39.能登国 石川県七尾市 JR七尾線七尾駅 02.07.13


能登国は小国である。養老2年(718)に越前国から分立、天平13年(741)
越中国に併合、天平勝宝9年(757)越中国より分離、と変遷を繰り返した。

越中国に併合されていた時期に、ちょうど越中国守であった大伴家持が巡視に
訪れ、万葉集に残された歌を詠んでいる。

志雄路から ただ越え来れば 羽咋の海
        朝凪(あさなぎ)したり 船楫(ふねかじ)もがも



能登国守 源順(したごう)のこと


しかし、能登国守で記憶されるべきは、源順(したごう)であろう。
天元3年(980)春、能登守に任命された源順は、70歳の老翁であった。

源順は延喜11年(911)に、嵯峨天皇の4世の孫源挙の次男として生まれた。
大変な博識で、当時第一流の学者である。天暦5年(951)村上天皇は、源順
をはじめ清原元輔、紀時文など五人の一流学者を梨壺に集めて、当時すでに
難読だった万葉集を、仮名交じり文に訓釈するように命じた。いわゆる梨壺の
五人
である。これによって、ほとんどすべての歌に訓点がつけられ、後の万葉集
研究に大きな影響を与えてきた。

源順は、また、歌人としても一流で、三六歌仙の一人にあげられ、後選和歌集の
選者でもある。

越の海に 群れやおるとも 都鳥
       都の方ぞ 恋しかるべき

源順の業績で忘れてならないのは、倭名類聚抄(和名抄)の編纂である。
承平4年(934)母が仕えていた勤子内親王(醍醐天皇第四皇女)の命により、
我が国初の分類漢和辞書として編纂し、奉呈した。この辞書により、現代の
我々が、古代の国名や国府所在地などを、正確に知ることができる貴重な
文献である。

この時、源順はまだ若干20歳というから、驚異的である。



能登国府跡


源順が能登国守として政務を執った国庁の跡は、未だ発掘されていない。
源順が編纂した和名抄には、「能登国国府在能登郡」とあるので、現在の
七尾市古府の総社の近くか、七尾市府中町のあたりと思われる。

府中町の近くには、国守の印と、正倉の鍵である鑰(やく)を祀る印鑰神社が
ある。正倉は国司が収税した祖(米穀)や調(特産物)を納める倉庫。

能登国印と正倉の鍵「鑰」を祀る印鑰神社 立派な額


能登国魂神社(能登国総社)


能登国総社の成立ははっきりしている。源順が能登守の時、能登国の有力神社43社を
合祀した。総社大権現、総社明神とも呼ばれる。大穴持命(おおなもち)、能登国内43社
とともに、諏訪神社の建御名方神を祀っている。

能登国総社 総社の鳥居に架かる扁額


能登国分寺跡


能登国分寺は、七尾市国分町古府(ふるこ)町に所在する。
古代にこの地方を支配した能登臣氏が、白鳳時代末に創建した大興寺を、昇格して
国分寺とした。承和10年(843)のことだという(続日本紀)。寺料5千束というから、
越中国分寺の3万束、加賀国分寺の2万束などと比べると、いかにも小さい。

能登国分寺跡は、ふるさと歴史の広場「能登国分寺公園」として整備され、平成4年
10月に開園した。国史跡指定地は46,238u(1万4千坪)におよぶ広大なもので、
実際の遺構の上に、建物を復元した初めての例である。

併設の展示館は、331uと規模は小さいが、丁寧な展示で好感が持てる。

能登国分寺の100分の1の模型 能登国分寺伽藍配置


復元された南門と塀 正面から南門を望む


塔跡の心礎と礎石  
三重か五重の塔と推定される
何本かの断片が出土した瓦塔の復元模型


金堂跡から講堂を望む 講堂跡から南門を望む



能登国地図



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