北海道の縄文遺跡群
 2012.10.07〜10
中空土偶 大船遺跡 入江貝塚 キウス周堤墓
カリンバ遺跡 西崎山環状列石 手宮洞窟


平成24年(2012年)10月、私は永年の畏友、かの邪馬台国大研究の著者井上筑前氏に誘われて、北海道の縄文遺跡を巡る旅に参加した。北海道までの列車旅を思い立ったのは、老いの身を顧みない私の悪い癖なのだったが、後の後悔先に立たずで、その無謀の報いが腰にきて、これほどまでに苦しもうとは、4日後に成田に降り立つまで露ほどにも気がつかないことであった。
竜飛海底駅
午前10時56分東北新幹線で東京を発った私は、5時間半後の16時30分には津軽海峡の海底にいた。海底には竜飛海底駅と吉岡海底駅の二つの駅があり、事前に見学整理券を買っておけば、竜飛海底駅で下車し見学することも出来る。

「海の底にも都ありとは」と二位の尼が安徳天皇を抱いて沈んだのは、本州の最西端関門海峡であったが、ここは最北端の津軽海峡の海底である。青函トンネルの全長53.9kmは、鉄道用のトンネルとしてはスイスのゴッタルドベーストンネルに次いで世界第2位の長さを誇る。そして北端の海の底には都ならぬ駅があるのだ。海底の鉄道駅は世界でも、このトンネルにある二つの海底駅だけではなかろうか。
函館山 函館に着いた特急白鳥
青函トンネルは特急でも30分はかかるが、トンネルを抜けるとそこは北海道である。夕日に輝く函館山は、機嫌良く私を迎えてくれた。17:01に特急白鳥は函館駅に着いた。東京を出てから6時間5分の列車旅であった。


函館から室蘭にかけて内浦湾の沿岸は、縄文中期から後期にかけての遺跡が多く、津軽海峡を挟んで、青森の三内丸山遺跡などとの共通文化圏が広がっていたと考えられている。


中空土偶(縄文後期 BC1,500頃)  函館市著保内野遺跡より出土

中空土偶

北海道でただひとつの国宝である。函館市の著保内野遺跡から出土した。著保内野遺跡は私有地にあり、埋め戻されて今ではその所在地はわかりにくいが、掘り出された遺物は、近くに建てられた函館市縄文文化交流センターに保存、展示されている。

中空土偶は名前のとおり、精巧な中空の土偶で、今から3,500年前の縄文後期後半の墓から出土した。高さ41.5cm、重さ1.7kgで中空の土偶としては、我が国最大である。平成19年、国宝指定。
函館市縄文文化交流センター
〒041−1613 北海道函館市臼尻町551−1
電話:0138−25−2030
道の駅を兼ねた資料館で、函館市南茅部地区の遺跡から発掘された埋蔵物を展示公開している。国宝中空土偶を常時展示していて、国宝のある道の駅はここだけだという。

函館空港から車で30分、国道278号線のバイパス上にある。

大船遺跡(縄文中期(BC3000年〜2000年頃)

バイパスを抜けて278号線にもどり、5分ほど北上すると大船遺跡だ。

大船遺跡と関西歴史クラブの面々
右からリーダー井上氏、東京支部長河原氏、名ドライバー河内氏、ナビゲーター西本氏、会計橋爪氏
今回の旅の仲間達。みな同世代だが私が一番の高齢者。なんにもせずにのんびりと、北の大地のドライブを楽しませていただいた。素晴らしい仲間に感謝である。


この遺跡は縄文中期(4500年前)というから、青森の三内丸山遺跡と同時代の遺跡である。竪穴住居の遺構が重なり合っていて、数百年にわたり定住生活が営まれていたことがうかがえる。三内丸山遺跡との共通点も多く、津軽海峡を挟んで同一文化圏が成立していたらしい。


竪穴住居
この遺跡の建物は、縄文の竪穴住居としては規模が大きく、深さも深い。安定した定住生活が営まれていたことがわかる。



入江貝塚(縄文後期BC1500年頃)

大船遺跡から国道278号線を北に走り、道央高速道に入ってさらに北上、洞爺湖ICで降りる。国道37号線を東進するとJR室蘭本線の洞爺駅にいたる。

入江貝塚は洞爺湖町にある貝塚で、縄文後期の遺跡である。貝塚ではあるが貝類はほとんど出土せず、イルカやオットセイの骨が出土する。灰や焼土が厚く積もり、断面は黒色を
しているので黒い貝塚とも呼ばれる。
黒い貝塚

近くに入江・高砂貝塚館という資料館があって、出土品を展示している。場所はかなりわかりにくいが、JR室蘭本線の洞爺駅を過ぎて、国道37号線を東に走り、シェルのスタンドのあたりを左折、JRの踏切を渡って直進すると、資料館に着く。

入江式土器
入江貝塚から出土する入江式土器は、青森県から出土する十腰内式土器と同じ形式といわれ、入江・十腰内式と総称される。縄文はほとんど見られず、沈線で幾何学紋を描くのが特徴で、現代のラーメン丼を思わせる文様が印象的である。



キウス周堤墓(縄文後期 BC1500年頃)
入江貝塚から道央道に戻り、千歳空港方面へ走る。千歳で道東道へ入り千歳東ICへ。
周堤墓の底に立つ井上氏と、堤を降りる河原氏

キウス周堤墓断面図

キウス周堤墓は千歳空港からすぐ、道東自動車道の千歳東インターを出て、国道337号線を北に走ったすぐの所にあった。

縄文時代後期の遺跡で、地面を円く掘り、掘った土砂を周囲に土手のように積み上げた墓地である。全部で8基あり、一番大きなものは直径75メートルもあるという。

周堤の内側に墓穴を掘り石柱を立てている。縄文時代の墓地としては、日本最大規模である。この極北の地にとんでもない文化があったわけだ。

カリンバ遺跡(縄文後期 BC1500年頃)

キウス周堤墓から東へ走り数分で恵庭市街へ入る。
カリンバ遺跡
カリンバ遺跡は恵庭市にある。9,000年前の縄文早期から鎌倉時代のアイヌ文化期まで、数千年にわたる時代層が集積した遺跡である。特に縄文後期後半から晩期にかけて営まれた合葬墓は、縄文遺跡としては珍しい豪華な副葬品を出土したことで、一躍有名になった。

JR千歳線恵庭駅の近く、北海道文教大学のキャンパスに隣接してある。カリンバとはアイヌ語で桜の木の皮のことだそうだが、この遺跡はその発掘手法が特異だったので、かなりの話題になった。

この遺跡の発掘は、1999年に土地区画整理事業に伴い始められたが、調査終盤に見つかった3基の合葬墓は大量の副葬品を伴っていたため、合葬墓全体を地面から切り取り、埼玉県川口市の東都文化財保存研究所へ運び、室内での発掘という異例の調査となった。

玉・勾玉 赤い土玉と石玉
2人から5人を合葬した墓には、赤いベンガラを塗り込め、漆を使った華やかな副葬品が納められていた。滑石、ヒスイ、琥珀などの玉や、赤く彩色した土玉などが出土した。

勾玉 首飾り
玉は孔が空いていて、紐を通して首飾りとしたものだろう。金属が無かった縄文時代に、小さな玉に穴を開ける縄文人の技術は、たいしたものだ。

漆塗りの櫛 漆塗りの腕輪
漆塗りの美しい櫛もたくさん出土している。縄文時代の櫛は、横型ではなく縦型だったらしい。櫛の歯がなくなっているが、下端が円く尖った棒を12〜14本並べ、櫛本体に漆で貼り付けていたようだ。

腕輪は植物の皮や茎、獣皮などに漆をかけたものが多い。赤い輪、黒い輪を2個か3個重ねて付けるなど、けっこうお洒落である。

カリンバ遺跡は段丘面の土坑墓群と、低地の生活面を合わせ42,000uが2005年に、3基の合葬墓の副葬品397点が2006年に国の重要文化財に指定された。

恵庭市郷土資料館
〒061−1375 北海道恵庭市南島松157−2
電話 0123−37−1288 
カリンバ遺跡の出土品は、恵庭市郷土資料館に展示されている。カリンバ遺跡の資料や美しい図録を無料で配布している。


西崎山環状列石(縄文後期BC1500年頃)

縄文の遺跡は函館から室蘭、千歳、恵庭などに広く分布しているが、小樽から余市にかけての日本海沿岸にも特徴的な遺跡が点在する。縄文の墓、環状列石である。

環状列石は縄文後期の遺跡でいわゆるストーンサークルだが、遺跡の土中からリン分が検出されるので、墓跡と推定されている。

西崎山環状列石は、小樽市と余市の境にある西崎山の尾根にある。国道5号線を小樽から余市に向かい、余市に入ったあたりで左折して立体交差を上の道路にあがり、左折したすぐの所に入り口がある。見晴らしの良い尾根に、目指す環状列石はあった。

西崎山環状列石
北海道余市郡余市町栄町
棒状の石を囲んで環状に石を配置している。そうした列石がいくつか点在する。石と石の間からは縄文後期の土器が出土した。さらに配石の下には直径50cm、深さ70cmの穴があり、中からリン分が検出される。

環状列石がある尾根からは日本海が見渡せる。遠くに積丹半島も望む風光明媚な場所である。縄文人も先祖を葬るのに、見晴らしの良いこの尾根を選んだのであろう。彼らの祈りが聞こえてくるようだ。


手宮洞窟(続縄文時代 5世紀)
小樽市の手宮公園のふもと、蒸気機関車博物館の国道454号線を挟んだ向かい側に、手宮洞窟がある。
手宮洞窟
鶴岡雅義と東京ロマンチカの「小樽のひとよ」という歌謡曲を覚えておいでだろうか。昭和42年の大ヒット曲で、150万枚を売り上げた。その2番の歌詞を紹介する。

ふたりで歩いた 塩谷の浜辺
偲べば懐かし 古代の文字よ
悲しい別れを 二人で泣いた
ああ 白い小指の つめたさが
この手の中に 今でも残る

ここで歌われた「古代の文字」というのが、この手宮洞窟に描かれた謎の文様なのである。発見は慶応2年に遡るが、学術調査は明治11年、イギリス人のジョン・ミルン(J.Milne)によってなされた。
手宮洞窟の線刻 浮き上がらせた線刻画
この遺跡は5世紀の続縄文時代のもので、時代としてはかなり新しい。北海道には弥生文化は伝わらなかったので、文化は縄文文化からゆっくりと進化し、続縄文から察文文化を経て、アイヌ文化につながっていく。

手宮洞窟に描かれた文様は、余市町のフゴッペ洞窟からも発見されたが、国内ではこの2例しかない。この線刻画はシベリアのアムール川周辺から発見されたものとよく似ているほか、日本海を囲むロシア、中国、朝鮮半島からもよく似た岸壁画が見つかっている。この時代、日本海を囲む地域で、人々の交流があったことがうかがえる。

この線刻画を古代の文字だと解釈していた時期があり、それが上記の東京ロマンチカの歌詞に歌われたのだが、現在ではシャーマンを表現した絵ではないかとの説が有力である。



仮説
帰路に一緒だった河原さんとこんな会話をした。

河原: 東京の日暮里という地名はアイヌ語らしいですね。
小松: へー!!それは初耳。北関東の上野、下野は昔、上毛野、下毛野と言っていたらしいから毛深いアイヌ族が住んでいたんでしょうね。
河原: ということは、弥生人が入ってきて、次第に北へ追いやられ、ついに北海道で定住した。
小松: ふんふん、つまり先住民族である縄文人が、次第に弥生人に圧迫されて、北海道へ渡り、青森、北海道で人口を増やしたけれど、ついに本州は弥生人に征服されちゃった。
河原: 北海道の縄文人は、続縄文、察文文化を経て、アイヌに発展した。

これは素晴らしい仮説だ。ノーベル賞ものでしょう。(笑) ノーベル賞とったらカラオケだね。


縄文紀行

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