66.長門国 山口県下関市長府宮の内町 JR山陽本線長府駅 2005.04.23
本州の最西端長門国は、幕末から明治にかけてひときわ輝きを増した。吉田松陰の門下から育った高杉晋作、桂小五郎、伊藤博文、山県有朋などの若き俊才が、明治維新をリードし、日本の近代化に大きな足跡を残したからである。 日本が中世から近代に生まれ変わる明治の時代を切り開いたのが、長門国の俊才達であったとするなら、古代の貴族政治から中世の武家政治へ、大きく転回する場となったのも長門国であった。武家でありながら平安貴族化した平家を、源義経が東国武士を率いて殲滅し、もう古代へ後戻りできない中世という時代を呼び寄せた海戦の場が、長門国壇ノ浦であった。 |
長門国府 |
長門国府は和名抄によると、豊浦郡(とゆらのこほり)に在りと記されている。未だにその遺構は発掘されていないが、古くから府中、豊浦と呼ばれてきた長府の地に、国府が営まれたであろうことは間違いない。いま、長門国二之宮に当たる忌宮(いみのみや)神社の鎮座するあたりが、国衙があったところだろうと推定されている。 |
忌宮神社神門 境内は広々としており、どことなくのどかな雰囲気だ。 仲哀天皇二年(193)熊襲征討のため、この地穴門(長門)の豊浦(とゆら)に宮を営む。天皇はこの宮に神功皇后とともに7年間住まわれたと伝えられている。 |
拝殿 社殿は明治10年(1878)の造営。 |
本殿 仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀る。 |
石鬼 新羅国の将塵輪(じんりん)が熊襲とともに攻めてきたのを、天皇自ら射殺された。塵輪の首を埋め石で覆った。石鬼と呼ぶ。8月7日より13日まで毎夜行われる祭の数方庭祭(すほうていさい)は、その勝利の記念だと伝えられている、 |
さか松 神功皇后が三韓征伐に向かわれるとき、七日七夜天地の神々にご加護を祈られ、一本の稚松を逆さまに植えて、戦勝を占われた。松は見事に根付いて繁り栄えたので、さか松と呼ばれた。古木が安置されそばに子孫の若松が、今も栄えている。 |
長門国惣社 |
長門国惣社は、忌宮神社の南方の民家の密集したところに、ひっそりとある。すぐ近所の人に聞いても知らなかった。当初、現在の毛利屋敷の地に鎮座していたが、のちに忌宮神社に合祀され、さらにこの地に遷されたという。まさに流転の社である。しかし、この辺り一帯を惣社町と称するは、この宮に由来することは間違いない。 |
鳥居 質素だが鳥居も土塀もそれなりにある。守宮司神社と同居している。 |
惣社宮 簡素だが荒れてはいない。 大己貴命と天神地祇を祀る。 |
毛利邸 惣社はかってこの地に鎮座していたという。 |
宮跡 惣社の跡なのだろうか。屋敷の隅にあった。 |
長門国分寺跡 |
長門国分寺は下関市南部町にあって法灯を伝えているが、古代の国分寺の遺構は長府宮の内町の民家の密集地にある。昭和五二年(1977)の調査で、寺域の東限が確認されたが、規模はかなり小さかったと推定されている。延喜式の寺料は一万束である。 放浪の俳人種田山頭火が、このあたりを散策して詠んだ句 松が二本 国分寺跡という 芋畑 芋畑は、今、アパートになっていた。 |
長門国分寺跡 アパートの前に礎石と説明板がある。 |
礎石 一個だけ置いてある。なんの礎石か不明だ。 |
住吉神社(長門一之宮) |
長門国の一之宮は住吉神社である。摂津国一之宮の住吉神社は住吉大神の和魂(にぎみたま)を祀るが、こちらの住吉神社は大神の荒魂(あらみたま)を祀るという。延喜式名神大社に列する。 |
社叢 9千uの社叢は近隣と植生が異なり、暖地性の常緑広葉樹林。天然記念物。 |
拝殿 天文八年(1539)毛利元就の建立。檜皮葺切妻造。国の重要文化財。 |
住吉神社本殿 応安三年(1370)長門国守護大内弘世の再建。向かって左から第一殿、第二殿と並ぶ。 第一殿に住吉大神の荒魂、第二殿に応神天皇、第三殿に武内宿禰、第四殿に神功皇后、第五殿に建御名方命を祀る。檜皮葺の九間社流造で、正面五カ所に五連の千鳥破風をあげる。昭和二八年(1953)国宝指定。 |
平家哀歌 |
長門国壇ノ浦は平家滅亡の地である。元暦二年(1185)三月二四日、わずか八才の安徳天皇は、祖母二位の尼に抱かれて海に沈む。 今ぞ知る みもすそ川の流れには 波の下にも都在りとは 二位の尼 |
赤間神宮 安徳天皇を祀る。 壇ノ浦を見下ろす高台にある。 |
安徳帝阿弥陀寺陵 安徳天皇の御陵。 西日本では唯一の天皇陵だ。 |
平家一門の墓 総大将平知盛、副将能登守教経、従二位尼平時子など壇ノ浦に沈んだ平家一門の墓。 琵琶法師の芳一が夜な夜な召されて、この墓前で平家物語を演じたという。 |
耳無し芳一の像 小泉八雲の小説で有名な琵琶法師。 平家一門の墓域の前の小堂にある。 いまでも、平家の公達に平家物語の哀切を語っているのであろうか。 |
平家物語巻十一 先帝御入水のこと |
二位殿は日ごろより思い設け給へる事なれば、鈍色(にびいろ)の二衣(ふたつぎぬ)うちかづき、練り袴の傍(そば)高く取り、神璽を脇に挟み、宝剣を腰に差し、主上を抱き参らせて、 「我は女なりとも、敵の手にはかかるまじ。主上の御供に参るなり。御志思ひ給わん人々は、急 ぎ続きたまへや。」 とて、静々と舷(ふなべり)へぞ歩み出でられける。主上今年は八才にぞならせおわしませども、御年の程より、はるかにねびさせ給ひて、御形いつくしう、あたりも照り輝くばかりなり。御髪黒うゆらゆらと、御背過ぎさせたまひけり。主上、あはれなる御有様にて、 「そもそも尼前、われをばいづちへ具して行かんとはするぞ」 と仰せければ、二位殿、幼き君に向かひまいらせ、涙をはらはらと流して、 「君はまだ知らし召され候はずや。先世の十善戒行の御力によって、今、万乗の主とは生まれさせたまへども、悪縁に引かれて御運すでに盡きさせ給ひ候ひぬ。先ず、東に向かわせたまひて、伊勢大神宮にお暇申させおわしまし、その後、西に向かわせたまひて、西方浄土の来迎にあづからんと誓はせおわしまして、御念仏候ふべし。これは娑婆世界とて、あまりにもの憂きところにて候へばあの波の下にこそ、極楽浄土とてめでたき都の候。それへ具し参らせ候ぞ。」 と、さまざまに慰め参らせしかば、山鳩色の御衣に鬢結はせ給ひて、御涙におぼれ、小さう美しき御手を合わせ、先ず東に向かわせたまひて、伊勢大神宮・正八幡宮に、お暇申しおわしまし、その後西に向かわせ給ひて御念仏ありしかば、二位殿、やがて抱きまひらせて、 「波の底にも、都の候ふぞ。」 と、慰め参らせて、千尋の底にぞ沈み給ふ。 悲しきかなや、無情の春の風、たちまちに花の御姿を散らし、いたましきかな、分段の荒き波、玉体を沈め奉る。・・・中略・・・今は船の中波の下にて、御身を一時に亡ぼし給ふこそ悲しけれ。 |
壇ノ浦 あれから820年が過ぎた。源平の兵士達が流した血は、大海に洗われて彼岸に去った。今日も壇ノ浦の潮の流れは、非常に速かった。 |
長門国地図 |