56.肥後国 熊本市国府本町 JR豊肥本線新水前寺駅 04.07.10
熊本城 肥後国の象徴だが、明治10年(1877)の西南戦争で焼失。 この天守閣は昭和35年(1960)の復元である。 |
肥後国は火の国である。阿蘇山への崇敬を基礎にした集団、火の君を中心とした豪族の住む土地であった。火君、肥君、肥公などと表記されて古代文献に登場する。火がどうして肥になったのかはわからないが、わたしは活火山阿蘇山を、心の拠り所にした一族だったと思っている。 肥後国は、豊かな国であった。九州ただひとつの大国であった。14郡を擁し、米だけでなく、豊富な海産物や絹を産し、朝鮮半島とも交易があったと思われる。肥君は九州各国を巻き込んだ磐井の乱のあとも、しぶとく生き残り、大和朝廷との関係をより強めていった。 |
肥後国府 |
肥後国府は3回遷ったらしい。最初、 最初に国府が置かれた託麻郡は、現在の熊本市国府地区で水前寺公園の西側一帯であると思われる。国府本町に三宝大高神という宮がある。「高」が「国府」につながるのではないかと思うが、この宮を中心にして、白山神社を東南の端にした国庁官衙域が想定される。 飽田郡の国府は、熊本駅の近くの二本木遺跡がそれではないかと想定されている。2005年から発掘調査が進められているが、2007年11月には、井戸と思われる部分から中国宋代の白磁、青磁が43点完全な形で出土し、話題になった。国府関連の富裕層の屋敷跡ではないかと推定されている。 |
国府本町の表示 古代の国府の存在を現代に伝えている |
大高神の鳥居 バス通りに面した狭い路地の奥にあった |
大高神の本殿 狭い入口からは想像できない立派な本殿。 拝殿を伴う流れ造り。 |
三宝大高神の扁額 拝殿に掲げられた扁額 由緒を聞きたかったが、留守であった。 |
白山神社 ちょうど大祓祭の当日で、茅の輪の準備を していた。 |
白山神社拝殿 この宮が肥後国の初期国庁域の東南隅 にあたるという。 |
肥後国託麻国庁の位置 奈良時代の肥後国庁域は白山神社、大高神を含む220メートル四方と推定され、 正殿、東西の脇殿、倉庫などが整然と建っていたと推定されるが、現在では民家が 建て込んでおり、発掘調査は不可能に近い。 |
肥後国総社 |
総社が確認できるのは、最後の国府所在地の飽田郡にある総社神社だけである。 今は、熊本市万町2丁目21番地にある駐車場の一角に、古びた社が残っている。 新興宗教「生長の家」の大きな施設の裏と言った方がわかりやすいかもしれない。 |
総社神社 石段と鳥居と拝殿が微妙に傾いていて 撮影に苦労した。 |
総社神社の額 石の鳥居に掲げられた総社神社の額。 祭神は建速須佐之男命と荒御霊とある。 |
肥後国分寺 |
肥後国分寺は託麻国府に近接して残っている。国府が移動した後も、国分寺はここに在り続けたのだろう。残っていると言っても若干の礎石と、ものすごく大きな塔の心礎が残るだけだが。 弘仁式の寺料は6万束、延喜式の寺料は4万7千束と豊富で、全国でももっとも豊かな国分寺のひとつだった。残念ながらたび重なる兵火で焼失、現在は見る影もない。 |
昭和55年(1980)熊本市出水の道路拡幅工事の現場から、大量の布目瓦が出土した。翌56年に熊本県文化課による本格的な発掘調査が行われた。この調査によって、古代の肥後国分寺の全容が明らかになった。それによると約220M四方の広大な境内に、金堂、講堂、七重塔が立ち並ぶ堂々たる大伽藍であった。様式は金堂と塔を東西に並べ、奥に講堂を配する法起寺式伽藍ではないかと推定される。 |
肥後国分寺の伽藍想定図(松本雅明氏による) |
塔と講堂の推定図 |
塔を回廊が囲む珍しい様式だ。講堂は現国分寺の本堂から東に9間、南北4間ではなかったかと推定されている。金堂は熊野神社の北端から東へ国道をまたいで建っていたと考えられる。 |
七重塔心礎 なぜか近くの熊野神社境内にある。 巨大な礎石で長径2.6M、短径2.4M。高さ1.8M |
熊野坐神社 |
国分寺七重塔心礎 |
祭神は伊奘冉神(いざなみのかみ)ほか五柱。 なぜかこの境内に国分寺の礎石がドーンと置かれている。右奥の猿田彦の碑の台石も国分寺の礎石らしい。 |
現国分寺本堂 | 国分禅寺の掲額 |
国分寺の法灯は、今も連綿と続いており、医王山と号する曹洞宗の寺になっている。本尊は薬師如来像。 |
宝篋印塔と笠塚 | 笠塚 |
天文22年(1553)の銘がある宝篋印塔と、芭蕉の句を刻んだ笠塚。 吉野にて 桜見せうそ 檜笠 |
味噌天神 | 味噌天神由緒 |
国分寺の味噌倉の守護神だったので、味噌天神と呼ばれる。本村神社が本名だそうだ。今では国分寺より有名だ。 はじめ神楽の神「御祖天神」を祀り、後に国分寺の味噌倉の守護神となり、全国唯一の味噌の神様になった。 |
阿蘇神社(肥後一之宮) |
肥後一之宮は阿蘇神社である。延喜式に健磐龍命神社として名神大社とされた由緒ある神社である。健磐龍命(たけいわたつのみこと)は神武天皇の孫であり、地元の豪族の娘 阿蘇都比刀iあそつひめ)を娶って、この地を治めたという。彼の子孫である阿蘇氏は、阿蘇国造として栄え、朝廷の阿蘇神社尊崇とともに、この地に勢力を張ってきた。活火山阿蘇山の活動は、国家の安泰に直結しているとして、阿蘇神社の神階は累進し、阿蘇氏は大宮司家として重んじられる。 狩猟の神として、阿蘇の草原を舞台に行われた巻狩の神事は、源頼朝が主催した富士の大巻狩の原型でもある。実際、頼朝は梶原景時を阿蘇神社に派遣して巻狩神事を実見させている。 |
阿蘇山草千里 阿蘇山は雄大である。見渡す限りの草原。有名な草千里だ。 ところで、この阿蘇山、随の歴史書「隋書東夷伝倭国」の条に登場する。 倭国は百済・新羅の東南にあり。...................中略....................... 阿蘇山あり。その石、故なくして火起こり天に接する者、俗以て異となし、祀祭を行う。.........中略.........新羅・百済、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬迎し恒に通使・往来す。大業三年、その王多利思比孤、使を遣わして朝貢す。.....中略...........その国書にいわく、「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子に致す。恙なきや.」と。帝、これを覧て悦ばず、、、、、、後略 隋の大業3年は西暦607年、日本では推古天皇15年に当たる。初の遣隋使派遣の隋側の記事中に、阿蘇山が出てくることに注目である。 |
楼門 |
拝殿 |
楼門は嘉永2年(1849)の再建。2層楼山門式の堂々たる楼門で、 高さは21M。神社の神門としては珍しい様式で、仏教の影響が強く出ている。常陸の鹿島宮、筑前の筥崎宮の楼門とともに、日本3大楼門に数えられる。 拝殿は豪壮な入母屋檜皮葺。本殿は3棟あるのだが、拝殿は中央から一度に拝礼する。 参道は楼門、拝殿に対して横向きにつく。参道の北に国造神社、南に阿蘇山が繋がる。 |
一の本殿 左に一の本殿、中央奥に別殿、右に二の本殿が並ぶ。天保14年(1843)の建立。千鳥と唐破風付きの平入総檜の流造。一の本殿に健磐龍命以下5柱の男神を、二の本殿に阿蘇都比当ス以下5柱の女神、別殿に二柱の男神を祀る。 |
願かけ石 | 高砂の松 |
願かけ石は健磐龍命が、祖神に願掛けをしたという磐の一部。深く念じてこの神石を撫でると願いが叶うと言い伝えられている。 阿蘇神社第26代宮司阿蘇友成は、播磨国尾上で、縁起の良い松に出会った。その実を持ち帰り植えたのが、この高砂の松である。 世阿弥の謡曲「高砂」の冒頭に 我こそは、九州肥後国阿蘇の宮の神主友成とは、我がことなり とある。縁結びに霊験あらたかだとか。 |
肥後国地図