2008.01.10


JR京浜東北線の大森駅山王北口へ出て、北へ5分ほど行くと大森貝塚遺跡庭園だ。日本の考古学はここから始まった。

明治10年(1877)、アメリカの生物学者モース(Edward Silvester Morse)は、横浜から新橋に向かう汽車の中から、この貝塚を発見したのだ。

いま、記念の碑が遺跡公園の奥に建っているが、確かにJRの線路からは至近の距離だ。
昭和30年(1955)、国の指定史跡とされた。

大森貝塚の記念碑


大森貝塚遺跡庭園
良く整備された庭園になっている。品川区民の憩いの場でもある。


地層の回廊
縄文土器と貝塚をイメージした不思議なモニュメント。前面に水煙が吹き出る広場がある。


貝塚の地層
地層の回廊の中に、貝塚の地層の実物大の模型がある。このように埋まっていた。
今から4千5百年前に始まる縄文後期の地層である。


縄文時代の集落想像図
定住生活はこのような感じだったのだろう。

平成5年(1993)の発掘調査で、種々の土器の他、鹿の角から作った釣り針、オオツタノハガイの腕輪などが出土。また、クロダイ、スズキなどの魚の骨、野ウサギ、イノシシなどの獣骨、ハマグリ、アサリなどの貝類などが多数見つかっている。また、住居跡も6戸が発掘された。


品川歴史館とモース博士

遺跡庭園からさらに北に5分ほど行くと、品川歴史館だ。安田善助邸から吉田秀夫(元電通社長)記念館となっていたのを、品川区が譲り受け歴史館として保存されている。

歴史館の2階は、モース博士のコーナーだ。
モース博士と東京大学の発掘調査による大森貝塚出土の土器は、縄文後期の土器が中心であった。また、土偶、石斧、石鏃、鹿や鯨の骨片のほか人骨も同時に出土し、すべて国の重要文化財となっている。
縄文後期の土器の研究は、この大森貝塚出土の土器の研究から始まったと言って良い。

深鉢型土器(東京大学所蔵 重要文化財) 浅鉢型土器(東京大学所蔵 重要文化財)

注口土器(東京大学所蔵 重要文化財) 釣り手型土器(東京大学所蔵 重要文化財)


モース博士(Edward Silvester Morse)
アメリカ・ポートランド生まれの生物学者。東大教授。大森貝塚発見当時は39才。

1877年(明治10年)イギリスの科学専門誌ネイチャーの12月19日号に、大森貝塚発見の記事を投稿、1879年には報告書を出版し、世界に大森貝塚の重要性を発信した。
大森貝塚の発掘調査報告書
日本最初の科学的発掘調査報告書である。縄文という用語はモースが名付け親である。

彼は大森貝塚から出土した、縄目文様の付いた土器を「Cord Marked Pottery」と名付けた。索紋、縄紋などの訳語を経て、ようやく縄文に落ち着いた。


もう一つの大森貝塚
大森貝塚の碑がもう一つある。大田区山王のNTTビルの裏側に建っている。
モース先生は、東海道線大森駅の近くだったので、大森村だと勘違いされて
文部省にもそう届けてしまった。だから未だに大森貝塚と呼ばれているし、記念碑も
立派に建っている。

しかし、実際に発掘した場所は、遺跡庭園となっている荏原郡大井村(現在は品川区大井6丁目)であった。こうして、今でも二つの記念碑が建っているのだ。

大森貝塚から始まった指紋の研究

「指紋は個人によってすべて異なる、また、生涯にわたって変化しない」ということは現在では誰でも知っている。個人識別の最も有効な方法として、犯罪捜査などに応用されていることは周知の事実である。ところが、そのことに最初に気づいたのは、どうも日本人だったらしい。江戸時代から各種の証文に、拇印押捺の習慣があったのだ。拇印が個人によって異なることを、なんとはなしに知っていて、大事な証文に押捺したのであろう。

この習慣に興味を持ったイギリス人がいた。ヘンリー・フォールズ(Henry Faulds)である。フォールズは宣教師で医師。聖路加病院の開設者でもある。1873年(明治6年)にイギリス国教会の宣教師として来日したフォールズは、日本人の指紋押捺の習慣に興味を持ち、本当に個人によって指紋が異なるのかを科学的に調査した。モースと親交があった彼は、大森貝塚から大量の土器が発掘されたと聞くと、モースに依頼して土器に付いた多数の指紋を調査した。その調査によって、たしかに指紋は個人によってすべて異なることを確かめ、個人の識別に有効であることをイギリスのネイチャー誌上に発表した。1880年(明治13年)のことであった。

万人不同の指紋
蹄状紋 渦状紋 弓状紋

こうして指紋による個人識別の有効性の研究が、縄文土器による調査から始まったのである。貝塚発見の予期せぬ成果として、大変興味深い。

縄文紀行

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