12.常陸国 JR常磐線石岡駅 茨城県石岡市 '97.07.28 '02.06.06 '03.03.09
常陸国風土記

常陸国は東海道の終点であった。
常陸国風土記は「播磨」、「出雲」、「肥前」、「豊後」の風土記とともに現在まで残っ
た数少ない貴重な史料である。

和銅6年(713)に各国の名を、好字2字で表し、産物や土地の名の由来を記した
「風土記」を選進するよう官命が出された。それに基づき養老7年(723)に常陸の
国守であった藤原宇合(うまかい)が、常陸国風土記を編纂したと伝えられる。

それ、常陸の国は,堺はこれひろく、地(くに)もまたはろかにして、土壌(たはたけ)
も沃(つち)こえ、原野も肥(つち)こえてひらくところなり。海山の幸ありて、人々やす
らかに、家々にぎわへり。、、、、、(略)、、、、、、、
古(いにしへ)の人、常世の国といへるは、けだし疑ふらくは、此の地(くに)ならむ。



筑波山

日本書紀巻第七景行天皇記に、日本武尊と火の番の老人との有名なやりとりがある。
連歌のはじめとされる歌だ。

新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる     尊

かがなべて 夜には九夜 日には十日を  翁

1999年12月19日、その筑波山と袋田の滝を訪ねた。

筑波山神社

この宮は筑波山をご神体としている。筑波山は男女二峰が並んでおり、それぞれに
本殿がある。御祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊とされる。

4月1日は御座替り神事がある。山頂のご神体の宮に新しい神御衣(かんみそ)を奉納、
替わりに古い神御衣を里宮に納める。

そしてここは歌垣の地でもある。古代の男女の愛の場だ。筑波の山が古代から歌に詠
われてきた由来でもある。

筑波嶺の 峰よりおつる男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる    陽成院

下は筑波山神社の里宮



常陸国風土記より

それ筑波岳は、高く雲に秀で、最頂は西の峰、さかしく高く、雄の神と謂ひて、
登らしめず。唯、東の峰は四方盤石(よもいわほ)にして、昇り降りは峡はしく、
そばだてるも、そのかたはらに泉流れて、冬も夏も絶えず。坂より東の諸国の
男女、春の花の開くる時、秋の葉の黄づる節、相携ひつらなり、飲食(をしもの)
をもちきて、騎(うま)にも歩(かち)にも登り、遊楽しみあそぶ。



常陸国府跡

常陸国府は現在の茨城県石岡市に置かれた。
石岡市は人口53000人の小さな町である。東京の上野から特急ひたちに乗って、
約1時間、土浦の一つ先の駅である。



国府の跡は石岡小学校の中にあった。

平成13年(2001)10月から翌14年(2002)3月にかけて、常陸国衙跡の
第一次学術調査が行われた。それによると、市立石岡小学校の体育館前の
校庭に、常陸国庁の正殿、前殿、南門跡と考えられる掘立建物の跡が発見さ
れた。国司館か、曹司(行政実務施設)ではないかとも考えられるが。

国庁正殿とみられる建物は、東西24M、南北11mの掘立柱による南北2面庇
付き建物である。


                                   (2002.06.06取材)

石岡小学校の体育館と校庭 この下に常陸の国庁があるんだぞ


2002年(平成14年)10月から2003年3月にかけて、第2次学術調査が行われ
前年に発見された国庁正殿とみられる建物と直行する、南北に長い掘立建物が
出てきた。東の脇殿に当たると思われるが、正殿とこの建物の間に塀の痕跡が認
められ、どうも正殿と脇殿にしては説明がつかないことになってしまった。第4次
までこの調査は続くそうなので、今後の発掘に期待したいところである。

                               (2003年3月9日(日)取材 NIKON5700)

第2次調査現地説明会
平成15年3月9日現地説明会には、
大勢の歴史好きが集まった。
南北に長い掘立建物
東西5.4M、南北15M以上の建物で
西側に塀がなければ、脇殿跡だと
言い切っていいのだが。


出土した軒丸瓦 灰釉陶器
出土品は瓦以外は、陶器や硯の破片が少し出ただけで、国庁跡にしては、
出土品が寂しいのが気になる。



承平・天慶の乱
律令制がまだ国家のシステムとして機能していた平安時代の中期、そのシステムを
脅かす乱が起こった。前鎮守府将軍平良将の子 平将門の乱である。

承平五年(935)2月平将門は常陸大掾 源 護、叔父の下総介 平良兼、その兄
平国香と戦い勝利を収める。承平の乱の始まりである。この時はまだ私闘であった。
しかし、朝廷から謀反の疑いをかけられる。

国香の子平貞盛は朝廷に訴え出ようとして信濃路を京へ向かうが、将門が追ってきて、
信濃国分寺のあたりで追いつき、激しい戦いになる。信濃国分寺はこの時焼失した。

天慶二年(939)11月21日ついに将門は武蔵権守興世王、常陸掾藤原玄茂(はるしげ)
らとともに兵を起こし、常陸国の国府を攻め支配の象徴である印鑰(いんやく)を奪い、
朝廷に対する反乱の口火を切った。

太平の世を震撼させた大事件は、ここ常陸国府を舞台に幕を開けたのであった。



将門はその後、下野国府を落とし、12月15日、上野国府に入り八幡大菩薩の神託を
受けたとして、「新皇」と称する。

天慶三年(940)、国香の子 平貞盛、下野国押領使 藤原秀郷は四千の兵を率いて
将門を攻め、2月13日首級をあげる。

醍醐天皇の御代、貞信公藤原忠平が政権にあり、比較的安定した時代であった。
平貞盛から六代目の子孫が平清盛藤原秀郷から七代目の子孫が奥州平泉の藤原
秀衡
である。



常陸総社宮

国府跡の西側に常陸総社宮がある。毎年9月14日から行われる例大祭は、
石岡の町を挙げての賑やかな祭りである。

神門 
江戸時代前期の建物らしい。左右に随身像を置く。

祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、大国主尊
など六柱。一説に鹿島神宮、静神社、吉田神社、大洗磯前社、酒列磯崎社、
稲田神社、筑波社の七社を祀るという。


拝殿
拝殿は西に向いている
常陸国総社境内


随身像 延宝八年(1680)作の墨書がある。 なぜか、日本武尊の腰掛けた石があった。



常陸国分寺

常陸国分寺は石岡の町の北のはずれにあった。

国分寺南大門跡 中門の跡 ここに天正二年(1574)完成の仁王
門が建っていたが、明治四一年焼失した。

常陸国分寺は、寺料六万束というから、全国の国分寺の中でも最大規模の国分寺といえる。
東西270M、南北240Mの広大な敷地に、南大門、中門、金堂、講堂を中軸線上に並べ、
東側に七重塔を置く大伽藍が周囲を圧していた。

しかし、天正一八年(1590)佐竹氏と大掾氏との戦で兵火を受け、ことごとく灰燼に帰した。


七重塔の心礎 実際の塔は境内の東側に
建っていたらしい。
金堂跡 ここに残されている基壇の四倍の規模
を持っていたことがわかっている。


現国分寺本堂 浄瑠璃山と号する真言宗の寺 薬師堂 本尊の薬師如来は秘仏である。

唐門より本堂を望む。本堂とともに末寺千住院
から移した。
唐門の上にある彫刻 大鷲が猿に襲いかかって
いると見えるが、無明の闇をさまよう人間を猿に
譬え、慈悲深い観音様の化身の大鷲が、救い上
げているんだそうな。



扇歌堂



薬師堂の裏に小さな堂が一つ建っている。

都々逸を江戸に流行させた都々逸坊扇歌の堂だ。

風刺の効いた都々逸を流行させた罪で、江戸を追われ
この地で没したという。

彼の作と言われる都々逸を、紹介しよう。

こうして こうすりゃ こうなるものと 知りつつ こうして こうなった。

諦めましたよ どう諦めた 諦めきれぬと 諦めた。



鹿島神宮(常陸一之宮)


延喜式で神宮と称されるのは、伊勢神宮、香取神宮とここ鹿島神宮の三宮だけである。
最近は至るところに神宮を称する宮があるが、古代から一貫して神宮を称する本物の
神宮である。

祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)。
出雲の国譲りに反対した建御名方命(たけみなかたのみこと)を諏訪まで追っていって、
封じ込めた軍神である。

東国で徴発され、九州の防衛に当たらせられた防人(さきもり)たちが、旅立ちの前に、
この宮の前に集まり、祈りをささげた。鹿島立ちの起源である。

万葉集巻二十に防人の歌が集められている。

霰降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍(すめらいくさ)に 我は来にしを    (大舎人部千文)
今日よりは 返り見なくて 大君の 醜(しこ)の御楯と 出で立つ我は     (今奉部与曽布)
橘の 下吹く風の かぐはしき 筑波の山を 恋いずあらめかも          (占部広方) 

一之鳥居 拝殿


<おまけ>

ガマの油売りの口上

さあ、さあ、お立ち会い。
ご用とお急ぎのない方は、ゆっくりと聞いておいで。遠目、山越え笠の内、聞かざる時は
物の黒白と理方善悪がトーンとわからない。

山寺の鐘がゴーンゴーンと鳴るといえども、童子一人来たって鐘に撞木をあてざれば、
鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのか、打つ撞木、打たれる鐘、鐘と撞木の鳴りくらべ、トント
その音色がわからぬが道理だ。

さあてお立ち会い。
手前ここに取りいだしたるは、筑波山名物陣中膏は四六のガマだ。縁の下や流しもと、
そんじょそこらに居る蟇とは、蟇が違う、そんなものには薬石効能がない。
手前のは四六の蟇だよ、四六の蟇。四六五六はどこで見分ける。前足の指が四本、
後ろ足の指が六本、名付けて蟇蝉躁は四六の蟇だ。この蟇の捕れるは、五月、八月、
十月なるをもって、一名五八十は四六の蟇とも言う。何時でも捕れるというわけには参らぬ。
この蟇の住むところ、ご当地古事記万葉の古より詠われました。

「筑波嶺の峰より落つる男女川 恋ぞつもりて淵となりぬる」

関東の霊峰、筑波山のふもと、臼井、神郡、館、六所、東山から西山、部落にかけて生いて
いる大葉子という露草、薬草、俗に言う蛙っ葉、これを食らって育ちまする。

さあて、この蟇から油を取るにはどうするか。
山中深く木の根、草の根、分け入って捕らいきましたる蟇を、金網鉄板を敷き、四画四面の
ギヤマン、鏡張りの箱の中に追い込む。さあ、ガンマ先生、鏡に映る己の醜い姿に、びっくり
仰天、ひたいよりタラーリタラリと流す冷や汗、油汗、これをば金網にすきとりまして、三七は
二十と一日のあいだ、柳の小枝をもってトローリ、トロリと煮炊きしめ、赤い辰砂に椰子油、
テレメンテーナ、マンテーカ、唐天竺南蛮渡来の妙薬を練り合わせ、混ぜ合わせてこしらえた
のが、ご存知、葵の紋は陣中膏、蟇の油だ。(以下略)

常陸国地図








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