キウス周堤墓から東へ走り数分で恵庭市街へ入る。
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| カリンバ遺跡 |
カリンバ遺跡は恵庭市にある。9,000年前の縄文早期から鎌倉時代のアイヌ文化期まで、数千年にわたる時代層が集積した遺跡である。特に縄文後期後半から晩期にかけて営まれた合葬墓は、縄文遺跡としては珍しい豪華な副葬品を出土したことで、一躍有名になった。
JR千歳線恵庭駅の近く、北海道文教大学のキャンパスに隣接してある。カリンバとはアイヌ語で桜の木の皮のことだそうだが、この遺跡はその発掘手法が特異だったので、かなりの話題になった。
この遺跡の発掘は、1999年に土地区画整理事業に伴い始められたが、調査終盤に見つかった3基の合葬墓は大量の副葬品を伴っていたため、合葬墓全体を地面から切り取り、埼玉県川口市の東都文化財保存研究所へ運び、室内での発掘という異例の調査となった。
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| 玉・勾玉 |
赤い土玉と石玉 |
2人から5人を合葬した墓には、赤いベンガラを塗り込め、漆を使った華やかな副葬品が納められていた。滑石、ヒスイ、琥珀などの玉や、赤く彩色した土玉などが出土した。
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| 勾玉 |
首飾り |
玉は孔が空いていて、紐を通して首飾りとしたものだろう。金属が無かった縄文時代に、小さな玉に穴を開ける縄文人の技術は、たいしたものだ。
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| 漆塗りの櫛 |
漆塗りの腕輪 |
漆塗りの美しい櫛もたくさん出土している。縄文時代の櫛は、横型ではなく縦型だったらしい。櫛の歯がなくなっているが、下端が円く尖った棒を12〜14本並べ、櫛本体に漆で貼り付けていたようだ。
腕輪は植物の皮や茎、獣皮などに漆をかけたものが多い。赤い輪、黒い輪を2個か3個重ねて付けるなど、けっこうお洒落である。
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カリンバ遺跡は段丘面の土坑墓群と、低地の生活面を合わせ42,000uが2005年に、3基の合葬墓の副葬品397点が2006年に国の重要文化財に指定された。
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恵庭市郷土資料館
〒061−1375 北海道恵庭市南島松157−2
電話 0123−37−1288 |
カリンバ遺跡の出土品は、恵庭市郷土資料館に展示されている。カリンバ遺跡の資料や美しい図録を無料で配布している。
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| 西崎山環状列石(縄文後期BC1500年頃) |
縄文の遺跡は函館から室蘭、千歳、恵庭などに広く分布しているが、小樽から余市にかけての日本海沿岸にも特徴的な遺跡が点在する。縄文の墓、環状列石である。
環状列石は縄文後期の遺跡でいわゆるストーンサークルだが、遺跡の土中からリン分が検出されるので、墓跡と推定されている。
西崎山環状列石は、小樽市と余市の境にある西崎山の尾根にある。国道5号線を小樽から余市に向かい、余市に入ったあたりで左折して立体交差を上の道路にあがり、左折したすぐの所に入り口がある。見晴らしの良い尾根に、目指す環状列石はあった。
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西崎山環状列石
北海道余市郡余市町栄町 |
棒状の石を囲んで環状に石を配置している。そうした列石がいくつか点在する。石と石の間からは縄文後期の土器が出土した。さらに配石の下には直径50cm、深さ70cmの穴があり、中からリン分が検出される。
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環状列石がある尾根からは日本海が見渡せる。遠くに積丹半島も望む風光明媚な場所である。縄文人も先祖を葬るのに、見晴らしの良いこの尾根を選んだのであろう。彼らの祈りが聞こえてくるようだ。
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| 手宮洞窟(続縄文時代 5世紀) |
| 小樽市の手宮公園のふもと、蒸気機関車博物館の国道454号線を挟んだ向かい側に、手宮洞窟がある。 |
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| 手宮洞窟 |
鶴岡雅義と東京ロマンチカの「小樽のひとよ」という歌謡曲を覚えておいでだろうか。昭和42年の大ヒット曲で、150万枚を売り上げた。その2番の歌詞を紹介する。
ふたりで歩いた 塩谷の浜辺
偲べば懐かし 古代の文字よ
悲しい別れを 二人で泣いた
ああ 白い小指の つめたさが
この手の中に 今でも残る
ここで歌われた「古代の文字」というのが、この手宮洞窟に描かれた謎の文様なのである。発見は慶応2年に遡るが、学術調査は明治11年、イギリス人のジョン・ミルン(J.Milne)によってなされた。
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| 手宮洞窟の線刻 |
浮き上がらせた線刻画 |
この遺跡は5世紀の続縄文時代のもので、時代としてはかなり新しい。北海道には弥生文化は伝わらなかったので、文化は縄文文化からゆっくりと進化し、続縄文から察文文化を経て、アイヌ文化につながっていく。
手宮洞窟に描かれた文様は、余市町のフゴッペ洞窟からも発見されたが、国内ではこの2例しかない。この線刻画はシベリアのアムール川周辺から発見されたものとよく似ているほか、日本海を囲むロシア、中国、朝鮮半島からもよく似た岸壁画が見つかっている。この時代、日本海を囲む地域で、人々の交流があったことがうかがえる。
この線刻画を古代の文字だと解釈していた時期があり、それが上記の東京ロマンチカの歌詞に歌われたのだが、現在ではシャーマンを表現した絵ではないかとの説が有力である。
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| 仮説 |
帰路に一緒だった河原さんとこんな会話をした。
| 河原: |
東京の日暮里という地名はアイヌ語らしいですね。 |
| 小松: |
へー!!それは初耳。北関東の上野、下野は昔、上毛野、下毛野と言っていたらしいから毛深いアイヌ族が住んでいたんでしょうね。 |
| 河原: |
ということは、弥生人が入ってきて、次第に北へ追いやられ、ついに北海道で定住した。 |
| 小松: |
ふんふん、つまり先住民族である縄文人が、次第に弥生人に圧迫されて、北海道へ渡り、青森、北海道で人口を増やしたけれど、ついに本州は弥生人に征服されちゃった。 |
| 河原: |
北海道の縄文人は、続縄文、察文文化を経て、アイヌに発展した。 |
これは素晴らしい仮説だ。ノーベル賞ものでしょう。(笑) ノーベル賞とったらカラオケだね。 |
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