20.飛騨国 岐阜県高山市 JR高山本線高山駅 98.05.23



飛騨総社


飛騨高山駅から北へ少し走ると東側に立派な社がある。飛騨總社である。



飛騨の延喜式内社八座と、国史に記載された十座を祀る。
承平元年(931)の創祀と伝えられている。
拝殿は匠の国飛騨にふさわしい立派なもので、社名額は
山岡鉄舟による。






飛騨国府はいずこ?


さて飛騨国府だが、高山市の国分寺と總社を結ぶ線の西側に、国府域があったことは間違いない
のだが、未だ遺構が発見されていない。

高山の北に国府という町があるというので、行ってみた。

あった、あった。まぎれもない。

国鉄高山本線の飛騨国府駅。
最初にこの地に国府が置かれ、八世紀前半に高山へ移ったのだろうか。

それにしては、町のどこにも国府の説明がないし、それらしい史跡もない。

2001年8月24日、現地の教育委員会から私の問い合わせに、電話でお答え
いただいた。驚いたことに、明治時代の村長が、この地には古いものが沢山あ
るので、飛騨国府という村名にしちゃったんだそうな。これにはびっくり。
古代の国府とは何の関係もないみたいだという。明治っておおらかな時代だったんだ。

地元の方からの反論
地元の方から反論が寄せられた。私も時間が無く満足な取材をせずに、飛騨の項を載せたことを反省している。機会があったら再訪して、国府町の地名、遺跡を訪ねるつもりである。メールをいただいた方に感謝し、下記にその要旨を抄録させていただく。

私は、飛騨国府の名称の由来について、単に「古いものが沢山あるので、村名にしちゃった」などというその教育委員会の回答が余りにも郷土の歴史に対してのまったくの無知・無関心に心外でなりません。

この国府町の広瀬町桜野付近には集中的に『鴻ノ宮』『こふ峠』『こふ平』『鴻野』『こうの瀬』などの地名が今でも残っています。ご存知でしょうが、この『こう』『こふ』というのは「国府」の古代の呼び方です。
また、飛騨地方には古代の古墳が520基以上現存確認されていますが、そのうちの4分の3以上がこの国府町にて確認されています。
その中で、「こふ峠口古墳」とよばれる岐阜県最大の石室を持つ前方後円墳や、発見されているものでは東海地方最古の前方後円墳と目される「大塚古墳」というのも現存します。
その他、古代寺院が飛騨では13確認されていますが、このうち6寺院は国府地区で確認されています。ちなみに旧高山市内には2寺院が確認されているにとどまります。
その他、飛騨で唯一の国宝指定の寺院経蔵や、国指定重要文化財の数の多さなど、古代における飛騨地方の中心地であったであろう状況証拠としては他を圧倒的に凌駕しているわけです。旧高山市に国府が置かれていたという事実があったとしても、それ以前の時代(奈良時代以前)には国府地区に置かれていたと考えられている説はなんら不思議なことではありません。国府を決定付ける遺跡が確認されていないという点を挙げれば、旧高山市も同じわけですからそれだけで国府地区の国府設置が否定される理由にはまったくならないでしょう。

その他の事例も多数あり、挙げたらきりがないので割愛しますが、このような状況を貴殿にご理解いただきたくメールさせていただいた次第です。




ちょっと一休み。
飛騨国府駅の脇で、一服する愛車プリウス。



飛騨国分寺


飛騨国分寺はJR高山駅のすぐ近くにある。
今まで何度も高山に来ているが、一度も気が付かなかった。不思議なものである。


飛騨国分寺の創建は天平一八年(746)で、寺料は5千束だから全国の国分寺の中で
もっとも規模が小さい寺のひとつだ。

現国分寺は医王山と号する真言宗の寺で、天平の国分寺の寺域に重なるように建っている。
飛騨領主金森氏の庇護を受け、街中にありながら静寂なたたずまいを残している。



三重塔
東側に美しい三重の塔がある。

文政四年の建造で、
飛騨では唯一の塔建築とか。

大日如来を安置してある。
七重塔心礎
天平の詔勅により建てられた七重の塔は、
三重の塔の裏側に心礎を
残すだけである。


本堂
室町初期の建築で、国の重要文化財である。
薬師如来像を本尊とする、
鐘楼門。
国分寺の晩鐘は、飛州八景の随一とされる。


飛弾国地図



高山市地図



出来たばかりの安房トンネルを抜け、松本から長野道、中央道で
蓼科まで帰ってきた。途中、工事渋滞で往復8時間のドライブで
あった。ここ、ペンションポロネーズで同期会の夜が更ける。



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