21.伊賀国 三重県上野市 JR関西本線佐那具駅 98.05.30 02.09.20



伊賀国は今ではなんといっても忍者芭蕉の里だ。
古代、平城京からここを越えて、鈴鹿の関に向かった東海道の要所だったことは忘れられてしまったかのようである。

伊賀国府跡

柘植川に沿って古代の伊賀国府が置かれた。今の印代(いじろ)の集落だというのが通説だったが、数度にわたる発掘調査にもかかわらず、それらしい遺構はついに発見されなかった。「伊賀国府雲隠れの術」などと揶揄されたものであった。

平成元年(1989)三重県埋蔵文化財センターにより、JR関西線佐那具駅の西方より遺構が発掘され、平成3年(1991)には政庁部分が確認された。

この
上野市坂之下地区は緩やかな斜面地帯で、北には丘陵地帯を抱えている。国府の官衙があったとすると「方八町」か、少なくとも「方四町」の国府域が必要で、この地ではそれだけの広さを取れないことから、国府の存在はあり得ないと考えられてきた。しかし、今回の伊賀国府跡の発見により、国によっては必ずしも広域の国府域を設定していないことがわかり、その意味でこの発掘調査は画期的であった。

伊賀国府の政庁部分は、約50m四方で正殿、後殿、脇殿ともこじんまりしており、下国の国府の実態を示している。瓦はほとんど出土していないので、瓦を使用しない
掘立柱建物であったと思われる。



伊賀国庁発掘地点
南宮山を望み、一面の黄金の稲穂。
ここに政庁が眠っていた。
JR関西線側から見た政庁発掘地点
供養塔の右側一帯から、政庁跡が
発掘された。


古代の伊賀国

平城京から東に向かう東海道の
最初の国が伊賀であった。

伊賀国府から南に、一之宮敢国
神社、伊賀国分寺がほぼ一直線
上に並ぶ。

















保育社
日本の古代遺跡52三重より

伊賀の総社は不明である。古文書にも全く記載がない。一宮も二宮も三宮も近いので、あえて
総社を置く必要がなかったのかもしれない。




伊賀国分寺跡

伊賀国分寺は延喜式の寺料はわずか千束であるから、規模はかなり小さかったと思われる。
東西220m、南北240mの土塁状遺構に囲まれており、中門、金堂、講堂が南北に一直線に並び、
中門と金堂は回廊で結ばれていた。回廊の東には塔を置き、講堂の北側には僧坊を検出している。

現在は国指定の史跡公園として整備されているが、礎石はほとんど残っていない。

東には長楽寺廃寺跡があり、国分尼寺と推定されている。


伊賀国分寺の伽藍配置
伊賀国分寺の跡は史跡公園として整備されているが、
尼寺と推定されている長楽寺廃寺は、荒れたままでどこに
あるのか見当もつかない。
国指定の碑
大正12年(1923)国指定
史跡に指定。内務省の碑。


史跡公園入口 中門跡から金堂跡、講堂跡を望む

塔跡 唯一礎石らしい石

金堂跡 講堂跡


伊賀国分寺と称したもうひとつの寺

伊賀国府の発掘現場近くに、伊賀国分寺と称した廃寺があった。

伊賀国分寺
かなりの急坂を登りきったところにある。
医王殿と読める扁額



敢国神社(伊賀一宮)

伊賀一宮は名阪国道のインターチェンジのすぐ近くだ。
敢国神社という。崇神天皇の御代に四道将軍の一人として、北陸を平定、伊賀の国に永住した大彦命
を祀る。
少彦名命(すくなひこなのみこと)、金山比め命を合祀する。


大彦命は伊賀の上忍服部半蔵家の祖神とされる。また、最近人気の陰陽師阿部晴明の祖先でもある。
少彦名命は大己貴命(おおなむちのみこと)とともに国造りをした神で、一寸法師のモデルといわれる。
また、新羅系の秦氏の守り神でもあった。




神職が礼儀正しく、こんにちはと声をかけてくれた。
それにしても敢国神社とはおかしな名前だ。一之宮にしてはこじんまりしている。


拝殿 芭蕉の句碑
手はなかむ 音さえ 梅のにほひかな

伊賀国地図



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