57.壱岐嶋  長崎県壱岐市芦辺町   04.07.11


壱岐島は面積134ku、人口3万3千人の小さな島である。博多港から80キロの玄界灘に浮かんでいる。フェリーで2時間、ジェットフォイルという高速船で1時間。なぜか長崎県に属する。

なぜ長崎県なのか。福岡の博多港や佐賀の呼子港の方がずっと近いし、事実、航路は長崎県には通じていない。この疑問は司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んでわかった。江戸時代、この壱岐島は平戸藩だったのだ。平戸島は壱岐と同じくらいの小さな島だ。なぜ古代から国の扱いを受けていた由緒ある壱岐島が、平戸藩の植民地のようなことになってしまったのか。戦国時代の群雄の覇権争いの結果なのだろうか。


壱岐へ行くと、「ふれ」という地名が多いことに気づく。「興触こうぶれ」、「南触」、「仲触」、「国分東触」などいたる所にある。集落の単位なのだが、かっておかみのおれを告げてまわる単位が、そのまま現代に残ったものらしい。今でも「触れ人ふれにんさん」といわれる人達が、役所の通達を伝える役目をはたしているといた。

平成15年(2004)3月1日に郷ノ浦、石田、勝本、芦辺の4町が合併して、壱岐市が誕生した。


高速船ジェットフォイル
時速80キロで、福岡と壱岐、対馬を
連絡する。
玄界灘
福岡県と壱岐島間の海域を玄界灘という。
往古から朝鮮半島との往来が活発であった。


壱岐嶋は古事記では伊伎、日本書紀では壱岐、国造本紀では伊吉などと表記され、魏志倭人伝では一大国と紹介されている。これは他の文献から見て一支国の誤写と思われる。

主な古文書の壱岐国の項を見てみよう。

古事記

例のイザナギ、イザナミの二神が天の御柱をまわって、

かく言い終えて御合みあひして、生める子は、淡道あわじの穂の狭別島さわけのしま、次に伊予の二名ふたなの島を生みき。
この島は身一つにしておも四つあり。面ごとに名あり。中略...................
次に隠伎の三つ子の島を生みき。またの名を天之忍許呂別あめのおしころわけ、次に筑紫島を生みき。
この島もまた身ひとつにしておも四つあり。面毎に名あり。中略.........
次に伊伎島いきのしまを生みき。またの名を天之比登都柱あめのひとつばしらという。次に津島を生みき...中略
次に佐渡島を生みき。次に大倭豊秋津島おおやまととよあきつしまを生みき。またの名は天御虚空豊秋津根別あめのみそらとよあきつねわけという。故この八島を先に生めるによりて、大八島国おおやしまぐにといふ。


魏志東夷伝倭人(魏志倭人伝)

倭人は帯方たいほうの東南大海の中にあり、山島に依りて国邑こくゆうをなす。中略....
郡より倭に至るには、海岸に従って水行し、韓国からくにを経て、あるいは南し、あるいは東し、その北岸狗邪韓国くやかんこくに至る七千余里。はじめて一海を渡る千余里、対馬国に至る。中略....
また一海を渡る千余里、名付けて瀚海かんかいという。一大国に至る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離ひなもりという。方三〇〇里ばかり。竹木、叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり。田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴してきす。....後略



帯方=後漢時代に設けられた中国の郡のひとつ。朝鮮半島の北部。
瀚海=玄界灘か
卑奴母離=夷守か
市糴=盛んに往来して商売する


壱岐国府跡


壱岐国府の遺構は見つかっていない。ただ島の中心の芦辺町国分地区に国分寺などの遺構があり、壱岐直いきのあたいの館跡と言い伝えられているところから、この地を想定する説と、少し南に興触こうぶれという国府を思わせる地名があり、式内社の興神社こうじんじゃ総社があるところから、ここに国府跡を想定するせつとがある。

倭名類聚抄わみょうるいじゅしょうには、壱岐国府は石田郡にあったとされるので、後者の方が可能性が強いように思う。現在は芦辺町湯岳興触ゆだけこうぶれだが、永禄10年(1567)の田帳には、この地は石田郡に属すとしるされている。


国分地区の壱岐国府推定地
壱岐直の館跡
ここが古代壱岐を治めた国府であったの
だろうか。
真鍋蟻十の句碑
名に古りし 国府の跡や 鶴渡る
蟻十は俳人にして衆議院議員だった。


へそ石
壱岐の中心を示しているそうである。
古事記に出てくるオノゴロ島は男の子の島
で、ひとつ柱は男子の象徴だという。
あごかけ石
天のひとつ柱ではないかという説もあるが
奈良時代の石造らしい。上部は六角形で
12体の地蔵像が刻んである。


壱岐国府が石田郡にあったなら、、、
興神社の鳥居
延喜式には與神社と記されているが、
興神社の誤記だと思う。
一説には一之宮天手長男神社は、
この神社のことだという。
興神社拝殿
印鑰いんにゃく神社とも呼ばれ、国府に何らかの
関係があったものと思われる。
印は国の印、にゃくは正倉の鍵のことだ。
こう」は「国府こう」に通じるなあ。


壱岐総社

興神社から西へしばらく行くと、大きな民家が見えてくる。末永家だ。テレビで有名な笑福亭二鶴さんの奥さんの実家だそうである。この家の敷地の奥に、総社があるという。

末永さんご夫妻
壱岐総社は末永さん家の裏山にある。
末永さんは中学校長を勤められた名士で
総社の守りを続けておられる。
孟宗竹の林
春にはおいしい竹の子が出てくるというが、
私が訪れた夏はクモの巣がはびこっていて、
登るのに難儀した。


壱岐総社
1千年以上連綿と祀られてきた壱岐の総社。
今でも六家の氏子の皆さんがお祀りしているという。


壱岐国分寺跡


壱岐国分寺は、壱岐直の氏寺を流用したらしい。僧は通常の国分寺の半分の五口で、寺料は6千束。筑前国の正税が当てられた。寺域は東西60M、南北80Mで塔跡の基壇と回廊の遺構が確認されている。元文三年(1738)阿弥陀寺住職の円厳和尚が、付属する新田30石と共に国分寺と交換し現在に至っている。全国でも珍しいケースである。

国分寺跡
かなり探さないと見つからない。
畑の奥にある。
雑草に埋まった礎石
礎石らしい石がいくつかあるが、いずれも
夏草に覆われていた。


現国分寺
阿弥陀寺と交換した国分寺。
護国山と称する臨済宗の寺になっている。
鐘楼門
山門の上に鐘楼を設けた珍しい建物。


天手長男神社(壱岐国一之宮)

延喜式でも名神大社とされ、大変な尊崇を集めていたらしいが、元寇以来廃れてしまい見る影もなかった。江戸時代に壱岐を治めた平戸藩主の命によって、壱岐の神社を調査した橘三喜は、鉢形山の山頂で、二体の弥勒如来を見つけ、この地こそ延喜式で言う名神大社天手長男神社だと、小さな社を建てて祀った。以後、徐々に壱岐の人達の関心を集め、少しづつ一之宮の風格を取り戻しつつある。無人だった宮も住吉神社から谷口正博宮司が入り、本格的な立て直しに着手されている。

祭神は天忍男耳命だという。しかし、社名から類推すると、土着の縄文人の神ではないかと思われる。神武天皇と戦ったナガスネヒコとか、素戔嗚尊の八岐大蛇退治に登場するテナヅチ
アシナヅチの夫婦などの名前から、先住の縄文人は手足が長かったと思われるからだ。

古びた石段と鳥居
幟が賑やかな石段。
拝殿
これは、いささか淋しい拝殿。


古い宮
橘三喜が祀ったものだろうか。古い石の
社と、斜めに割れてしまった掲額が、
そっと置かれてあった。
弥勒如来が出てきた場所
橘三喜が二体の如来像を掘り当てた場所。
普通弥勒様は菩薩像だが、ここで出てきた
弥勒様は如来像だったらしい。
盗難にあったが、後に一体は発見されて、
奈良国立博物館にあるという。


本殿の覆い堂
安普請の拝殿の奥に、更にひどい
バラックが建っている。谷口宮司に
本殿ですかと聞いたら、本殿が古く
なったので、雨よけの覆い堂だという。
本殿
特別に中に入れてもらって、拝観した。
元禄期の建物だそうだ。建物としての
価値は無さそうだが、古いことに価値を
見いだすべきだろう。


天手長男神社本殿
建物はともかく左右の随身像が、かなりの出来映えである。


天手長比売神社の鳥居
手長男神の妻神であろう。
こちらも延喜式名神大社だ。
神社跡の説明板
社殿は失われて鳥居だけが残る。
天手長男神社に合祀したとある。


古代の壱岐国

魏志倭人伝に一大国と紹介され、古事記にも大八島国のひとつとして、重要視されてきた壱岐島は、弥生時代からかなりの文化水準にあったと思われる。平成五年(1988)から発掘調査が行われている原ノ辻遺跡は、魏志に言う一大国の王都であったろうと想定されている。


原の辻遺跡
大規模な弥生遺跡で、前漢や新の貨幣が
出土し、大陸との交易を想像させる。
古代の赤米の田
古代米を作っている。農薬を使わず
アイガモを放して、雑草や害虫を除去
しているが、野犬に襲われて困っている。


壱岐はまた神々の密集する国であった。延喜式神名帳に載せられた神社は24座を数え、そのうち名神大社に7座が列する。29座を数える対馬と共に、異様に多いのに驚く。九州全土で54座に過ぎないのに、この小さな島での神々の密集ぶりは何故だろう。私の会社がある横浜市には、式内社はわずかひとつしかない。人口あたりにすると300万人に1社だ。壱岐の人口は3万3千人だから、1300人に1社ということになる。壱岐の神々の密度は、横浜の2300倍ということになる。


古代の壱岐は、卜占をつかさどる人達が非常に多く大和朝廷に出仕していた。卜占は古代には大変進んだ科学であった。天文、気象、暦の知識にすぐれ、古代人には不可思議な現象を、見事に予言して見せた。壱岐は大陸に近く、往来も活発であったので、当時としては非常な先進地域だったと思われる。

大和朝廷に出仕していた壱岐出身の彼らが、古事記や史書の編集に携わり、神社の格付けに大きな影響力を発揮したであろうことは、容易に想像できる。その結果、国家から奉幣を受ける延喜式記載の神社が、壱岐に集中しているのだ。


月読神社の入り口
天照大神の弟神月読尊を祀る。
京都松尾大社に祀られる名神大社
月読神社の本家だという。京都の
神社の宮司は壱岐氏の子孫が承継して
明治に到っている。
月延石
神功皇后がのちの応神天皇を腹に宿して
朝鮮へ出征されたが、その際、月神
お告げで、神石を袂に挟んで出産を遅ら
せた。鎮懐石とも呼ばれている。


元寇と壱岐

壱岐はまた元寇の島である。蒙古は2度にわたって日本を攻めてきた。文永・弘安の役である。
文永11年(1274)と7年後の弘安4年(1281)である。対馬を攻略した蒙古軍は、壱岐に怒濤のごとく押し寄せた。


平景隆自刃の地
文永の役で壱岐の守護代として
奮戦したが、ここ樋詰城で軍は全滅。
自らも自害した。今は新城神社になって
いる。説明板に元寇のになってい
るのは、ご愛敬。
少弐資時の墓
弘安の役で少弐氏の守護代として
弱冠19才で全軍の指揮を執った。
死後、守護代としては破格の従四位に
叙せられ、壱岐神社に祀られた。


千人塚
弘安の役で死んだ多くの死者を
鎮魂した塚。
元寇の碇石
芦辺港から引き上げられた中国製の石。
元軍の軍船の碇石であろうとされる。


少弐資時の像
芦辺港に建っている。元寇720年記念だという。


二つの墓碑


万葉集奥の細道。この二つの優れた文芸作品が、この壱岐の地で交差する。

万葉集巻15は、特異な構成になっている。天平八年(736)六月難波の港を船出した遣新羅使の一行が、立ち寄った港々で詠んだ歌を145首載せているのだ。その一行に加わっていた壱岐宅麿が、石田野で病をえて死んだ。その碑が印通寺港を見下ろす高台の万葉公園にある。

万葉集に異彩を放つこの遣新羅使達の歌を、いくつか紹介しておこう。

君がゆく 海辺の宿に霧たたば 吾がたち嘆く 息と知りませ

月読の 光を清み神島の 磯まの浦ゆ 船出す 我は

もみじ葉の 散りなむ山に 宿りぬる 君を待つらむ 人し悲しも


雪連宅満の碑
万葉集に遣新羅使のひとりとして登場する。
壱岐連宅麿ではないかといわれる。
大君の命かしこみ 大船の
    行きのまにまに やどりするかも
印通寺港
遣新羅使一行が風待ちをして留まっていた
印通寺港。
インドウジと発音するのが面白い。


河合曽良は武士で俳人である。芭蕉の高弟焦門十哲のひとりで、奥の細道の旅に同行し、詳細な旅日記を残して、後世の芭蕉研究に大きな貢献をすることになる。その曽良が芭蕉の死後、幕府の諸国巡見使の一員として壱岐を訪れ、病をえて壱岐で亡くなる。宝永七年(1710)五月のことであった。


河合曾良の墓
春に我 乞食やめても 筑紫かな

もう一句
かさねとは 八重なでしこの 名なるべし
中藤家の墓
当時海産物問屋だった中藤家で
曽良は死んだ。曽良の墓は中藤家の
墓所の片隅にある。
現代の中藤家は郵便局長さんだ。


千年の湯

壱岐の勝本の平山旅館に泊まった。改築の際に古木に囲まれた源泉が発見された。神功皇后の産湯との言い伝えが残る。千年の湯とも薬師の湯とも呼ばれている。

この宿の女将さんが親切で、壱岐の遺跡めぐりをすると言ったら、40年間壱岐でバスの運転手をしていた渡野さんを紹介してくれた。宿の車も貸してくれて、おかげで充実した取材ができた。

東京に帰ってラジオ深夜便を聞いていたら、偶然平山旅館の女将が登場したので驚いた。


平山旅館
宿は改築してきれいだ。
千年の湯の源泉
見るからに古そうな木組みの源泉。


丸木小屋風の内風呂
海水が浸みてきて温泉になる珍しい
温泉でナトリューム泉である。
露天風呂
色は鉄錆色。無色透明でわき出てくるが
空気に触れると鉄錆色になるという。


これが朝食
左の白いのはなんと豆腐だ。頑張ったが食べきれ
なかった。東京の豆腐と違って、かなり堅めで歯ご
たえがある。朝採りの生野菜もうまかった。


壱岐嶋地図


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