7.日向国  宮崎県西都市   '97.03.18 2003.09.5


日向は日本発祥の地とされる。

古事記に、黄泉の国から逃げ帰った伊邪那伎いざなぎ大神が、

「吾は いなし こめし こめき きたなき国に到りてありけり。 かれ、吾は御身みみみそぎせむ。」
とのりたまいて、 筑紫の日向の橘の小門おど阿波伎原あはぎはらに到りまして、禊ぎ祓いたまひき。

とある。このあと禊ぎの中から天照大神や素戔嗚すさのお尊が生まれることになる。

この日向の橘の小門の阿波伎原は、宮崎県のリゾート地シーガイアになっている。地鎮祭などでよく聞く祝詞の冒頭は、この古事記の記載と同一である。

天津祝詞

高天原に  神づまります 神漏岐(かむろぎ)神漏美(かむろみ)の 命以(みことも)ちて
皇親神(すめみおやかみ)伊邪那岐(いざなぎ)の 大神。
筑紫の 日向(ひむか)の 橘の 小門(をど)の 阿波岐原(あはぎはら)
禊祓(みそぎはら)ひ 給ふ時に 生坐(あれま)せる 祓戸(はらへど)の 大神等(おほかみたち)
諸々禍事罪穢(もろもろまがことつみけがれ)を 祓(はら)へ 給ひ清め給ふと申す事の由(よし)
天つ神  地(くに)つ神  八百万神等共(やほよろづのかみたちとも)
天の 斑駒(ふちこま)の 耳振立(みみふりたて)て 聞食(きこしめ)せと 畏(かしこ)み 畏み申す。

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西都原古墳群



西都原(サイトバル)古墳群である。一面の菜の花の中に、大小さまざまな古墳が群在
するのは圧巻である。前方後円墳の数も多い。大変な古代文化が花開いていたことを
思わせる。


その古墳群の内でも、群を抜いて大きいのが二つ寄り添ってある。
男狭穂塚(おさおづか)と女狭穂塚(めさおづか)である。

天孫 瓊々杵尊(ニニギノミコト)と、その妻 木花之開耶姫(コノハナサクヤヒメ)の墓と伝えられている。神話の世界が急にこの世に現れたような驚きである。


記紀の道
天孫瓊々杵命と木花之開耶姫のロマンを
たどる歴史街道。
御船塚
瓊々杵命が乗ってきた船が、この地に着いて鎮まったとされる



日向国府跡

西都原古墳群から車で10分ほど走ると西都市の中心に出る。

日向の国府はここにおかれた。
ただ、先頃ようやくその位置がわかり発掘が始まったばかりだと、市役所で聞いて、発掘現場に行ってみた。

西都市右松の寺崎遺跡だ。

うーん、これがほんとにそうなのかなあ。


発掘調査地(2003.09.05取材)
上の写真から6年経って、再び訪れた。
夏草が生い茂って、皆目わからない。
表示看板
発掘調査中を告げる看板も、朽ち果てて本気でやる気があるのかしら。


都萬(ツマ)神社(日向国総社)

都萬神社拝殿 本殿

日向の総社は印鑰(インニャク)神社三宅神社都萬神社と諸説あるが、ここ都萬神社は、現在発掘中の国府跡に近接しており、都萬神社に奉祀してきた日下部氏は、日向国守を務めていることから、極めて国府に近い関係にあったと思われる。

延喜式にある日向四座のうち、国府の置かれた児湯郡には日向一宮である都農神社と、この都萬神社の二座のみがあげられているのをみても、格式の高さがうかがえる。

祭神は木花開耶姫

天孫瓊々杵尊(ニニギノミコト)と木花開耶姫が、日本最初の結婚式を挙げた神社とされる。

七月七日の都萬神社七夕神事はいささか特異な祭りである。

この日、当社のご神体の一つ龍神が本殿前に現れる。この龍神は、約80センチの桜の木である。その前日の7月6日、氏子たちは約12キロ離れた高鍋町永谷の海浜で海水で禊ぎしたあと、同地の宇治橋家のそばのタブの木の根元で祭祀を行う。この時、当神社から持ってきたお茶が奉納される。これより先、6月29日には宇治橋家の人々が、と浜の真砂を都萬神社に供献する。

この茶と塩の交換神事は、山幸、海幸の交換ともみられる特異な神事とされる。


日向国分寺

国府跡や都萬神社から南へ5分も走ると、国道から分かれた小径の奥に、日向国分寺の跡があった。礎石がいくつか残っている。

日向国分寺跡の調査は、これまでも数度にわたり実施されてきた。平成7年度からは西都市教育委員会により、平成15年度まで8次に及ぶ発掘調査が実施されている。周辺は宅地化が進み、一部は墓地になっていて、遺跡を確認するには条件が悪いが、それでも、3回建て替えられたことが判明した。これまでに僧坊、食堂、金堂、西門、中門、回廊跡などが確認され、3回目の建て替えでは、礎石建物となっていたことが判明している。

日向国分寺は、方二町の寺域を持ち、東西南北に門を有し、南大門、中門、金堂、講堂を南北一線に並べ、中門、金堂を回廊で結び、南東に塔を配する典型的な国分寺様式であったと考えられている。

左図の現在地とある地点が、木喰五智館が建っている所である。

方二町と推定される寺域は、板塀で仕切られていた。
日向国分寺伽藍配置図


五智館の西側は幾分高くなっていて、金堂、中門などが有ったと思われる。
右上の写真は内塀の東門あたりに建てられた日向国分寺の表示。
右下はその東側で続けられている発掘現場。


木喰上人は享保3年(1718)甲斐の国の生まれで、日本各地を行脚し自ら彫った仏像を各地に残した。天明8年(1788)日向国分寺にいたり、地元住民に求められるまま、国分寺住職として寛政9年(1797)まで9年間日向国分寺にとどまり、五体の如来像を残した。一丈八尺の五智如来が並ぶ様は壮観である。明治の廃仏毀釈で、この如来像も危機に瀕したが、民家に隠され奇跡的に残った。

この五智館は平成8年(1996)地元の熱意で、再建された。
五智如来は、もともと密教の金剛頂経に説かれた五つの知恵を現す如来とされるが、日向国分寺のそれは、阿しゅく如来を薬師如来に、不空成就如来を釈迦如来に擬している。
木喰五智館 五智如来像


宝生如来(平等性智)
福徳財宝五穀豊穣の功徳
薬師如来(大円鏡智)
病魔を退散させる医薬の功徳


大日如来(法界体性智)
万物を慈しむ太陽の功徳
密教の五智如来
不空成就如来を釈迦如来
阿しゅく如来を薬師如来に
擬している


阿弥陀如来(妙観察智)
極楽往生の功徳
釈迦如来(成所作智)
知恵聡明の功徳



宮崎県西都市




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