常陸国風土記 |
筑波山 |
常陸国府跡 |
平成13年(2001)10月から翌14年(2002)3月にかけて、常陸国衙跡の
第一次学術調査が行われた。それによると、市立石岡小学校の体育館前の
校庭に、常陸国庁の正殿、前殿、南門跡と考えられる掘立建物の跡が発見さ
れた。国司館か、曹司(行政実務施設)ではないかとも考えられるが。
国庁正殿とみられる建物は、東西24M、南北11mの掘立柱による南北2面庇
付き建物である。
(2002.06.06取材)
石岡小学校の体育館と校庭 | この下に常陸の国庁があるんだぞ |
2002年(平成14年)10月から2003年3月にかけて、第2次学術調査が行われ
前年に発見された国庁正殿とみられる建物と直行する、南北に長い掘立建物が
出てきた。東の脇殿に当たると思われるが、正殿とこの建物の間に塀の痕跡が認
められ、どうも正殿と脇殿にしては説明がつかないことになってしまった。第4次
までこの調査は続くそうなので、今後の発掘に期待したいところである。
(2003年3月9日(日)取材 NIKON5700)
第2次調査現地説明会 平成15年3月9日現地説明会には、 大勢の歴史好きが集まった。 |
南北に長い掘立建物 東西5.4M、南北15M以上の建物で 西側に塀がなければ、脇殿跡だと 言い切っていいのだが。 |
出土した軒丸瓦 | 灰釉陶器 |
出土品は瓦以外は、陶器や硯の破片が少し出ただけで、国庁跡にしては、 出土品が寂しいのが気になる。 |
承平・天慶の乱 |
律令制がまだ国家のシステムとして機能していた平安時代の中期、そのシステムを 脅かす乱が起こった。前鎮守府将軍平良将の子 平将門の乱である。 承平五年(935)2月平将門は常陸大掾 源 護、叔父の下総介 平良兼、その兄 平国香と戦い勝利を収める。承平の乱の始まりである。この時はまだ私闘であった。 しかし、朝廷から謀反の疑いをかけられる。 国香の子平貞盛は朝廷に訴え出ようとして信濃路を京へ向かうが、将門が追ってきて、 信濃国分寺のあたりで追いつき、激しい戦いになる。信濃国分寺はこの時焼失した。 天慶二年(939)11月21日ついに将門は武蔵権守興世王、常陸掾藤原玄茂(はるしげ) らとともに兵を起こし、常陸国の国府を攻め支配の象徴である印鑰(いんやく)を奪い、 朝廷に対する反乱の口火を切った。 太平の世を震撼させた大事件は、ここ常陸国府を舞台に幕を開けたのであった。 将門はその後、下野国府を落とし、12月15日、上野国府に入り八幡大菩薩の神託を 受けたとして、「新皇」と称する。 天慶三年(940)、国香の子 平貞盛、下野国押領使 藤原秀郷は四千の兵を率いて 将門を攻め、2月13日首級をあげる。 醍醐天皇の御代、貞信公藤原忠平が政権にあり、比較的安定した時代であった。 平貞盛から六代目の子孫が平清盛、藤原秀郷から七代目の子孫が奥州平泉の藤原 秀衡である。 |
常陸総社宮 |
神門 江戸時代前期の建物らしい。左右に随身像を置く。 |
拝殿 拝殿は西に向いている |
常陸国総社境内 |
随身像 延宝八年(1680)作の墨書がある。 | なぜか、日本武尊の腰掛けた石があった。 |
常陸国分寺 |
国分寺南大門跡 | 中門の跡 ここに天正二年(1574)完成の仁王 門が建っていたが、明治四一年焼失した。 |
常陸国分寺は、寺料六万束というから、全国の国分寺の中でも最大規模の国分寺といえる。
東西270M、南北240Mの広大な敷地に、南大門、中門、金堂、講堂を中軸線上に並べ、
東側に七重塔を置く大伽藍が周囲を圧していた。
しかし、天正一八年(1590)佐竹氏と大掾氏との戦で兵火を受け、ことごとく灰燼に帰した。
七重塔の心礎 実際の塔は境内の東側に 建っていたらしい。 |
金堂跡 ここに残されている基壇の四倍の規模 を持っていたことがわかっている。 |
現国分寺本堂 浄瑠璃山と号する真言宗の寺。 | 薬師堂 本尊の薬師如来は秘仏である。 |
唐門より本堂を望む。本堂とともに末寺千住院 から移した。 |
唐門の上にある彫刻 大鷲が猿に襲いかかって いると見えるが、無明の闇をさまよう人間を猿に 譬え、慈悲深い観音様の化身の大鷲が、救い上 げているんだそうな。 |
扇歌堂 |
鹿島神宮(常陸一之宮) |
延喜式で神宮と称されるのは、伊勢神宮、香取神宮とここ鹿島神宮の三宮だけである。
最近は至るところに神宮を称する宮があるが、古代から一貫して神宮を称する本物の
神宮である。
祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)。
出雲の国譲りに反対した建御名方命(たけみなかたのみこと)を諏訪まで追っていって、
封じ込めた軍神である。
東国で徴発され、九州の防衛に当たらせられた防人(さきもり)たちが、旅立ちの前に、
この宮の前に集まり、祈りをささげた。鹿島立ちの起源である。
万葉集巻二十に防人の歌が集められている。
霰降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍(すめらいくさ)に 我は来にしを (大舎人部千文)
今日よりは 返り見なくて 大君の 醜(しこ)の御楯と 出で立つ我は (今奉部与曽布)
橘の 下吹く風の かぐはしき 筑波の山を 恋いずあらめかも (占部広方)
一之鳥居 | 拝殿 |
<おまけ>
ガマの油売りの口上 さあ、さあ、お立ち会い。 ご用とお急ぎのない方は、ゆっくりと聞いておいで。遠目、山越え笠の内、聞かざる時は 物の黒白と理方善悪がトーンとわからない。 山寺の鐘がゴーンゴーンと鳴るといえども、童子一人来たって鐘に撞木をあてざれば、 鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのか、打つ撞木、打たれる鐘、鐘と撞木の鳴りくらべ、トント その音色がわからぬが道理だ。 さあてお立ち会い。 手前ここに取りいだしたるは、筑波山名物陣中膏は四六のガマだ。縁の下や流しもと、 そんじょそこらに居る蟇とは、蟇が違う、そんなものには薬石効能がない。 手前のは四六の蟇だよ、四六の蟇。四六五六はどこで見分ける。前足の指が四本、 後ろ足の指が六本、名付けて蟇蝉躁は四六の蟇だ。この蟇の捕れるは、五月、八月、 十月なるをもって、一名五八十は四六の蟇とも言う。何時でも捕れるというわけには参らぬ。 この蟇の住むところ、ご当地古事記万葉の古より詠われました。 「筑波嶺の峰より落つる男女川 恋ぞつもりて淵となりぬる」 関東の霊峰、筑波山のふもと、臼井、神郡、館、六所、東山から西山、部落にかけて生いて いる大葉子という露草、薬草、俗に言う蛙っ葉、これを食らって育ちまする。 さあて、この蟇から油を取るにはどうするか。 山中深く木の根、草の根、分け入って捕らいきましたる蟇を、金網鉄板を敷き、四画四面の ギヤマン、鏡張りの箱の中に追い込む。さあ、ガンマ先生、鏡に映る己の醜い姿に、びっくり 仰天、ひたいよりタラーリタラリと流す冷や汗、油汗、これをば金網にすきとりまして、三七は 二十と一日のあいだ、柳の小枝をもってトローリ、トロリと煮炊きしめ、赤い辰砂に椰子油、 テレメンテーナ、マンテーカ、唐天竺南蛮渡来の妙薬を練り合わせ、混ぜ合わせてこしらえた のが、ご存知、葵の紋は陣中膏、蟇の油だ。(以下略) |
常陸国地図