51.伯耆国  鳥取県倉吉市国府  JR山陰本線倉吉駅 2004.01.23


伯耆国は久米、八橋(やはし)、汗入(あせり)、会見(あいみ)、日野の4郡からなる。
延喜式には伯耆国府は久米郡に在りと記載されている。現在の倉吉市国府である。

倉吉市の郊外、国府川の西側に古代の国府関連の遺跡が集中して発見されている。
2004年の1月23日(金)、前夜来の雪があがった古代の遺跡を巡った。

法華寺畑遺跡の入口に立つ案内図


伯耆国府跡


伯耆国庁の跡は、昭和48年(1973)からの発掘調査によってほぼ全容が明らかになった。
東西273M、南北227Mの規模をもち、儀式などを行う政庁域と、行政事務を行う官衙域に分かれていた。8世紀後半の天平時代から、10世紀平安時代中期まで4回の建て替えが確認されている。最初は掘立柱の建物だったが、9世紀の平安時代に建てられた4回目の建て替えの時は、主要な官衙は礎石の上に建てられた。また、域内の中心の政庁域は、築地塀で厳重に囲んでいる。天平の創建期には万葉歌人山上憶良も伯耆守としてこの地に赴任している。

国庁の遺跡としては、規模や変遷が比較的はっきりとわかる数少ない遺跡のひとつで、平成12年(2000)9月、付近の関連遺跡とともに「伯耆国府跡」として国史跡に指定された。


国庁跡に立つ説明版
一面の雪景色
ここに伯耆国府の政庁が眠っている。


従五位下伯耆守山上憶良

山上憶良は柿本人麻呂、山部赤人とともに、もっとも有名な万葉歌人である。
万葉集に80首の歌が載せられ、なんといっても中学校の古文の時間で繰り返し習った思い出深い歌人であろう。他の宮廷歌人や貴族の歌人と違い、貧窮問答歌のような一般庶民の生活を詠み込んだ独特の歌風であり、万葉歌人の中でひときわ異彩を放っている。

しかし、憶良が伯耆守としてこの伯耆国府に赴任し、従5位下という高位の高官であったことはあまり知られていない。山上憶良は斉明天皇六年(660)の生まれといわれ、大宝二年(702)遣唐使の一員として唐の長安に渡り、霊亀二年(716)四月伯耆守に任ぜられてこの地に下向する。養老五年(721)に首(おびと)皇子(後の聖武天皇)の侍講を命じられて都に帰るまでの5年間を、ここ伯耆国府で過ごした。

残念なことに伯耆守時代の彼の歌は残っていない。ここでは、万葉集に載せられた代表的な歌を紹介しよう。

いざこども 早く日本(やまと)へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ
 (遣唐使として長安に居た時の望郷の歌。大伴の御津は今の大阪のこと。大伴氏の管掌地が      難波であった。)

憶良等は 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 吾(あ)を待つらむそ
 (筑前守時代の歌。宴会を中座して帰る時の歌である。)

(は)めば 子ども思ほゆ 栗(は)めば まして(しの)はゆ いづくより (きた)りしものぞ 眼交(まなかひ)
 もとなかかりて 安眠(やすい)(な)さぬ


(しろかね)(くがね)も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも
 (古文の時間に習った懐かしい歌。)

秋の野に 咲きたる花を(および)折り かき数ふれば七種(ななくさ)の花

萩の花 をばな (くず)花 なでしこの花 をみなへし また藤袴(ふぢばかま) 朝顔の花
 (この二首で秋の七草を覚えたものだった。)

風まじり 雨降る(よ)の 雨まじり 雪降る(よ)は すべもなく
 寒くしあれば 堅塩(かたしほ)を 取りつづしろひ 糟湯(かすゆ)酒 うち(すす)ろひて
 (しはぶ)かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 髭掻き撫でて (あれ)を おきて 人はあらじと
 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさぶすま) 引き(かがふ)り 布肩衣(ぬのかたぎぬ) ありのことごと 着(そ)へども
 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ(こ)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞ひて泣くらむ
 この時は いかにしつつか (な)が世は渡る
 天地(あめつち)は 広しといへど (あ)が為は (さ)くやなりぬる 日月は (あか)しといへど (あ)が為は
 照りやたまはぬ 人皆か (あ)のみやしかる わくらばに 人とはあるを
 人並に (あれ)も作るを 綿も無き 布肩衣の 海松(みる)のごと (わわ)(さが)れる かかふのみ
 肩に打ち掛け 伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に
 妻子どもは (あと)の方に 囲み居て 憂へ(さまよ)ひ (かまど)には 火気(ほけ)吹き立てず
 (こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯炊(いひかし)く ことも忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに
 いとのきて 短き物を 端切ると 云へるが如く 笞杖(しもと)執る 里長(さとをさ)が声は
 寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世の中の道

世の中を 憂しと(やさ)しと思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

(有名な貧窮問答歌。この歌があるために山上憶良は貧しい百姓の出だと思っていた。)


国庁裏神社(伯耆総社)


伯耆国の総社は国庁裏神社という。何とも即物的な名前の神社だが、国庁が跡形もなくなった現在でも、地元の信仰を集めている。祭神は大己貴命少彦名命

境内の由緒書きに依れば、和銅2年(709)、当時の伯耆守金上元為が国司の主要神社巡拝の便を図るため、国庁の敷地内にあった当神社に、国中の主要神社を合わせ祀って祭祀を行ったとある。総社の制度がずいぶん古くからあったということになる。


鳥居から随神門を望む 伯耆国総社と彫られた石碑


拝殿 大社造りの本殿


古い狛犬 天保三年(1832)と彫られた台座


伯耆国分寺跡


伯耆国分寺も雪の中に埋もれていた。天平勝宝八年(756)に朝廷から仏具が下賜されているという記事が、続日本紀にみえることから、750年頃には伽藍が完成していたことだろう。

天歴二年(948)、国分寺の倉から出火し、隣接する国分尼寺まで巻き込んで、両寺共に焼失したという。発掘調査の結果、塔跡の基壇のあたりから、おびただしい瓦片を含む焼土が発見され、当時の火災のすさまじさを物語っている。

現地は伯耆国分寺史跡公園として整備されている。


史跡公園の入口は寺域の東側にある。


伯耆国分寺跡の碑 講堂の基壇


金堂の基壇 回廊跡の表示も雪に隠れている。


塔の基壇 塔の礎石


東から金堂に向かう柱列。何の遺跡か? 塔に向かう足跡。何の足跡だろう?


法華寺畑遺跡(国分尼寺?)


国庁の東に法華寺畑遺跡と呼ばれる遺跡がある。昭和四六年(1971)ここからたくさんの瓦や木簡とともに大型建物の遺構が出土した。国分尼寺跡とする説もあるが、寺院建築とはかなり様相が異なり、また、距離的にも国分寺より国庁跡に近いことから、むしろ国庁に付属する何らかの官衙跡ではないかと考えられている。

現地は史跡公園となっており、柱や四脚門が復元されていて、石造の復元模型が置かれている。
しかし、現地ではあまり知られていないようで、タクシーの運転手さんも初めて知ったと言っていた。


法華寺畑遺跡の復元模型
どう見ても寺院には見えない。
遺構跡に建てられた復元柱


伯耆国地図



国府物語のトップページへ