32.紀伊國 和歌山県和歌山市 JR阪和線紀伊駅 1999.08.09



紀伊の国は「木の國」である。五十猛命(いそたけるのみこと)という神様をご存じだろうか。
天照大神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の誓約(うけい)で生まれた神で、「木」の神であ
る。
多くの木種を持って筑紫から日本全国に播き増やし、いたるところに青山を作った。またの
名を「有功(いさおし)の神」ともいう。この五十猛命が鎮まったところが「木の國」である。

「木の國」に起こった豪族が紀氏を名乗り、「木の國」は「紀の國」となり和銅6年(713)
風土記編纂の詔で、佳字二字を地名とせよとの命が出て、「紀伊國」と表すようになった。




紀伊国府跡

紀伊の国府は、紀ノ川が和歌山港に注ぐ寸前の北側にあった。府守神社というのが、その名残
らしい。うっかりすると見過ごしてしまいそうな小さな社である。



この日は地元の盆踊りの会場になっていて、古いながらに地元の人たちの親しみを感じた。
それにしても社殿はかなり古く傷んでいた。聖天宮という額がかかっていた。

総社は、今ではその跡がどこなのかまったくわからないという。



紀伊国分寺跡

紀伊の国府から東へ5キロほど走ると、右手に国分寺跡が見えてくる。これもかなり注意していないと
見落としてしまう。なにしろ表示もなにもないのだから。肝心の国分寺金堂は、大改修の最中で、
全面に覆いがかけられて、全く見ることが出来ない。

天平勝宝8年(756)に道場具の下賜を受けたことが記録されているほか、治承2年(1178)までは
寺料2万束を受けていたことが、史料に残っている。天正13年(1585)、羽柴秀吉の根来攻めの際
全焼したが、元禄年間に再建された。



改修中の金堂の北側に、講堂の柱跡が復元されている。



金堂の南側には、塔の礎石がある。この整備状況も極めて良い。



紀伊国分寺跡を示す史跡表示。周囲はご覧のように、未だ未整備である。





根来寺

紀伊国分寺跡を北へたどると、根来寺へ出る。
根来寺は覚ばん上人(興教大師)の開創になる真言密教の寺である。

覚ばん上人は仁和寺や東大寺で修行した後、高野山に登り、真言密教の教典研究と
学徒を養成する伝法会を主宰し、鳥羽上皇の帰依を受け長承2年(1133)金剛峰寺
の座主についた。金剛峰寺は延喜21年(921)以来、東寺の管轄下に置かれていた
から、
200年ぶりに高野山独自の座主を持つことになる。しかし、このことに対する反
対も強く、
上人は争いを避けるために、座主職を辞し4年間もの間、無言の行に入る。

保延6年(1140)、高野山を逐われた覚ばん上人は、多くの弟子を伴って根来に移り
根来山の興隆に力を注いだ。

光明真言殿 享和元年(1801)の建立。開山興教大師の尊像と、歴代座主の位牌を
         祀っている



大塔 明応5年(1496)に建立された我が国最大の木造多宝塔で、秀吉の根来攻めの
    戦禍から残ったもの。弾痕などの戦乱の痕跡が見られる。国宝である。



大門の仁王の手の上で寝る子猫
どこから入り込んだのだろう。



こんなところにも猫
根来寺の案内のおばさんが猫が好きで、捨て猫やら、野良猫やらがたくさんいた。
コイの餌の箱に入って寝ぼけている猫。窮屈じゃないのかな。



根来寺の前にあるフランス懐石の三栖(みす)は、とてもおいしい店。昼なら定食2700円。



粉河寺

紀伊国分寺から東へ3キロほど走ると、西国第3番札所粉河寺である。
国宝の粉河寺縁起絵巻によると、千手観音の化身、童男行者が池から現れて、大伴氏に
祭祀を促し、宝亀元年(770)開創されたと伝える。

中門 天保3年(1832)の建立で、四天王を祀っている。「風猛山」の扁額がかかる。


本堂 享保5年(1720)の再建。一重屋根の礼堂と、二重屋根の正堂とが結合した
    珍しい建築形態である。




玉津島神社

玉津島神社は和歌浦に面している。祭神は天照大神の妹神、稚日女尊(わかひるめのみこと)。
また、衣通姫(そとおりひめ) を配祀する。衣通姫は絶世の美女として有名だが、和歌の神としても
尊崇を集めている。第58代光孝天皇の夢枕に立ち、

立ち返り またもこの世に 跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦波

との一首を詠じられたとされ、住吉大神(摂津)、柿本大神(明石)とともに、「和歌三神」の一つと
される。




「和歌浦」は「若の浦」が転じたものだという。

聖武天皇はことのほかこの浦がお気に召され、たびたび玉津島行幸をされ、この神社の裏山雑賀野
に離宮を営まれた。神亀元年(724)10月の行幸に同行した山部赤人が詠んだ次の長歌、反歌は
絶唱とされる。

万葉集巻六

やすみしし我が大君の 常宮(とこみや)と 仕えまつれる 雑賀野ゆ 背向(そがい)に見ゆる 
沖つ島 
清き渚に風吹けば 白波騒ぎ 潮干れば玉藻刈りつつ 神代より しかぞ尊き玉津島山

沖つ島 荒磯(ありそ)の玉藻 潮干満ちて 隠ろいゆかば 思ほえむかも

わかの浦に 潮満ちくれば 潟を無み 芦辺をさして 鶴(たず)鳴きわたる

今は「片男波海岸」とか「あしべ通り」などと現地の地名で残っている。

山部赤人の歌碑


和歌浦 ちょっと曇っていてよく見えないが、昔はもっと島があってすばらしい眺めだったようだ。
      地元では和歌の浦と呼ばず、わかうらと呼ぶようだ。




紀伊一之宮 日前神宮(ひのくまじんぐう) 国懸神宮(くにかかすじんぐう)

これは立派な神社である。延喜式名神大社であり、明治には官幣大社に列している。
天の岩戸に天照大神が隠れた時に、天の香具山の銅で大神の御像を作り、大神にお出まし願った。
その時の御像が、一つは伊勢に祀られた八咫鏡であり、一つは日前宮の日像鏡(ひがたのかがみ)、
そして、
いまひとつが国懸神宮の日矛鏡(ひぼこのかがみ)であるという。つまりは天照大神と御同体
であり、伊勢神宮と
同格というわけだ。6万7千uの広大な敷地を二つに分け、向かって左が日前神宮、
右を国懸神宮とする。


日前神宮




国懸神宮





高野山

紀伊へ入る前の日に、難波から南海電車で高野山へ登った。
奥の院への参道の両側には、戦国の武将たちの墓が、敵味方を問わず、仲良く並んでいた。

豊臣秀吉




織田信長




石田三成




明智光秀




根本大塔

高野山は弘仁7年(816)、空海が嵯峨天皇より高野山を賜り、金剛峰寺を開創したのが
始まりである。海抜1000メートル、東西5.5キロ、南北2.3キロの山上盆地に117の
寺が
軒を並べる一大霊場である。

大塔は高さ48.5メートル。真言密教の根本道場である。





紀伊國地図



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