5.伊豆国 JR三島駅 静岡県三島市1996.11.10 2006.02.05

 

1996年11月10日(日)、ちょっと淋しい気持ちで降り立った三島駅。空も曇っていて富士山も見えなかった。

あれから、もう10年経ってしまった。まさに光陰矢のごとしだ。今日は2006年2月5日(日)。大腸ガンの手術から生還して最初の旅行に、伊豆長岡の温泉を選んだ。その往復に伊豆の国府を10年ぶりに訪ねた。

JR三島駅
今日はよく晴れて富士山がくっきりと見えた。まるで私の生還を歓迎してくれているようだ。

伊豆国府

伊豆国の国府は三島にあったらしい。十六夜日記の作者の阿仏尼も、伊豆国の国府に着き、日暮れまでに時間があったので、三島大社を訪ねたというから、大社からそう遠くはなかったものと思われる。

<十六夜日記>(読みやすいように仮名を漢字に替えてあります。)

けふは、日 いとうらゝかにて、田子の浦にうち出づ。海女どものいさりするをみても、

心から おりたつたごのあま衣 ほさぬ恨と人にかたるな

とぞいはまほしき。伊豆の国府といふ所にとどまる。いまだ夕日残るほど、三島の明神へまゐるとて、詠みてたてまつる。

あはれとや 三島の神の宮柱 唯こゝにしも めぐりきにけり
おのづから 伝へし跡も有ものを 神は知るらん しき嶋の道
尋きて わが越えかゝる箱根路を 山のかひあるしるべとぞ思ふ

廿八日、伊豆の国府をいでて 箱根路にかゝる。いまだ夜深かりければ、

玉くしげ 箱根の山を急げども 猶明がたき横雲の空

いま三島の地を歩いても、ここが国府だというはっきりした跡はみあたらない 。

御殿神社
三島大社から西へしばらく歩くと、街中に
この神社が鎮座している。
名前から国府跡の痕跡かもしれないと思ったが、
江戸の三代将軍家光の宿舎跡だという。
御殿川
およそ名ばかりのどぶ川に近い川だ。
家光が泊まった御殿のそばを流れていたから
御殿川というのだそうな。
伊豆国府はどこにあったのだろう。


三島大社

何とも淋しい伊豆の国庁跡だが、それに反して三島大社のにぎわいは大変なも のだ。

この社の歴史は古く、この地に国府が置かれる前から、相当の力と権威を持っ ていたらしい。祭神は大山祗命(おおやまつみのみこと)、事代主命(ことしろ ぬしのみこと)。

最初に歴史に現れる伊豆の国造(くにのみやっこ)は、物部氏と先祖を同じく する若建命(わかたけのみこと)といわれ、神功皇后の御代というから大化改新よ り400年も前のこととなる。彼は三島大社の祭祀を主宰したとされる。

天平14年(742)にはこの若建命の子孫の日下部直益人(くさかべのあたいますひと)に伊豆国造、伊豆直の姓(かばね)を賜ったとの記事が見える。
そして代々の宮司が伊豆守、大領などの官吏を兼ねた。国司と大社の宮司が同一という、全国でもめずらしい例であろう。

従って、伊豆には他国の総社に相当する神社はない。三島大社あっての伊豆であった。逆に総社も一の宮も兼ねていたともいえる。宝物館に15世紀に書写された三島本「日本書紀」を有する。


三島大社大鳥居 舞殿


拝殿
瓦葺き入母屋破風造りの拝殿。
見事な彫刻が施されている。
天然記念物の金木犀
樹齢1200年といわれる金木犀。
毎年9月下旬に黄金色の花が満開になる。


拝殿と本殿
嘉永8年(1854)の東海地震で倒壊、慶応2年(1866)に再建された。瓦葺き流れ造の本殿
破風付き入母屋造りの拝殿と弊殿をあわせた複合建造物で、国の重要文化財である。


伊豆国分寺跡


伊豆国分寺は、三島から修善寺へ向かう伊豆箱根鉄道駿豆線の三島広小路駅の 近くだ。
静かな住宅街の中にそれはあった。現在は最勝山と称する日蓮宗の寺だという。

延喜式の寺領は1万束だが、平安末期には真言宗の寺となり、多くの塔頭寺院を擁する大寺院であった。北条、武田の戦いで焼失したが、慶長5年(1600)に伊豆代官によって、法華宗として再興されたという。

昭和31年(1956)の発掘調査により、南北に南門、中門、金堂、講堂が並び、回廊外に塔を配する国分寺様式であることが判明した。


寺門から本堂を望む。 本堂


伊豆国分寺塔址の碑
本堂の裏に、塔の礎石がいくつか残っている。
塔の礎石
肝心の芯礎は、明治になって小松宮の
東京の屋敷に運ばれたが、その後行方不明。


伊豆国分寺の配置図
本堂の裏手に無造作に置かれている。


伊豆国地図






へだたりて同じ月みる君とわれ 人間の身はいとかひもなし


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