31.上野国 群馬県前橋市元総社町 JR両毛線新前橋駅 99.06.03 06.11.09 


上野国印

ここは昔、毛の国と呼ばれた。越の国、豊の国などのように、上古には一字で国を表した地域がある。大宝年間頃から、国名は二字ということになったのだが、それまでは、毛の国を上下に分けて上毛野下毛野と呼ばれていた。それぞれ「かみつけの」「しもつけの」と読む。群馬県と栃木県を結ぶJR線を両毛線という所以である。

崇神天皇の48年(紀元前50)、皇子の
豊城入彦とよきいりひこに命じ東国を平定させた。皇子の子孫が上毛野国造、下毛野国造になったという。

古代には車評」くるまこおりが置かれた。クルマとは「玄馬」をいうといわれ、騎馬を得意とする渡来人が移住していたらしい。群馬という地名の由来であろう。

弘仁2年(811)、上野国はそれまでの上国から大国に改められ、天長3年(826)上総、常陸とともに親王を以て太守に任ずるという、いわゆる親王任国になった。


上野国府跡(宮鍋神社)


上野国の国府がどこにあったかは、未だに確証がない。しかし、ここ宮鍋神社は、かってこの地を治めた長尾氏が築いた蒼海城(あおみじょう)の跡とされ、蒼海城は上野の国府跡に建てられたという記録があるので、この地を上野国府跡に推定する学者が多い。

この宮鍋神社一帯から、多数の古瓦が出土している。さらに、元総社遺蹟、寺田遺蹟などから瓦や墨書土器が出土、元総社小学校の校庭からは大型の掘立建物跡も発見された。こうした考古の発見と、上野国交代実録帳(1030年)の記録をもとに、宮鍋神社付近を国庁とし、東西に八町、南に八町の国府域が想定されている。


蒼海城見取り図
永享元年(1429)長尾氏がこの地を領し、上野国府跡に蒼海城を築くと記録にあるという。


宮鍋神社の社叢
静かな住宅地の中にある。
ひときわ目を引く巨木が、この神社の
ただならぬ由緒を物語るようだ。
宮鍋神社
小さな祠の前に、コンクリートの鳥居。
かたわらに上野国惣社跡の碑が建つ。
祭神は経津主命、金山毘古神、金山毘売神。


説明板
前橋市教育委員会の説明板。
国府正庁復元図
説明がほとんど無いのは淋しい。


小さな祠
コンクリート造りの小さな祠が鎮座している。このあたりに上野国府の正庁が眠っている。


平将門の乱
天慶2年(939)11月、常陸国の国府を攻めて朝廷へ反旗を翻した平将門は、12月に下野国の国府を占領、勢いに乗って12月18日には、ここ上野国府に入った。当時の上野介藤原尚範は無抵抗で、政庁を明け渡し印鎰(いんやく)を献じた。将門はここで上野総社の巫女の神託を受け、新皇と称する。

今昔物語に、この時の記事が見える。

それより上野国にうつる。即ち介藤原尚範たかのり印鑰いんやくを奪ひて、使を付けて京に追いのぼせつ。其の後、将門、府を領して庁に入る。陣を固めて諸国の除目じもくを行ふ。その時ひとりの人有りて、くちばしりて、「八幡大菩薩の御使い也」と名乗って曰く、「朕が位を蔭子おんし平将門に授く。すみやかに音楽を以て、これを迎え奉るし」と。将門此を聞きて再拝す。いわん若干そこばくいくさ、皆喜び合へり。ここに将門自ら表を製して新皇と云う。即ち公家こうけに此の由を奏す。


上野国総社

上野国の総社は、国府跡とちがって立派な社である。上野国14郡549社を合祀する。主祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)というから下総の香取神宮と同じだ。

安閑天皇元年(532)、上毛野君小熊王はこの宮の社殿を改築し、蒼海あおみ明神と称えたという。
のちに上野国十四郡の549社を勧請合祀し、総社明神とした。

この宮に伝わる上野国神明帳は、県の重要文化財である。


鳥居 参道

拝殿
唐破風付き入母屋造。
神楽殿
3月15日の春季例祭には太々神楽
が奉納される。

本殿
本殿は元亀年間というから、信長が天下統一を進めていた頃の建築で、
昭和59年から3年計画で保存修理が行われ、絢爛たる社殿が甦った。

透かし彫りの彫刻
大変腕のいい大工の作だ。見事な彫刻が本殿、拝殿を飾る。


上野国分寺跡


上野国分寺は前橋市総社町にある。国府跡からは北西に当たる。

上野国分寺は750年頃には完成していたらしい。国分寺としては最も古い時代のものだ。

国分寺跡は大正15年(1926)に国の史跡に指定され、のち土地の公有化が進み、昭和55年(1980)から発掘調査が実施され、保存と整備が進められている。東西220m、南北235mの広大な敷地の周囲は築垣で囲まれていた。


国分寺跡の碑と塔の基壇
塔の基壇は1辺が19.2mの正方形。
塔は高さ60.5mの七重塔であった。
七重塔の礎石
一辺19.2メートルの基壇の上に
17個の礎石が並んでいる。


金堂跡
金堂跡の基壇である。
金堂の礎石
基壇上に36個の礎石が並ぶ。

築垣
古代ながらの版築という、棒で土を突き固め、それを積み上げていく工法で復元された。


国分寺ガイダンス館
土、日のオープンだが、平日でも見学できる。
七重塔の模型
1/20の縮尺で作られている。


上野国分寺跡発掘調査図
昭和55年(1980)から実施された発掘調査。南大門、金堂、講堂が南北に並び
西に七重塔を配する国分寺式伽藍である。


国分寺の模型 南大門復元模型


国分寺と国分尼寺


妙見社

この社は神社だが、同じ境内に妙見寺という寺がある。珍しいことだ。奈良時代の始め和銅7年(714)に、上野国の大掾たいじょう忠明が妙見社に参詣、夜半に不思議な光に目覚めて、付近を探すと首が白く目が赤い亀を見つけた。何かの瑞祥であると時の元正天皇に献上した。天皇は即位したばかりで、これに喜び同年九月二日をもって霊亀と改元した。

平将門が天慶2年(939)12月、常陸、下野に続き上野の国府を攻略し、神託を受けて
新皇と称したのが、ここ妙見社だったという説がある。

拝殿 本殿

透かし彫り 芭蕉の句碑

右妙見寺、左妙見社


貫前ぬきさき神社(上野一ノ宮)


上野国一ノ宮の貫前神社は、経津主ふつぬし姫大神を祀る。経津主神は大国主命に国譲りを迫った天津神で、物部氏の祖先神と伝わる。一方の姫大神は御名は不詳だが、この地に養蚕や機織りを広めた女神とされる。

この女神はまた諏訪大神の建御名方たけみなかたの恋人だとも云われている。ということは、この宮は複雑である。もともと、建御名方神は大国主命の子の内で、国譲りに最後まで抵抗し、経津主神に追われて諏訪まで逃げていったと伝えられている。その恋人である姫大神が、敵役の経津主神と同殿に祀られているのは、どういうことなのであろうか。

本殿の千木が平削ぎなので、元々この宮は、地元の姫大神を祀っていたのではないかと考えられる。二神同座の貫前の宮は、出雲族と物部族の葛藤があった痕跡かもしれない。

延喜式では名神大社に列する。

石段上の鳥居
高い石段の上に、鮮やかな朱塗りの鳥居が
目につく。印象的なたたずまいである。
総門
100段の石段を登り、大鳥居をくぐり
中山道の姫街道を渡ると総門に出る。


楼門
総門をくぐると急勾配の石段の下に、華麗な社殿群が展開する。見事な景観である。
このように社殿を見下ろす形式の神社は珍しい。熊本の草部吉見神社、宮崎の鵜戸神社と
当社ぐらいだそうだ。

楼門、拝殿、本殿はいずれも徳川三代将軍家光の命により寛永12年(1635)に造営されたもので、いずれも国の重要文化財である。


楼門
回廊を従えた朱塗りの楼門は江戸初期の
華麗な建築様式を伝える。
拝殿
唐破風を付けた檜皮葺平入りの拝殿。
極彩色の総漆造りだ。


本殿
外側は一層に見えるが、内部は二層の
独特な貫前造。上階に神が鎮座し、
下階には2基の神輿を置く。
雷神小窓
緑色の雷神を描いた小窓。
南方の稲含山を向いている。

上野国地図




豊匠会
99年6月3日、第8回豊匠会は群馬県吉井町の牛伏ドリームランドで始まった。
トヨタホームに長年携わってきた懐かしい顔ぶれである。


左から佐藤氏、高田氏篠崎氏、服部氏、並木氏。

服部氏は社寺建築の大家。並木氏は早口大明神。
手前左は村田氏奥の左から川俣氏、金子氏、戸田氏、
北垣氏。右の手前は篠崎氏、佐藤氏。


北垣氏は切腹の直後にもかかわらず、平気で酒を飲むの
で、みんなハラハラ。翌年10月死去。

左から村田氏川俣氏。手前は北垣氏。

村田氏は中国歴史のオーソリティー。揚子江を何度も
往復しているとか。

川俣氏は茨城政界の重鎮。
左から並木氏、井上氏。


井上氏は豊匠会初代会長。並木氏は幹事長。


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