年)、府中城址に建っている越前市役所の裏手から、多くの瓦や土器が見つかった。古代寺院の瓦や、国府関連の墨書土器だ。すわ、越前国府の発見かと色めき立ったが、、残念ながら発掘された溝は中世に掘られたもので、近くから土砂を運んで埋め立てたのだろうという。その土砂の中に古代の遺物が混入していたとしたら、土砂の採掘現場が古代遺跡だった可能性が高い。

また、総社の裏手にある妙国寺、正覚寺の境内からは、古代の遺構が発掘されており、先の府中城址の遺物と合わせると、国府や国分寺がこの近くにあったことだけは間違いなかろうと思われる。高級官僚が使った緑釉土器や石帯などが発見されれば、そこに国府の役所があったことが確実になるのだが、それらは未だ発見されていない。

   
府中城址G地点  妙国寺境内 
 
 
 国大寺と読める墨書土器

 越前国府推定地

越前国府の推定地は諸説ある。公会堂記念館には主な説の国府域の範囲が表示されていた。

紫式部と越前国府

越前国府は紫式部ゆかりの地でもある。長徳2年(996年)、紫式部の父藤原為時が越前守に任じられる。この時、紫式部は未だ未婚で20歳前後と思われ、父に連れられて越前の国府に来た。式部が生涯に一度だけ都を離れた、その場所がここ越前の国府だったのである。武生の国府は式部にとって忘れることの出来ない、遠い遠い国であったのであろう。

源氏物語には武生の地名が登場する。第52帖浮船で、浮舟の母が別れに際して

「...武生の国府に移ろひたまふとも、忍びては参り来なむを。......

また53帖手習では、横川の僧都の母尼君が琴を弾きながら、催馬楽道口を口ずさむ。

「たけふ、ちちりちちり、たりたむな」
 など、掻き返し、はやりかに弾きたる、言葉ども、わりなく古めきたり。


源氏物語 手習いをする浮舟

いずれも越前国府武生は、都から遠く離れた、鄙びたところとの意がこめられている。若き日の式部にとって武生の国府は、遠い遙かな国という思い出が強かったのだと思われる。


越前総社


 
総社大神 
越前総社は駅前の道をまっすぐに進んだ突き当たりだ。大変立派なたたずまいで、格式の高さを思わせる。

 
 拝殿  掲額
中世、この武生の地に府中城を築いた前田利家が、総社と国分寺をこの地に遷したと記録にある。主祭神は大巳貴命。ほかに国中官社壱百弐拾六座とある。地元ではおそんじゃさんとして崇められている。境内には越前国府の碑も建っていた。

 越前国府の碑


越前国分寺
 越前国分寺 境内のネコ 

 
総社大神の裏にひっそりと国分寺があった。行基上人が一刀彫るたびに、三礼して彫ったと伝えられる「天拝薬師如来」が、度々の火災にも奇跡的に残り、本堂に安置されている。聖武天皇が拝礼されたことから、天拝の御号が有り、秘仏とされ我々は拝むことは出来ない。

当日は特別に堂内に上げていただき、同志社大学の
井上一稔先生から、私たちが拝観している前立如来像が、多分本尊に近いお姿だろうということで、そのお像の拡大写真を見ながら、平安期の仏像の特徴についてお話をうかがうことが出来た。

越前という大国の国分寺だから、往時は七堂伽藍が甍を並べた広壮な寺だったのだろうが、時の流れはなんとも虚しい。
現在、本堂が建っている場所も、往時の広大な境内の一角だろうと推定されている。

本堂の隅で猫が三匹ひなたぼっこ。
   
 武生公会堂記念館
 武生公会堂記念館
記念館には武生地方で発掘された古代遺跡の出土品が、展示されている。当地の豪族佐味氏の盛衰や、周辺に集中する古代寺院の遺構など、私にとって興味あるテーマが盛りだくさんだ。
 

蟹宿「こばせ」

越前といえば、カニだ。越前蟹だ。そして開高健が愛した蟹宿「こばせ」だ。
「こばせ」は武生から車で40分、越前海岸は梅浦という漁港にある小さな宿である。
気のあった仲間と、その「こばせ」で蟹三昧。これを至福と言わずしてなんと言おうか。

2000年の1月22日、その「こばせ」に集いし面々は、右から鈴木、井上、小山、
河合、筆者(小松)、宍戸、斉藤、関口、藤崎のオジン達。



カニの刺身だよ。それも東京なんぞのカニ専門店で出されるような、妙に柔らかい
刺身とは基本的に違うのだ。プリプリした歯ごたえは、さすが越前。
本場もんは違うわ、ねえ、斉藤さん。



甲羅酒はこたえられない。井上さん、うまそうやねえ。



「こばせ」

電話 077−837−0018
人気の宿だから、越前蟹の解禁になる11月10日から、翌年の3月31日までは
かなり前から予約しないと、週末の宿泊は難しい。我らも9月に翌年の予約を入れた。

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