14.出雲国 島根県松江市 JR山陰本線松江駅 97.10.22 |
「邪馬台国は出雲にあった?」荒神谷・加茂岩倉遺跡 07.05.20 |
意宇(おう)の杜 |
出雲国はここから始まる。 八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと) が、出雲の国は小さい国だ。余った国を 引き寄せて、大きくしようと言われ 朝鮮半島あたりから、四っつの島を引き 寄せられ、島根半島を造られた。 最後に「おう、やれやれ」と言われて、 持っていた杖を道ばたに突き、休まれた。 その杖から根が出てこの杜になったという。 |
出雲国風土記「国引き」 意宇と号(なづ)くる所以は、国引きましし八束水臣津野命、詔りたまいしく、 「八雲立つ出雲国は、狭布(さぬ)の幼国(わかくに)なるかも。初国小さく作らせり。 故、作り縫はな。」と、詔りたまひて、 「たくぶすま志羅紀(しらき)の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りあり。」(..中略.) 河船の毛曽呂毛曽呂(もそろもそろ)に、「国来(くにこ)、国来」と引き来縫える国は、(..中略) 八穂米(やほしね)支豆支(杵築)の御崎なり。(.........中略.........) 「今は、国引き訖(お)えつ。」と、詔りたまひて、意宇の杜に御杖衝き立てて、「意恵(おえ)」と、詔りたまひき。故、意宇と云ふ。 |
出雲国庁跡 |
出雲国庁 | |
後殿から後方の官衙郡が発掘され、 史跡公園として整備されている。 残念なことに正殿や東西の脇殿など は、民有地で発掘が難しいらしい。 総社である六所神社は、後世に現在 地へ遷された。 左図の緑色と灰色の部分が、史跡公園 として整備されている。 |
出雲国庁跡 南門あたりから正殿付近を望む。 鉄工所と民家があって発掘が難しい。 |
後殿跡 後殿跡を示す柱列。この北側に後方官衙郡 の跡が発掘された。 |
政庁跡の説明版と水野三郎先生。 万葉歌人門部王も、出雲の国司をつ とめた。720年頃から730年頃にかけ てと云われている。 出雲守 門部王 京を思ふ歌 飫宇(おう)の海の 河原の千鳥 汝が鳴けば 我が佐保川の 念(おも)ほゆらくに |
菅原道真誕生伝説 承和年間の出雲守菅原是善卿は、ある日菅原家の先祖野見宿禰の墓に詣でた。八束郡菅原の里の乙女が卿の案内役を務めた。卿はこの乙女を愛した。のち是善卿は京へ帰任し文章博士に昇進し、この乙女は出雲に残り男の子を出産した。承和12年(845)6月25日のことであった。 6歳の時、母に付き添われて都に上り、以後父の元で勉学に励み、18歳で文章省試に合格して出世街道をひた走る。この御子が、従二位右大臣まで上り詰める菅原道真であるという。 道真誕生の地は、奈良の菅原天満宮にも伝承されているが、奈良は菅原氏がまだ土師氏と呼ばれていた頃からの本願地で、道真誕生と混同されている可能性がある。出雲の方は、八束郡宍道町に鎮座する菅原天満宮に伝わる菅原聖廟記という古書に記載されているという。 ちなみにこの菅原天満宮には野見宿禰の墓もある。野見宿禰は相撲の祖として名高いが、実は古来からの殉死の習慣をやめさせ、代わりに埴輪を作って葬儀に祀ったと伝えられていて、土師氏の祖となる人である。土師氏は代々埴輪など葬儀を司る家であったが、古墳時代の終焉とともに、学問の家として栄え、菅原氏、大江氏、秋篠氏などに改姓しながら律令制の発展に貢献する。 |
出雲国総社 六所神社 |
国庁の西に接して六所神社がある。出雲国の総社である。 比較的小じんまりとしている。「額田部臣」の銘のある岡田山古墳出土の、円頭太刀は一時 この宮に預けられていたという。大和朝廷の支配が古墳時代にすでに出雲に及んでいたことを 実証する有力な証拠となった刀だ。 |
参道 | 鳥居 |
拝殿 祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊 天照大神、月夜見命、素戔嗚尊 大巳貴命の六柱。 |
本殿 出雲の神社の特徴である高床の大社造り。 |
大蛇 境内の木に縄で作られた蛇が巻き付いていた。なんの祭りなのだろう。 |
十字街(ちまた) | |
国庁から北へ上り、東へ一筋でこの十字路 に出る。 出雲国風土記に次のような記事がある。 国の東の堺より、西に去(ゆ)くこと二十里一百八十歩にして、野城橋に至る。(...中略...) 又、西二十一里にして、国庁(くにのまつりごとのみや)、意宇郡家の北なる十字街(ちまた)に至り、即ち分かれて、二つの道となる。一つは正西道(まにしのみち)、一つは、枉北道(きたにまがれるみち)なり。 |
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風土記の記載どうりの交差点。これはちょっと感動もの。 この道を北にたどれば隠岐に、西にたどれば石見国に至る。 |
出雲国分寺跡 |
出雲国分寺伽藍配置 天平古道から南門を入ると、中門から回廊が巡らされ、講堂に達し、その中に 金堂だけを置き、塔を回廊の外に配する珍しい配置だ。寺域は148メートル四方。 延喜式の寺料は四万束。 昭和三〇年(1955)以降、発掘調査が行われ史跡公園として整備された。 |
天平古道 昔からこの直線上は、稲が実らないと 不思議がられていた。発掘調査によって 古代の道路遺構であることが判明。 天平古道として国指定史跡とされた。 |
南門跡 天平古道から真北に南門が置かれていた。 |
金堂跡 間口32メートル、奥行き19メートル。 東西七間、南北四間の礎石建物であった。 |
金堂礎石 自然石に2段の柱座を加工した立派なモノ。 |
塔跡から金堂を望む 七重塔であったと推定されている。 |
塔の遺構 当時の礎石は残っていない。 |
蓮花紋軒丸瓦 | 唐草紋軒平瓦 |
出雲国分寺の瓦は、全国の国分寺の瓦のうちで、群を抜いて精緻である。 文様の美しさ、彫りの深さ、エッジのシャープさ、どれをとっても絶品である。 出雲の地に、かなり進んだ職人集団が居たに違いない。 |
講堂跡から金堂跡、天平古道を望む。 |
出雲大社(出雲一之宮) |
杵築大社とも呼ばれる。この宮を造営するために、高天原から多くの神々がここに集まり、杵築き給われた。と出雲国風土記は記す。 律令制度がようやく完成し、和銅元年(708)には朝廷から、忌部首(いんべのおびと)が、出雲国司として意宇郡の国府に派遣された。 それまで出雲国を治めていた国造(くにのみやつこ)出雲臣は、この時、国府のある意宇郡からこちらに移り、出雲大社の祭祀に専念するようになる。 |
拝殿 昭和三四年五月一億一千万円の浄財で 完成した。 |
本殿 永享元年(1744)の造営。建物中央を心の 御柱が貫く「大社造」。 |
西側の本殿 出雲大社の神様は、正面ではなく、 西の方向に横向きに向いていらっしゃる。 正妻のスセリ姫を祀る御向社に背を向けて 宗像三女神を祀る筑紫社に向いあう。 従って拝殿からよりも、この方向からおまいり する方が御利益があるという。 |
十九社 十月は全国的に神無月だが、ここ出雲だけ は、逆に神在月という。神様が全国から出雲 に集まるからだ。十月十一日から十八日まで ここにご滞在になるという。東西にあるから 併せて38社となる。 |
神楽殿 神楽殿は本殿域の西側にあるが、 なんといってもこの大注連縄がすごい。 神前結婚式はここで行われる。 |
平成12年(2000)10月、出雲大社の境内から、巨大な柱の根元部分が発掘された。 名古屋大学やアメリカの調査機関が放射性元素による年代を測定したところ、13世紀に伐採された杉材であることが判明した。古文書に宝治二年(1248)に、出雲大社を造営した記事が見えるので、この杉材はその時のものであろうと推定されている。 |
心御柱 宮の内庭から発掘された心御柱。 直径140センチにおよぶ杉の巨木。 |
心御柱の模型 直径140センチの杉材を3本束ねて 一本の御柱としている。 |
古代の大社殿想像図 (神楽殿の裏手に掲示してある) 平安時代、古代の建物を高い順に並べて、雲太、和二、京三と呼んだ。 雲太は出雲の大社、和二は大和の大仏殿、京三は京の大極殿 だという。 草創期には三二丈、平安期から鎌倉期には十六丈あったと伝えられている、 現在は八丈になっている。一丈は約3メートルだから十六丈だと48メートルと いうことになる。ちなみに奈良の大仏殿は十五丈(45メートル)。 現代のビルに当てはめると十五階建てに匹敵する。たびたび倒壊したとも 伝えられている。 鎌倉初期の歌人寂蓮法師は、次のように記している。 出雲の大社に詣て見侍りければ、天雲たなびく山のなかばまで、片削ぎの見え けるなむ、この世の事とも覚えざりける。 やわらぐる 光や空に満ちるらん 雲にわけいる 千木のかたそぎ |
黄泉比良坂 |
古事記で伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、亡くなった妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)に逢うために黄泉国へ行って、死後の世界を見てしまい、怒って追ってきた妻や醜女たちから、逃げ帰ったとされる黄泉比良坂(よもつひらさか)。黄泉国との出入口である。 |
不気味な沼 沼も何となく不気味な雰囲気だ。 |
大磐 黄泉国との出入口を塞いだ大磐。 |