8.甲斐国 山梨県東八代郡御坂町 JR中央本線春日居町 '97.03.20 '02.04.06
08.04.06
甲斐国分寺跡から南アルプスを望む |
甲斐国は現在の山梨県である。4月上旬は桜と桃が満開になり、雪をかぶった南アルプスとともに、この山峡の国を鮮やかに彩る。まさに桃源郷とは、こういう風景をいうのであろう。ちなみに甲斐国は、律令時代以前は峡(カイ)之国と呼ばれていたという。 甲斐国は内陸の国でありながら、律令時代には東海道に属していた。駿河から富士川沿いに,甲斐国府まで支道が通じていたのだ。 |
甲斐国府 |
甲斐国の国府は、はっきりしない。国府の遺構が発見されていないのだ。 とにかく、和名抄には「甲斐国府在八代郡」とあるので、行ってみることにする。 甲府と言うから甲府市が甲斐の国府かなと思っていたけれど、これは違った。甲府から東へ向かい石和の町を過ぎると、笛吹川に出る。この笛吹川を挟んで、南北に国府と国衙という地名がある。 |
笛吹市御坂町国衙 2004年の合併で笛吹市となったが それまでは東八代郡であった。 |
笛吹市春日居町国府 合併前は東山梨郡であった。 |
甲斐国府はどこか。学説は別れているが、10世紀に成立した和名抄には、甲斐国府は八代郡に在りと明記されているので、平安時代には八代郡の御坂町国衙地区にあったことは間違いなかろう。甲斐国府が、国衙から国府へ移転したのか、逆に国府から国衙へ移転したのかは学説の別れるところだ。 |
甲斐奈神社(甲斐総社) |
甲斐総社は甲斐奈神社である。式内社であり由緒は正しい。しかし、甲斐国府と同様に、甲斐奈神社も二つあるのだ。まずは一宮町橋立にある甲斐奈神社だ。 |
甲斐奈神社の鳥居 一宮町の甲斐奈神社。 鳥居の上側が大きく反っている。 |
鳥居の掲額 甲斐国総社と誇らしげに記される。 |
隋~門 | 拝殿 |
本殿 小型だが質の高い彫刻が施された本殿。複式の入母屋造りは珍しい建築様式だ。 祭神は国常立命、高皇産霊命、伊邪那岐命、伊邪那美命。 江戸期までは、祭礼の日に笛吹川東にあるすべての神社の神主が、この社に集まり五穀豊穣を祈ったという。別名は橋立明神。 |
もう一つの甲斐奈神社 こちらは春日居町国府にある。 広い道路に面している。 |
拝殿 境内は広々としている。 祭神は彦火火出見命、大己貴命。 |
甲斐国分寺 |
笛吹川から分かれた金川を東へ渡ると、国分寺跡へ出る。 甲斐国分寺の碑と、いくつかの礎石が、国分寺の在りし日の姿を語っている。
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南門から金堂を望む このあたりは桃の花の美しい所で、南アルプスと満開の桃は、まさに甲斐国の最も美しい好処である。右に史跡甲斐国分寺址の碑が立つ。左は聖武天皇勅建古道場とある。 |
五重塔の礎石 基壇長の一辺は16.9Mなので 七重ではなく五重塔であったろう。 14個の礎石が残っている。 |
心礎 一辺2.2Mの巨大な礎石で 柱座の径は43cm。 深さ22cmの真円の柱穴を穿つ。 |
金堂跡の発掘現場 今まであった国分寺の本堂を取り壊し、古代国分寺の金堂を発掘している。 旧講堂跡の礎石は、金堂跡の北側の墓地の中に、20数個が点在している。 |
金堂の発掘現場と薬師堂 2003年に訪れた時の薬師堂。 国分寺の法灯を受け継ぐ臨済宗の寺が あったが、遺跡発掘のために移転した。 |
現国分寺 2008年4月6日に再訪した時は 移転先で本堂や庫裏が完成していた。 護国山と号する臨済宗の寺だ。 |
浅間神社(甲斐一之宮) |
国分寺跡を東北にのぼり、大石川を渡ったところが、甲斐一之宮「浅間神社」(アサマジンジャ)である。 三代実録に拠れば、清和天皇の貞観6年(864)5月25日富士山が大噴火した。これは、駿河国の浅間神社の祭祀の怠慢のためであるとのことで、反対側の甲斐国でも浅間神社を祀ることにした。貞観7年(865)12月9日、詔して甲斐国八代郡に浅間神社を祀るとある。 |
浅間神社 この宮はあさま神社とお呼びする。 |
子持石 拝殿前に鎮座する。 |
拝殿 破風付きの入母屋造りで、 寛文12年(1672)の建立。 屋根は檜皮葺の上に銅板をかぶせた 美しい造りだ。 |
掲額 第一宮と懸かる。 甲斐一ノ宮は、この宮の他に河口湖畔の浅間神社、市川大門の浅間神社、富士吉田の北口本宮浅間神社とする諸説がある。 |
本殿 祭神はもちろん木花咲耶姫。富士の霊峰である。しかしこの宮は東に向いていて 南にある富士山には向いていない。不思議なことだ。 |
富士石 本殿の北にある。 これは富士山に向いている。 |
成就石 この石に立って本殿に向かい 願い事をすれば、必ず叶うという。 |
十二支の石像 本殿の裏にこんな可愛い石像が並んでいた。いずれもユニークで可愛い。 |
恵林寺 |
一宮町から北へ走ると、恵林寺に着く。乾徳山と号する臨済宗妙心寺派の名刹である。 武田家の菩提寺であり、夢窓疎石が開山、信玄が招いた快川紹喜が中興の祖。 天正10年(1582)4月3日、織田軍に攻められた恵林寺は、快川上人を始めとする百人余の僧共々に焼け落ちた。この時の快川上人が発した偈は有名である。 安禅は必ずしも山水を須(もち)いず 心頭を滅却すれば火も亦(また)涼し これは晩唐の詩人杜荀鶴の、「夏日悟空上人の院に題す」という詩の一節である。 |
庭園 夢窓疎石の手による庭園。しだれ桜が見事であった。 |
武田信玄の墓 | 柳沢吉保の墓 |
武田神社(躑躅が崎館跡) |
甲府市内へ入って、北に向かうと武田神社だ。風林火山でおなじみの躑躅がア館の跡である。 |
武田神社 満開の桜が歓迎してくれた。信虎、信玄、勝頼の武田三代60年の栄華の跡である。 |
甲斐国地図