19.上総国  千葉県市原市惣社 小湊鉄道上総村上駅  '98.05.03 04.06.26
                           14.01.15


親王任国

上総国は大国である。それも特別な国である。どう特別かというと、親王しか国守になれない国なのだ。親王任国といって上総のほかには常陸と、上野があるだけである。だから臣下は上総守を名乗れない。織田信長がどんなに破天荒でも、上総守を称するわけにはいかなかった。さすがの信長も天正四年(1576)内大臣に任じられるまで、上総介で甘んじていたのである。もっとも親王任国制が始まったのは9世紀になってからだから、律令制の初期には上総守に任じられた人もいる。大伴家持などはその代表例である。


あずまぢの道のはてよりも、なほ奥つかたに生ひ出でたる人........


という書き出しで始まる「更級日記」は、上総介菅原孝標の娘の旅日記である。
寛仁4年(1020)9月3日、13歳の少女は京に帰る父について、上総の国府を
旅立つ。少女は目に映った上総の国府を、次のように記している。


南は、はるかに野の方見やらる。ひむがし西は、海近くていとおもしろし。
夕霧たちわたりていみじうをかしければ、朝寝などもせず、かたがた見つつ、
ここをたちなむこともあわれに悲しきに..............


 幻の上総国府を訪ねて

更級日記から1000年近く経った今、上総の国府は跡形もない。上総の国府推定地を歩く探検隊があると知って、2014年1月15日に市原市へ出かけた。

市原市役所で出迎えてくれたのは、かずさのくに国府探検会の前田会長ほかの皆さんで、みんな私と同年配でちょっとホッとした。
かずさくに国府探検隊の前田会長 

上総国府は市原市にあったことは確かなのだが、遺構は未だ見つかっていない。推定地は諸説あるが、学説はおおむね 郡本地区と村上地区に集約されるようだ。今回は探検会の皆さんと、もっとも有力とされる市原市の市原地区、郡本地区を歩いた。

   
 説明役の山本さん  ご婦人達も元気に参加
今日の参加者は20人。折からの寒波で猛烈な寒さだったが、みな元気に2時間の歴史ウオーキングを楽しんだ。
 
   
 阿須波神社  万葉歌碑

探検は国府の西北、戌亥(イヌイ)の 守り神阿須波神社がスタート地点だ。この社が国府の乾に当たるとすれば、ここから東南の方角に国府があるということになる。東南の方角をたどると、市原遺跡や郡本遺跡など上総国府推定地にぶつかるというわけだ。

万葉集に、この神社を詠んだ歌があるという。山本さんは万葉集にも、更級日記にもお詳しい。古典を背景にした説明は、実に説得力がある。

庭なかの 阿須波の神に小柴さし 吾は(いわ)はむ 帰り来までに

宮のかたわらに、この防人が詠んだ万葉歌の歌碑があった。庭中は国庁の敷地内ということであろうか。

   
 光善寺薬師堂  国庁推定地

探検は国庁の守り神阿須波神社からスタートし、光善寺薬師堂を参拝する。このあたりは蘇我氏の勢力範囲だったらしく、この寺も蘇我上総太郎光善の創建と伝えられている。

この寺に南面する民家の新築現場から、古代の土器や瓦が出土した。いわゆる市原遺跡で、上総国庁跡の有力候補地とされている。
 
 
 市原八幡神社
上総国総社と推定される飯香岡八幡宮の元宮とされ、毎年旧暦の8月15日に行われる柳楯神事の出発地でもある。  

柳楯神事 

今年(2014年)の中秋の名月は9月8日であった。毎年、中秋の名月に近い日曜日は、上総国総社である飯香岡八幡宮の例大祭である。その祭りの前日に、上総国府から柳楯が出発する。600年も連綿と続く上総国の伝統行事である。

9月13日にその柳楯の出発を見学しに、市原市の光善寺境内にある公民館へ出かけた。国府探検隊の前田ご夫妻にご案内いただいた。

 
 出振舞

柳楯は25本の柳の枝を、5本の青竹にくくりつけ、楯の形にしたもので、神の依り代だろうという。森家と山越家の2家の司家が、毎年交代で柳楯を作る。その柳楯の前で、出振舞が供される。神と共に食事をする「共食い」というしきたりだと、柳楯神事保存会の山越さんから教えられた。

今日は特別に八幡はやし保存会の皆さんによる神楽が奉納された。ラッキーである。

 
 
 八幡はやし

獅子舞と仮面舞踊は見事なものだ。初期の芸能の姿を、現代に伝えている。非常に貴重な民俗文化財である。 

 
 市原八幡を出る柳楯

柳楯はまず市原八幡に向かう。金棒をついた金棒役を先頭に、司家が前後を供奉、2人の白丁役に担がれて、静かに進む。 柳楯の重さは20kg近くある。飯香岡八幡の元宮とされる市原八幡に、神事催行を報告、阿須波神社に道中の安全を祈願する。

 
 五所町民館に向かう柳楯

上総国府を出発した柳楯は、五所町の御三家に迎えられ、五所町民館で一泊。翌日、飯香岡八幡に到着して例大祭が始まるのである。
 

 柳楯神事の進行順序  房総の歳時記より

 

 
 古甲遺跡
説明される山本さんの後ろに見える民家の新築工事の現場から、巾8M、深さ2Mの平安初期の区画溝の遺構が見つかった。このあたりの字名は古甲で、古国府に通じるし、竹ノ内という館ノ内から転じたと思われる地名もある。この辺一帯から、掘立柱建物の遺構や緑釉陶器なども発掘されている。上総国庁の有力な推定地である。
 
 
 
 稲荷台古墳
王賜銘鉄剣が出土したことで有名な稲荷台古墳。実際の1/3の模型だという。この古墳群の地は、平安時代にも政治の中心地だったらしい。平安時代の地層から、瓦や緑釉陶器、墨書土器などが出土している。もしこの地が平安期の国司館だったとすれば、更級日記の作者は、少女時代をここで過ごしたはずだと、山本さんは推測している。ロマンだなあ。

 王賜銘鉄剣 
 
ロマンといえば、王賜銘鉄剣である。この古墳から出土した鉄剣で、 短甲・剣・鉄鏃・刀子・大刀・きさげ状工具・砥石などともに副葬されていた。

同時に出土した須恵器の年代から、5世紀中頃と推定され、銀象眼された漢文としては、日本最古といわれる。

X線照射により浮かんできた銀象眼の銘文は、
「王賜□□敬安」とあり、
「王□□を賜う。敬しんで安んぜよ」
と読める。   

この王は誰か。これも諸説あるが、山本さんは允恭天皇だろうという説だ。允恭帝は安康帝、雄略帝の父帝で、帝の妃に有名な衣通郎姫がいる。
 我が夫子(せこ)が 来べき夕なり 小竹(ささ)が根の
蜘蛛の行ひ 今宵
(しる)しも 
衣通郎姫(そとおりのいらつめ)は絶世の美女で、その美しさは衣を通して輝いたとされる。彼女はまた和歌の名手でもあり、紀伊国和歌浦に玉津島姫として祀られ、和歌三神の一つとして崇められている。

 
 探検マップ(地図をクリックすると拡大します)
 
上総国府の候補地
 
上の図は上総国府の候補地である。このうち3の能満地区は、明治以前に府中と呼ばれていたことで候補に挙がっているのだが 、どうも中世の遺跡らしく、最近では候補地からはずされているようだ。

4の村上地区は養老川の沿岸の低地で、すぐ近くの高台には、国分寺や国分尼寺の遺構があり、惣社という地名が広い範囲に残っている。藤岡謙二郎や木下良など国府研究の大御所は、上総国府を村上地区に比定している。実際、村上川堀遺跡からは、国司が腰帯に付けていたと思われる、丸鞆(まるとも)と呼ばれる帯飾りが出土している。しかし、まだ決定的な証拠は出土していない。

 
 村上地区より戸隠神社を望む
 
2015年1月16日、福岡からの大川さんと一緒に、前田さん、山本さんの案内で、村上地区の比定地を訪ねた。小湊鉄道の上総村上駅の近くだ。上総総社の有力候補戸隠神社を祀った小高い丘が,地区の鎮守のように望まれて、ここに国府があったという印象を与える。

村上駅を挟んで東に観音寺があり、戸隠神社と東西一直線上にあるのも意味ありげだ。

飯香岡八幡宮(上総国総社)

国府所在地が2説あるように、上総総社に比定される神社も二つある。まず、最有力とされる飯香岡八幡宮を訪ねた。JR内房線にその名も八幡宿という駅がある。飯香岡八幡宮は、駅から3分ほど歩いたところにあった。

 飯香岡八幡宮

社殿によれば白鳳4年(675)の創建であるという。境内は大変広く、堂々とした宮である。拝殿は唐破風に重破風の入母屋造りで、格式の高さを感じる。本殿は工事中だったが、3間社流造だ。

国府惣社の掲額 放生池

拝殿には国府惣社の掲額が掲げられている。

旧暦の8月15日は、上総国にとって大変重要な一日である。

まず、午前中に一之宮から五之宮までの神輿が集まる神輿渡御祭が行われる。総社の由緒を今に伝える祭りだろう。

古式を受け継ぐ柳楯は、前日に出発し光善寺、市原八幡、阿須波神社を経て、五所に1泊、当日の昼過ぎに、神輿と入れ替わるように飯香岡八幡宮の境内に入る。

また、殺生をやめて善行を積むため、捕らえた魚を池に放つ放生会も、古代から連綿と受け継がれている。

逆さ銀杏 装飾灯籠

治承4年(1180)、源頼朝は石橋山の合戦に敗れ、海路、上総へ落ちのびて来た。主従とともにこの八幡宮に立ち寄り、銀杏を逆さに植えて源氏再興を祈った。銀杏は見事に根付き、源氏を勝利に導いた。その時の銀杏だろうか、見事な大木であった。

大鳥居の脇に一対の装飾灯籠がある。大きな獅子と竜の彫刻に、十二支を刻んだ石灯籠だ。なかなか立派なものだった。

戸隠神社(上総国総社)

こちらを総社に比定する説もある。なにしろ惣社という地名の真ん中にあるのだから。地名は良く古代の歴史を物語るといわれる。周囲には国分寺の遺跡も多く、戸隠神社が上総総社であった有力な証拠になっている。

かなりの高台で更級日記に書かれたように、眺めは良かったろうと思われる。
 
 戸隠神社拝殿
 


上総国分寺

戸隠神社のすぐ北に、国分寺がある。延喜式に載せられた寺料は4万束と多額で、東西340M南北480Mの広大な境内に、金堂、講堂、七重塔などの大伽藍が甍を並べていた。金堂の礎石は失われているが、残された基壇跡から想像すると、唐招提寺の金堂に匹敵する規模だという。


復元された西門の柱列
現在の国分寺の山門の前に、天平の国分寺の西門の遺構が発掘された。整備された基壇に古代の柱列が復元されている。


国分寺塔跡の碑
ほとんど手つかずの古代国分寺の
境内にぽつんと建っている。
塔跡の礎石
直径1.68Mの心礎。斑糲岩で鴨川市
嶺岡付近で産出し船で運ばれたのだろう。


金堂跡
塔跡から本堂に向かうと金堂跡の
表示板がある。気をつけないと見過ご
してしまう。
金堂跡にあった供養塔
金堂の基壇の上には、供養塔が並んで
いる。
  
 
 上総国分寺の伽藍配置
この国分寺は9世紀中頃に焼失したらしい。南大門のそばから風鐸や瓦、墨書土器が大量に投棄されているのが発見されたのだ。9世紀中頃といえば貞観年間に当たり、富士山の噴火や貞観の大地震など天災の多かった時代である。

この焼失前にも、数回建て替えられていることがわかっている。伽藍の配置は、中門と金堂を回廊で結び、その中に塔を配する典型的な大官大寺式配置であった。焼失後は瓦葺きから、檜皮葺に変わり、塔は再建されることはなかった。 

10世紀に入ると律令制の衰えとともに、国分寺も次第に衰微し、室町期から戦国期に入るともうその面影は無くなってしまった。


現国分寺本堂 薬師堂

現在は医王山と号する真言宗の寺である。本堂は南面して建っている。薬師堂はたいへん趣のある建物で、茅葺きで西面して建っている。江戸時代の正徳6年(1716)の完成で、江戸期にはこの堂が本堂であったらしい。


国分尼寺跡

上総国分尼寺の遺跡は、国の指定史跡として、中門、回廊などが当時の建築様式のまま復元されている。寺域は東西350M、南北371Mと国分尼寺としては、全国で一番大きいという。

復元された上総国分尼寺
中門と回廊はヒノキ、ケヤキ、ヒバ材を使い、古代の道具、工法で復元されている。金堂と回廊に囲まれた金堂院に立つ灯籠は、青銅製で漆塗りの上に金箔を貼って再現している。

山本さんの説明では、金堂の薬師如来がこの灯籠を見つめているのだという。そういえば東大寺にも、有名な八角灯籠があったなあ。大仏様は灯籠に彫られた音声菩薩のあでやかさに、目を奪われていたのだろうか。


金堂基壇と中門・回廊 中門


玉前神社(上総一ノ宮)(2006.04.15取材)


上総国の一之宮は玉前神社である。祭神は玉依比売命だ。玉依姫神武天皇の母君に当たる。海神大綿津見神(おおわたつみのかみ)の娘。火遠理命ほおりのみこと山幸彦)に嫁いで鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を産んだ姉の豊玉姫の代わりに命を育て、後に結ばれて神武天皇のほか4人の皇子を産む。だから九州地方の姫神のはずだが、なぜか上総国に祀られている。社格は高く延喜式では名神大社に列している。

9月13日の神幸祭は浜降神事で上総の裸祭りといわれ、12柱の神輿が裸の男達に担がれ、九十九里浜を疾走する雄渾な祭りである。

一の鳥居 二の鳥居


拝殿


本殿
朱塗りの回廊に囲まれている。
神楽殿
県の無形民俗文化財に指定されている
上総神楽は、三百年の歴史を持つ太々神楽。
現在二十五座が伝承され、元旦、春、秋の
例祭に奉納される。


翁の像
拝殿の欄間に彫られた高砂の翁
獅子の彫刻
裏門の柱に彫られた一対の獅子


上総国地図




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