43.河内国 大阪府藤井寺市惣社 近鉄南大阪線土師ノ里駅 02.12.07
河内国は、淀川の東、交野市、四条畷市、門真市、寝屋川市から、大阪市東部地区、東大阪市、
八尾市、藤井寺市、柏原市、羽曳野市、富田林市などを含む。古代から開けた土地で難波や堺の
港から、平城京へ向かう交通の要所でもあった。
国府(こう)遺跡 |
和名抄によると河内国の国府は志紀郡にあったという。古代の志紀郡に属する藤井寺市の允恭
天皇陵の東側に国府という地名があり、その北側に惣社という地名と、神社が現存する。
河内国府も、おそらくこの地に置かれたであろうことは、ゆかりの地名が残っていることによって、
推定されているが、まだ国府に関係した遺構、遺跡は発掘されていない。
その惣社地区に、旧石器時代から各時代にわたる各種の遺物が、発掘されているところがある。
国府(こう)遺跡という。旧石器時代のナイフ形石器や、縄文・弥生時代の人骨が90体以上
出土し、考古学史上きわめて重要な遺跡である。
国府遺跡 縄文・弥生の人骨のほか、国府型ナイフ形 石器と呼ばれる旧石器時代の貴重な石器が 出土している。 |
国指定の史跡公園 昭和49年(1974)に国指定の史跡に指定 され、現在史跡公園として整備されている。 残念ながら国府関連の遺構は未発見だ。 |
志紀県主神社(河内国惣社) |
国府遺跡の西側に志紀県主神社がある。河内国惣社である。祭神は志紀県主の祖とされる
神八井耳命(神武天皇の長子)で、天照大神、天児屋根命、住吉三神などを祀っている。
古くから尊崇を受け、延喜式内大社であり、河内国惣社とされた。
志紀県主神社 楠木正成の尊崇を受け隆盛を極めたが、 楠氏の滅亡とともに衰微した。 |
河内国府址の碑 なぜか、この神社の境内にあった。 |
河内国分寺跡 |
河内国分寺は柏原市国分東条(ひがんじょう)町にあったという。大和川に沿って河内国府
から平城京へ通じる幹線道路竜田の道、現在の国道25号線、奈良街道を見下ろす高台に建
っていた。
現在は塔跡が良く保存されているが、そのほかの伽藍は失われたままで、中門跡などの遺構が
発掘されたが、現地では全くわからない。塔は七重塔であったと推定されているから、平城京
に向かう旅人は、高台に達つ国分寺の塔に、目をそばだてたことだろう。
河内国分寺塔跡(南東から) 発掘された基壇は一辺約19Mの 壇上積基壇で、高さは1.54M、六段の階段 が四方についた立派なものだ。 |
河内国分寺塔跡(北東から) 花崗岩の礎石は、心礎を含めて6個残って いたという。礎石の位置から、塔の一辺は、 10.36M、七重の塔であったと推定されて いる。 |
現地はきわめてわかりにくい。案内表示は全くない。地元の人でも知らないくらいだ。
光洋精工国分工場の裏手の高台にある。近くに国分東小学校があるので、それを目
指していけばよい。車で行く場合は、この小学校の前にある駐車場に停めさせてもら
った方がよい。史跡下まで行くと細い道で行き止まりなので、戻るのに大変苦労する。
大和川を見下ろす絶景の地にあった。向かい側の竹原井頓宮は聖武、孝謙両帝が頻繁に 利用した別宮であるが、平城京へ向かう賓客をもてなした離宮とも言われている。 (柏原市歴史資料館資料より) |
河内国分寺の伽藍配置は、特異な ものである。 立地する地形によるものだろうが、 中門、金堂、講堂などの主要伽藍 と離れて、別の尾根に塔を建てたと 推定されている。 武蔵国分寺なども、塔がかなり離れ て建てられているが、ここ河内国分 寺もきわめて異例である。 国府からも4KMも離れたこのような 場所へ、河内国分寺はなぜ建って いるのだろうか。 国分寺建立の裏の立役者光明皇后 は、安宿姫といったが、ここ河内国の 安宿郡と何か関係があるのだろうか。 (右図は柏原市歴史資料館より) |
孝謙上皇・弓削道鏡の名誉回復 河内国は弓削道鏡のゆかりの地である。道鏡は河内国八尾に生まれ、東大寺で修行して孝謙上皇の看病禅師に指名されて、運命が大きく変わった。貴族でもない一介の僧侶が、太政大臣禅師、法王まで上りつめ、はては孝謙上皇(この時は重祚して称徳天皇であるが、ここでは孝謙上皇で統一する。)により、こともあろうに天皇位まで譲られるかというところまで立身した。万世一系の天皇による統治を、天壌無窮の国体としてきた日本の歴史にとって、これは前代未聞の大事件であった。 この事件の結末は、和気清麻呂の宇佐八幡の神託奏上によって阻止され、翌年の孝謙上皇の急死によって、道鏡も下野薬師寺に左遷されて幕を閉じる。さて、この二人、事件の直後から意識的に醜猥な噂をふりまかれ、現在もそれが通説となって、多くの人がこの事件は男女のスキャンダルが原因だと思いこんでいる。 江戸時代の川柳が、そのすべてを物語っている。 道鏡に根まで入れろとみことのり 道鏡に崩御崩御と称徳言い 近年になってこの通説に対して、強烈な反論が出てきた。山野としえ氏、坂口安吾氏、井沢元彦氏などがその急先鋒である。 道鏡は漢語、サンスクリット語を自在に操る当時最高の知識人であったとし、孝謙上皇も生涯独身を通し、清浄な処女帝であったとする。どうしてそんなことが言えるのか、どこに証拠があるというのか。この説を紹介してみよう。 まず道鏡の方だが、当時は東大寺の大仏開眼の直後であり、中国から命がけで日本に渡ってきた鑑真和上が、厳しい戒律を僧侶に課した時代である。その鑑真によって開かれた戒壇の中心である東大寺、清廉高徳で聞こえた良弁上人に厳しく仕込まれた道鏡が、女犯戒を犯すわけがないというのだ。 孝謙上皇はきわめて聡明な女性であった。藤原氏出身の光明皇后の娘でありながら、政権中枢に占める藤原氏の横暴を苦々しく思い、有能な道鏡や吉備真備を抜擢して、藤原氏に対抗させた。当時の最高の知識であった儒教の思想に深く共鳴し、その結果、万世一系よりも有徳の士に天子の位を譲る方が合理的だと考えたのだ。 この二人のコンビは、藤原氏にとってとんでもない政策を実施した。当時の藤原氏は律令国家の根幹であった公地公民制を自ら破り、墾田永代私有法によって税金を免除される私的な荘園を拡大していった。その趨勢に対して孝謙上皇は天平神護元年(765)、寺院および百姓による小規模の墾田以外は、断固それを禁止したのである。こうした政策は既得権を持つ藤原氏を刺激した。そこに持ってきて、天皇位の禅譲の意向である。 これに真っ向から反対したのが、旧勢力の代表、左大臣藤原永手である。右大臣吉備真備をうまく抱き込み、和気清麻呂に言い含めて、宇佐八幡の神託を奏上させる。孝謙上皇の譲位を一応防いでおいて、吉備真備を失脚させ、翌年には孝謙上皇を暗殺したという。上皇の居ない道鏡は、彼らの敵ではあり得ない。あっさり政権は藤原氏の手に戻った。これから平安時代の藤原摂関政治の隆盛が始まるのである。 これが、道鏡事件の真相だというのである。かなり説得力のある新説だと私は思う。 政権を握った藤原氏は、自らの手で歴史書「続日本紀」を編纂した。その書中で不倶戴天の敵であった孝謙上皇と、道鏡をあたかも男女の関係があったかのように匂わせて、二人の名誉を末代まで踏みにじったのである。 |
道鏡幻夢
これまでの通説が、道鏡が流された下野薬師寺の項にあります。
河内国地図
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