38.越中国 富山県高岡市伏木古国府 JR氷見線伏木駅 02.07.12  17.11.08


越中国は万葉の国である。天平18年(746)若干29歳の大伴家持が越中国守として、赴任する。5年後に都に戻るまで、この国の自然をこよなく愛し、詩情あふれる名歌を残した。万葉集に載る家持の歌は479首を数えるが、そのうちの223首が、越中国守であった時期の歌である。高岡市内には家持を始め、万葉歌人の歌碑がいたるところにある。

 
 高岡駅前の大伴家持像


越中国府跡(勝興寺境内)

越中の国府は、高岡市伏木にあった。JR氷見線の伏木駅からまっすぐに続く坂を登り切ったところが、勝興寺である。浄土真宗の名刹だが、今(2002年)は平成の大修理とかで、大きな覆いがかけられている。関係者以外立ち入り禁止だが、特に頼んで中に入れてもらった。

本堂の裏側に国府跡の碑が、草に埋もれるように立っていた。碑の裏には、家持の歌が刻んである。

あしびきの 山の木ぬれの ほよ採りて
        かざしつらくは 千年寿ぐとぞ


「ほよ」というのはやどり木のことで、髪にかざすとめでたいという。

越中國庁跡の石碑 草に埋もれていた

 勝興寺(重要文化財)
 雲龍山勝興寺は戦国時代の一向一揆の拠点となった城郭寺院で、浄土真宗西派の寺だ。本堂は改修工事中で、大きな覆いがかけられている。平成11年に始めて、完成は平成17年というから、6年にわたる大規模な改修工事である。

勝興寺は蓮如上人土山御坊を始めとする古刹で、承久の乱で佐渡に流された順徳上皇の勅願所である殊勝誓願興行教寺の門徒が、その土山御坊を頼り、のちに勝興寺と称することになる。

一時は、時の城主に反抗して、この地一体を支配したが、天正12年(1584)に富山城主佐々成政により、ここ、古国府の地を与えられた
   
 国の重要文化財「経堂」  本堂の覆い屋根は遠くからでも目を引く

越中の国府を訪ねてから、早くも15年の歳月が流れた。2017年11月、大学時代の友人小谷徹夫君の招きに応じて、白幡善雄君と越中国を再訪した。 勝興寺は見事に修復されていた。
 
 本堂
6年にわたる大改修工事が終わり、平成17年(2005年)再び姿を現した本堂の偉容。 
 
 
越中国廳碑と小谷、白幡両氏 
15年前に訪ねた時は本堂が工事中で、この国庁碑も周囲が草ぼうぼうであったけれど、今はきれいに整備されて、堂々と誇らしげに立っていた。 

国司館跡
大伴家持が住んだであろう国司館の跡が、気象観測所の敷地から発掘されている。付近は古国府とか、古府(ふるこ)といった地名が残り、それが何よりも雄弁に歴史を今に伝えている。

この高台にも東館(ひがしだて)という小字名が残っている。真下に射水川(現在の小矢部川)が流れ、眼前には雪の立山連峰を望む景勝の地であった。

朝床に 聞けば遙けし 射水川
     朝漕ぎしつつ 唱ふ船人


家持の愛した、のどかな風景である。
   
 伏木観測所 なんだか無人の建物のよう  国司館跡の説明版
   
   
文字通り古代の国府を思わせる地名(古府と書いてフルコと読む) 


越中国分寺跡

越中国分寺は勝興寺から北西へ20分ほど歩くと、伏木中学校の裏手にあった。今は、小さな薬師堂がひっそりと建っている。

なぜか、薬師堂を取り巻くように、小さな石仏が並んでいる。

越中国分寺薬師堂 石仏
薬師堂の建っているあたりから、金堂か講堂のような建物の土壇が発掘されている。また、約20メートル南東の民有の墓地には塔跡と思われる基壇があるという。
   
 何だかわからないが古い天部像 塔跡と思われる基壇があった民有の墓地


気多神社(越中一之宮)

国分寺からさらに東へ20分ほど歩くと、越中一之宮の気多神社だ。大鳥居の前に、コンコンと湧き出る清水があり、境内は鬱蒼とした杉林ですがすがしい雰囲気である。

社伝によれば、天平宝字元年(757)、能登国が越中国から分立した後、越の大社と崇められていた能登羽咋の気多大社を、この地に勧請したものと云われている。

木曽義仲、上杉謙信による戦火で灰燼に帰したが、永禄年間(1558〜70)に再建された。現在の本殿は、三間社流れ造り、こけら葺き屋根の室町時代の建築で、国の重要文化財である。

馬並めて いざ うち行かな 渋谷(しぶたに)の
       清き磯廻(いそみ)に 寄する波見に


拝殿 本殿

万葉の世界
 寺井
勝興寺から国分寺に行く途中に、寺井と呼ばれた井戸の跡があった。大伴家持が越中時代に詠んだ歌の中でも、もっとも有名な歌。

もののふの 八十乙女らが 汲みまがふ
         寺井の上の 堅香子(かたかご)の花


の歌碑が立っている。堅香子はカタクリの古名。この井戸の周りに、たくさんのカタクリの花が咲いていたのだろうか。
寺井 堅香子の歌碑
万葉歴史館
気多神社から15分ほど南に歩くと、高岡市ご自慢の万葉歴史館に出る。
大伴家持
越中守だった頃を中心に、万葉集の資料が集められている。

家持の一生を、立体的な電気仕掛けの人形と、映像とで紹介する「家持劇場」や、万葉集に登場する植物を集めた「万葉の庭」などが見ものである。

万葉集の古写本なども展示されていて、万葉愛好家にはたまらない魅力だろう。

万葉集から私の好きな家持の歌を、いくつか挙げる。

春の苑 紅にほふ 桃の花 
     下照る道に 出で立つ娘子(おとめ)

うぐひすの 鳴き散らすらむ 春の花
        いつしか君と 手折りかざさむ

玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の
      声の恋しき 時は来にけり

ふりさけて 若月見れば ひと目見し
       人の眉引(まよびき) 思ほゆるかも
 
   
 正面エントランス  展示館
   
 
左:小谷徹夫君  右:白幡善雄君 
 15年後の再訪。エントランスには春の苑の歌碑と古代の家持が立っていた。

 越中三人旅
2017年11月、白幡善雄君と富山市在住の小谷徹夫君を訪ねて、越中国を再訪した。小谷君の完璧な旅程で、素晴らしい旅を楽しんだ。越中国はほとんど今の富山県に重なる。
 
   
11月8日(水)、白幡君と一緒に北陸新幹線で宇奈月温泉駅。小谷君と落ち合い、まずはトロッコ列車に乗って、黒部峡谷へ。欅平は紅葉の真っ盛り。 
 
 欅平の絶景
黒部峡谷から富山市内へ入り、 廣貫堂という老舗薬品会社の資料館、珍しいガラス美術館を見学して、富山駅中のハ兆屋で夕食。たまたま富山へ来ていた戸田君も合流して、楽しい宴会。
 
 五箇山菅沼
2日目は、飛騨の白川郷と並んで名高い合掌造りの集落、五箇山へ。観光地化した白川郷に比べて、素朴な雰囲気が漂う。平家の落人が隠れ住んだひっそりとした雰囲気が良い感じだ。
 
   
 五箇山の合掌造り集落は、菅沼地区相倉地区とに別れている。菅沼には9戸、相倉には23戸の合掌造り民家が現存している。1995年、白川郷とともにユネスコの世界遺産に登録された。氷見漁港でうまい寿司を食べて、高岡の万葉歴史館、伏木の勝興寺、大きな高岡の山車を見たあと、国宝瑞龍寺。盛りだくさんの行程であった。

越中旅行の最終日は、北前船で栄えた岩瀬浜。富山駅から富岩運河をクルーズ船で富山湾に向かうと、日本では珍しい船のエレベーター、中島閘門を通過する。富山湾に出て岩瀬浜で上陸する。岩瀬の町は北前船で栄えた廻船問屋が軒を連ねる。
   
 廻船問屋森家  岩瀬新川町通り
趣のある町並みである。小谷君は北陸銀行の役員を勤めた。 白幡君も三菱銀行。私の友人には珍しい硬派銀行マンのご両人である。
 
   
 おかみさんと並んで  私は一足早く喜寿になった。
 料亭 松月の女将は明るく気さくな人であった。 我らと同年配だろうか。3人のうちで私が一番年長。つまりそれだけ浪人時期が長かったというわけ。

 
磯料理「松月」は由緒正しい料亭である。 私たちの越中旅行はここで格式高く、大団円を迎えた。この旅を企画してくれた小谷君、白幡君に感謝。楽しい思い出が増えました。


越中国地図





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