3.武蔵国 京王線府中駅 東京都府中市 '96.10.17 '02.09.05 '05.02.13

武蔵国は大国である。現在の地名で言えば、北は熊谷市、深谷市、秩父市
から埼玉県の大部分、葛飾区、江戸川区など一部を除いた東京都の大部分
それに、川崎市、横浜市までを含む、一都二県にわたる広大な地域である。

古代の武蔵国諸郡     

国分寺市教育委員会「武蔵国分寺の話」より


武蔵国府 (ここまでわかった武蔵国府

武蔵国の国府は、東京の新宿から八王子に向かう京王線の府中という駅の近くである。駅前のケヤキ並木の大通りを南へ少し行ったところに、大きな神社がある。大国魂神社であ る。その神社の境内から東側が古代の武蔵国庁の跡と推定されている。


馬場大門ケヤキ並木 八幡太郎義家像
府中の駅から大国魂神社まで、美しいケヤキの並木道が続く。このケヤキ並木の歴史は、源氏の頭領八幡太郎義家にまで遡る。
永承6年(1051)から康平5年(1062)に及ぶ蝦夷との前九年の役の戦勝をこの宮に祈願し、蝦夷を平定後、千本のケヤキを植えたのが始まりという。


2005年2月13日(日)府中市の市政50周年を記念して、武蔵国府に関するシンポジュームが開かれた。歴史好き仲間の久保田さんと一緒に参加した。
名付けて「ここまでわかった武蔵国府」。三連休だというのに会場は人でいっぱい。府中市民の関心の高さがわかる。

武蔵国府の発掘調査は、30年の長きにわたって続けられてきた。昭和50年(1975)に府中市は東西6.5キロにおよぶ地域を、「武蔵国府関連遺跡」に指定し、建物の改築や新築のたびに発掘調査する体制を整えた。これは大変なことで、地権者や市民の理解と協力がなければ到底不可能なことであった。

東京という大都市の建物が密集する中で、これまでに1200カ所を越す発掘調査を行ってきた実績は、驚異的で絶賛に価する。市民と学会と行政がスクラムを組んだ結果だろう。


府中市長挨拶
府中市の熱意も相当なもので、
政庁跡らしきものが出てきた土地を
買い取ってしまった。
基調講演
立正大学の坂詰秀一教授の講演。
行政の熱意と市民の協力でここまで来たと
感慨深げ。


武蔵国衙跡
大国魂神社の前を通る旧甲州街道に沿って、古代の道路跡が
発掘され、それに面して国庁の北門跡が発見された。北門から
南に中軸線を延ばした先に、大型の掘立柱建物の遺構を発見。


発掘現場
大型の掘立柱建物が出土。
府中市が土地を取得した。
説明を聞く久保田氏
発掘に携わった人から説明を聞く久保田氏。
2005年2月13日。


武蔵国衙跡(2008年6月7日)
上の写真から3年経った。旅行作家協会の街道研究会を主催する葭原幸造さんに、武蔵国衙跡が整備されたので歩いてみようとのお誘いを受けて、府中を訪ねた。

国庁の正殿跡に、柱の模型と地面の色分けで掘立柱建物の位置が示され、丁寧な説明板とともに、公開されていた。地価の高い東京の町中に、市史跡として、これだけの土地を取得し整備するのは、住民の理解が無いととても出来ない。府中市と府中市民に敬意を表する。

大国魂神社駐車場
西脇殿が眠っていると思われる。
北門跡
現在はイタリアンレストランだ。

武蔵国府域の発掘状況
江口桂著 古代武蔵国府の成立と展開より
武蔵国府はほとんど場所を移動することなく、数世紀にわたって、多摩川を見下ろす台地上に営まれた。発掘調査で判明した国衙遺構の変遷は下記の通りである。

1.国府成立期 7世紀末〜8世紀初 竪穴建物の集約。共同井戸の掘削。
2.国衙整備期 8世紀前半 掘立柱建物が現れる。
3.国府拡充期 8世紀中葉〜9世紀中葉 掘立柱建物から礎石建物へ。
4.国衙改修   9世紀後半〜10世紀後半 国衙の改修。
5.国府衰退期 10世紀末〜11世紀 国衙の消滅。 


武蔵国府と国分寺の位置関係

国分僧寺と尼寺の間を南北に走
東山道武蔵路の東側に、国庁
や官衙群が広がる。





















国分寺市、府中市教育委員会資料




大国魂神社(武蔵国総社)



武蔵国の総社であったとされる神社だ。武蔵の国の主要な神社を1カ所に集 めたので、
六所の宮、六社明神とも呼ばれた。武蔵の国の国府はおそらくこの宮のすぐ近 くにあった
ものと思われる。


七五三で賑わう拝殿前
中央の社殿に主祭神の大国魂大神、
東に小野、小河、氷川、
西に秩父、金佐奈、杉山の諸神を祀る。
裏から見た本殿
三間社流造を三棟つなげた九間社流造。
寛文七年(1667)四代将軍家綱の命により
建立された。

境内は大変大きく、鬱そうとした林に囲まれ、いかにも大国の総社にふさわしい 雰囲気で
ある。主殿も立派なもので、格式の高さを思わせる。


創建は景行天皇41年(111)というから、国府の歴史より古いことになる 。
ちなみに国府の制度が固まったのは、大化改新(645)を経て、律令制が布か れてから
である。


主祭神は大国魂大神
併せて一之宮小野神社(多摩市)、二之宮小河神社(あきる野市)、三之宮氷川神社(大宮市)、
四之宮秩父神社(秩父市)、五之宮金佐奈神社(埼玉県児玉)、六之宮杉山神社(横浜市)を
祀る。


大国魂神社の大木

この神社にはすごい大木が多い。

この銀杏の木は神社の裏にひっそりとある。
幹の周りが8.6m、高さが20.3mという、とてつもない
大木である。
正門にも二本のケヤキの巨木があるが、右のケヤキは
幹の周囲6.8m、高さが7.0mという。




ところで、つい最近まで「六所明神の闇夜祭(くらやみまつり)」なる奇妙な祭があった。
この祭りのある時間、全府中の光が消され、漆黒の闇になる。その間に、若い男女が一種
の乱婚を行ったとされる。古代の歌垣の変形だろうか。

毎年5月5日の例大祭がそれで、夜間に8基の神輿が古式の行列を整え、闇夜に御旅所
まで渡御するのだ。現在では、この神輿渡御は夕刻から始まるので、「闇夜祭」の雰囲気は
ない。もっとも町が明かる過ぎて、真夜中でも暗闇というわけにはまいるまい。

半七捕物帖

岡本綺堂の名作「半七捕物帖」に、この「闇夜祭」を描写した一節がある。

「実はこの五日のことでございますが、ご承知の通り、府中の六所明神の御祭礼、その
名物の
闇夜祭を一度見物したいと申しまして、、、、、、、、、(中略)、、、、、、、、、、、、、
やがて四つ(午後10時)過ぎでもございましょうか、只今お神輿のお通りでございます。
灯を消しますと触れてまわる声がきこえたと思うと、内も外も一度に灯を消して真っ暗に
なってしまいました。それ、お通りだというので、我も我もと店先へ手探りながら駆け出し
ましたが、なんにも見えません。暗い中でお神輿の金物がからりからりと鳴る音と、
それを担いで行く白丁(はくちょう)の足音がしとしとと聞こえるばかり。
お神輿は上の町の御旅所へ送られて、暗闇の中で配膳の式があるのだそうで、、、、
そのあいだは内も外も真っ暗でございます。夜中の八つ(午前2時)ごろに
式を終わりますと、一度にパッと灯をつけて、町中は急に明るくなりました。、、、、、、、」


御旅所

半七捕物帖にも出てきた御旅所は現在も健在で、神社から3分ほど西に行ったところ
旧甲州街道と府中街道の交差点際にある。御旅所の中に当時の高札場があったらしい。

「暗闇祭り」実況中継

平成19年(2007)5月5日、この暗闇祭りの取材に府中の大国魂神社を訪れた。夕方の5時頃に着いたのだがものすごい人出だ。神社前はあきらめて、御旅所側にまわり、府中街道と甲州街道の交差点の一番前に陣取った。6時前に白い装束を身にまとった担ぎ手の若者達が、踊り狂いながら神社に向かう。

6時の花火を合図に、まずは先導の大太鼓が5基、ドーン、ド−ンと腹に響く音を轟かせながら曳かれていく。直径3Mはありそうな大太鼓の上には、長い提灯を持った人たちが5、6人乗っている。「オンライ」、「オンライ」とかけ声を掛けながら提灯を上下させる。それに合わせて、ドーン、ドーンと撥がなる。そしていよいよ神輿の渡御だ。烏帽子をかぶった若者達が、1トン以上はあろうかという神輿を担いで、夜の甲州街道を御旅所まで、練りに練って勇壮に担ぎ込む。


白装束の各宮の先触れ
警固と書かれた烏帽子に、一ノ宮から六ノ宮、御本社と書かれた提灯を捧げながら先導する。半七捕物帖に描かれた「暗闇の中を白丁の足音がしとしとと聞こえるばかり、、、」という描写に近いかもしれない。


大太鼓
刳り抜き胴の大太鼓としては日本一の
大きさを誇る御先払御太鼓。
皮面の直径2Mの大太鼓だ。
御旅所入りする神輿
神輿は8基ある。一ノ宮から六ノ宮、それに
大国魂大神と御霊大神の8柱だ。
三ノ宮は埼玉の氷川神社。神輿は一番大きい。



武蔵国分寺

武蔵国の国分寺は、中央線の国分寺駅から南へ歩いて20分ぐらいのところ にある。

現存寺の国分寺碑 楼門
江戸時代の様式を伝える。東久留米の旗本米津出羽守の
菩提寺の楼門を明治二八年(1895)に移築した。

現存寺の正面 本堂

大国魂神社に比べると、ずっと小じんまりしているが、おもむきのある建物である。
境内は万葉植物園になっていて、万葉集に出てくる植物が、それを詠んだ歌を添えて植え
られている。植物と万葉集歌を見比べながら散策するのも楽しい。


なでしこ
野辺見れば なでしこの花 咲きにけり
         我が待つ秋は 近づくらしも
ふじばかま
芽子の花 尾花 葛花 なでしこの花
    おみなえし また藤袴 あさがおの花



武蔵国分寺跡(99.06.19)

現在の国分寺の南に、古代の国分寺の跡がある。付近は史跡公園になっていて、
よく保存されている。それも人工の手をほとんど加えずに、自然を残した状態で保
存されており、好感が持てる。

大正11年(1922)に国指定史蹟に指定され、発掘調査と整備がされてきた。
伽藍地域の広さは、約4町(428m)四方で、他国の国分寺の3倍以上という
大きな規模であった。寺域の境界は、築地塀ではなく、幅3m、深さ1.5mの
素堀の溝であったという。

金堂跡 一段高くなっている。
間口36m、奥行16m 非常に大きい。
諸国の国分寺中最大規模である。
金堂址の碑と礎石
金堂の礎石は19個発見された。

講堂跡
基壇は植裁で示されている。
東西28m、南北16.3mの建物が、確認され
ている。
講堂跡の碑と礎石
礎石の大部分は失われている。

塔址
金堂から東へ205mも離れている。
1辺18mの基壇の上に、3間四方高さ60mの
七重の塔が建っていた。
七重塔の礎石
六個が残っている。
心礎は長さ2mの巨石で、中央に径73cm。
深さ45cmのほぞ穴がある。


武蔵国分寺跡全体図
  ↑東山道武蔵路                     (国分寺市教育委員会資料)
平成15年(2003)、上の写真の塔跡から西に55M離れて、もうひとつの塔跡が発見された。創建時の塔は、承和2年(835)に焼失し、その後、男衾郡の前大領壬生吉志福正が再興を願い出たと続日本後記は記載する。新しく発見された塔跡は、壬生氏の再興した塔であろうか。上の図の塔1が創建時、塔2が再興された塔跡と思われる。

僧寺の西に東山道武蔵路が南北に走るが、その西に尼寺がある。歴史公園として保存されている。


古代の塔の比較 七重塔模型

七重塔だと高さは60Mを超え、法隆寺の塔の倍近い巨大なものになる。
奈良の元興寺極楽坊にある小塔を10倍し、2層を加えると七重になる。
この小塔が国分寺七重塔の建築模型ではないかと言われている。
上図の右から3本目がその小塔、その右がそれを10倍した図である。
(国分寺市役所)
(東京大学藤井恵介准教授の講演資料より)

武蔵国分寺全体模型                   現国分寺資料館


お鷹の道
現国分寺の門前から国分寺の駅に向かう道は、かっての尾張徳川家のお鷹場にちなんでお鷹の道と呼ばれる小径で、湧水から野川に注ぐ清流が流れ、夏は蛍も飛び交う。


お鷹の道


第7回全国国分寺サミット(2008.11.1)
豊前国分寺所在地の福岡県京都郡みやこ町の呼びかけで始まった全国国分寺サミットは、今年で7回目、武蔵国分寺所在地の東京都国分寺市で開かれた。
参加自治体は36を数える。

全国国分寺サミットin武蔵国分寺2008                (2008.11.1)
挨拶する但馬国府・国分寺館前岡孝彰氏。


サミット会場 記念講演は藤井東大准教授



小野神社(武蔵一之宮)


武蔵一之宮は埼玉県大宮市にある氷川神社だと思っていたが、古くは多摩市にある小野神社が一之宮だそうである。

小野神社


拝殿 掲額


京王線の聖蹟桜ヶ丘駅で降りて、北西へしばらく行くと一之宮小野神社へ出る。
大宮の氷川神社と比べると、どうしてこっちが一之宮なのと不思議に思う。武蔵の国守を勤めた小野氏の氏神であったからであろうか。とにかく古代には、間違いなく小野神社が武蔵一之宮であった。

祭神は天下春命。小野氏や秩父氏の祖先である。
小野氏は妹子、篁、道風、小町などを出した古代の名族である。


氷川神社(もう一つの一之宮)


やはりこちらも紹介しておかないと、埼玉県の人に怒られそうだ。

こちらは歴とした延喜式名神大社。明治になって官幣大社に列した堂々たる神社である。
武蔵一之宮はこの神社だと思っている人は圧倒的に多いだろう。
それもそのはず、京都から東京に遷都された時に、首都の鎮守として京都の賀茂社と同格
の社として尊崇されたのだから。いまは、さいたま市となってしまったが、大宮の地名はこの
神社に由来する。

氷川神社の社名は、出雲の斐川に由来するという。出雲族がここまで進出していたのだろう
か。祭神は素戔嗚尊(すさのうのみこと)、併せて稲田姫(くしなだひめ)大己貴命(おおな
むちのみこと)を祀る。

不思議なことに氷川神社は、武蔵国にしかない。それも多摩川と荒川に挟まれた地域にし
か見られない。220社有るといわれる氷川神社の、謎である。北海道に有るというが、明治
以降にこの地から移住した人々が祀ったものだろう。

楼門 舞殿


拝殿 本殿



おまけ 分陪河原

京王線府中駅からひとつ八王子よりに分倍河原という駅がある。
元弘3年(1333)5月16日、このあたりで天下分け目の決戦があった。
上野国世良田の庄から南進する新田義貞の軍と、迎え撃つ鎌倉軍との
決戦である。このときの戦火で武蔵国分寺の大伽藍は灰燼に帰した。


分倍河原古戦場の碑
京王線分倍河原駅から歩いて10分
新田義貞の子孫の新田男爵の筆
新田義貞像
分倍河原駅前のロータリーに建っている

太平記はこの合戦の模様を、下記のように活き活きと描写している。

明ければ五月十六日の寅の刻(午前四時)に、三浦四万余騎が真っ先に
進んで、分陪河原へ押し寄する。敵の陣近くなるまで、わざと旗の手をも下
ろさず、ときの声をも挙げざりけり。、、、、、、、、(中略)、、、、、、
去るほどに義貞、三浦が先駆けに追っすがふて、十万余騎を三手に分け、
三方より押し寄せ、同じく時を作りける。、、、、、
三浦平六これに力を得て、江戸、豊嶋、葛西、河越、板東の八平氏、武蔵の
七党を七手になし、蜘手輪違十文字に、余さじとぞ攻めたりける。

この決戦を境に、一気に鎌倉幕府は崩壊に向かう。




武蔵国地図





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