47.肥前国 佐賀県佐賀郡大和町 JR長崎本線佐賀駅 2003.05.27


肥前国風土記

肥前国風土記は、播磨、常陸、出雲、豊後とともに、ほぼ完全な形で残った風土記として大変貴重な古代文献である。下記は、その佐嘉の郡の抜粋である。

佐嘉の郡、郷は六所、里は十九、駅は一所、寺は一所なり。
昔は樟樹一株、この村に生いたりき。幹枝秀高く、茎葉繁茂りて、朝日の影には、杵嶋の郡の蒲川山を蔽ひ、暮日の影には養父の郡の草横山を蔽へりき。日本武尊、巡り幸しし時、樟の茂り栄えたるを覧まして、勅りたまひしく、「此の国は栄の国と謂ふべし」とのりたまひき。因りて栄の郡といひき。後に改めて佐嘉の郡と号く。


肥前国府跡


肥前国は現在の長崎県と佐賀県を含む地域である。肥前国府は佐賀郡大和町に置かれた。昭和50年(1975)から10年間にわたり、佐賀県文化課によって発掘調査が行われ、肥前国庁跡が姿を現した。


肥前国庁跡の標識
非常に立派で、びっくりした。
史跡公園の整備が進んでいて、その公園入口を示す。
標識の裏面
肥前国風土記の佐賀郡のいわれを記す。


後殿、正殿、前殿、南門が南北一直線に並び、周囲を築地塀で囲んでいる。
南門の両側には、他国には例を見ない翼廊が発見されている。
初期の掘立柱建物から、何度か建て替えられ、九世紀後半には礎石建物になった。
肥前国府は十世紀末までは、此の地に存続していたことが確かめられた。


国庁官衙群の復元整備
正殿、脇殿、前殿等の官衙群の跡が整備されつつあり、
芝生の上に基壇と礎石が復元されている。
入り口の花壇
ゆったりしたスペースで、きれいな公園になるだろうと
期待される。


肥前国分寺跡


国庁跡が史跡公園として整備が進んでいるのにひきかえ、肥前国分寺の跡は悲惨である。国分寺の遺構は全く失われ、ただそこに国分寺があったという朽ち果てた表示があるだけである。それによると昭和49年(1974)から50年にかけて発掘調査が行われた。
寺域は216メートル四方で、金堂は9間×4間(33.3M×13.2M)。
その東南に24M×25Mの基壇があり、七重塔があったらしい。大和町教育委員会のこの表示板には、「郷土の優れた文化財として大切に保存していきましょう。」と書いてあるけれど、大切にされているとはとても思えない。

大和町の担当者に、どうなっているのか伺ったら、数年前に土地の買収交渉をしたのだが、地主の理解が得られず、買収には応じてもらえなかったとのこと。先頃まで廃屋のように建っていた薬師堂も、危険なので取り壊してしまった。なんとかならないのかなあ。


大和町教育委員会の案内板 この辺に金堂があったのかなあ。


石の仏像がさみしそうだった。 七重塔はここあたりだろうか。



吉野ヶ里遺跡

肥前国分寺の跡を見て沈んだ心を立て直すべく、吉野ケ里遺跡に足を運んだ。
昭和61年(1986)偶然に見つかった弥生遺跡は、その後の発掘調査が進むにつれて、『魏志倭人伝』に記された卑弥呼の国を彷彿とさせるような、巨大な環濠集落であることが明らかになってきた。環濠で囲まれた集落全体は40ヘクタール(12万坪)にも及ぶ広大なもので、V字型に掘られた外濠の深さは、3.5メートル、幅は5〜6メートル。堀の外側に土塁を積み上げ、その上に木の柵を巡らしている。

肥前国府から国分寺を通り、この吉野ヶ里から筑後国府まで、一直線に古代の官道が走っていた。さらに筑後国府から北に折れ太宰府までが一直線上に並ぶ。古代人の主要官道上に、この遺跡が存在することは、弥生時代以降も発展を続け、文化や軍事の一大拠点だったことを思わせる。

太宰府・肥前国府・筑後国府と吉野ケ里遺跡の位置関係

吉野ヶ里歴史公園入口 物見櫓


竪穴式住居 王の住居


木の柵に囲まれた物見櫓
竪穴住居と王城を望む。
弥生時代にタイムスリップしたようだ。


肥前国地図


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