49.大隅国  鹿児島県国分市府中 JR日豊本線国分駅 2003.09.07


鹿児島県は熊襲の国である。北の蝦夷と同様に、南九州に割拠した熊襲たちも、最後まで大和朝廷に従わず、景行天皇と、その子の大和武尊(ヤマトタケルノミコト)によってようやく征服された。しかし、その後も薩摩、大隅の熊襲は何度か反乱を起こし、奈良時代に入っても大伴旅人などが征隼人将軍として、南九州に派遣されている。熊襲はいくつかの部族に別れて、朝廷に抵抗したのだが、次第に朝廷に服属する部族が多くなっていく。この服属した部族を隼人とよんだ。比較的早く服属したのが大隅隼人であったらしい。

大隅隼人は狩猟、漁労をなりわいにする部族であったため、大和朝廷は農耕を勧めるため、和銅7年(714)豊前国から200世帯を移住させた。移住させられた人々は、渡来系の秦氏の一族であったらしい。

和銅6年(713)、日向国から肝杯きもつき郡、囎唹そお郡、大隅郡、姶羅あひら郡の4郡を割いて大隅国とする。
天長元年(824)、屋久島、種子島からなる多褹国を併せ、さらに明治になって奄美大島諸島を編入した。

祓戸神社(大隅国総社)


大隅国の国府は、いまの鹿児島県国分市府中に置かれた。遺跡はまったく発掘されていないが、当時の総社であった祓戸神社がいまでも残っている。明治以前は守公神宮守君神宮と呼ばれ、
14世紀に書かれた調書家文書に依れば、当時でも30人ほどの宮侍が奉仕していたと言うから、格式はかなり高かったであろうことがわかる。

祭神は伊弉諾(イザナギ)、伊奘冉(イザナミ)の両神のほかに、なぜか幻の水の女神瀬織津姫が祀られてある。イザナギの神が黄泉の国より戻られて、禊ぎ祓いをした時に最初に生まれた女神である。天照大神のお姉さんだ。

この神社には、瀬織津姫のほかに速開都姫(はやあきつひめ)、速佐須良姫(はやさすらひめ)、気吹戸主(いぶきどぬし)の神々が祀られている。いずれも延喜式大祓の祝詞に登場する神々で、古事記、日本書紀には記載がないが、前述のように伊弉諾尊が禊ぎ祓いをしたときに生じた神に当てる説が多い。祓戸神社という社名の由縁であろう。


祓戸神社鳥居 祓戸神社拝殿


大隅国分寺跡


大隅国分寺跡は、祓戸神社とJR国分駅を挟んで反対側にある。青年会議所の敷地の中に六重の石塔と、妙な石像があった。

明治の廃仏毀釈で、鹿児島県にはめぼしい仏寺はほとんど無いが、国分寺はいつ頃から無くなってしまったのだろう。関ヶ原の敵陣突破で勇名をはせた島津義久は、慶長九年(1604)にこの地、国分に隠居し舞鶴城を築城するが、その際、町並みを一新するために、古い道路、社寺を徹底的に破壊し、今日の町並みに造り直したという。この時、古代の遺跡はすべて烏有に帰し、寺の礎石は城の石垣や武家屋敷の土台にされたという。この、町並み改造といい、廃仏毀釈といい、タリバンによるバーミヤン大仏の破壊を、一方的に暴挙だと非難できない過去を、我々も持っているのだなあと思った。


大隅国分寺の表示 石の多重塔
康治元年(1142)と銘がある。


不思議な石像 右のは首が無い 礎石か?


鹿児島神宮(大隅国一之宮)


大隅国の一之宮は鹿児島神宮である。ご祭神は彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)とその妻の豊玉姫であるが、いつの頃からか仲哀天皇、神功皇后、応神天皇のいわゆる八幡神を合祀し、正八幡宮と呼ばれるようになる。何故か九州の神社は中世になると、いずれもこのように八幡神を祀るようになる。

宇佐八幡の影響が大きくて、八幡を名乗ったのかと思ったが、そうではなさそうだ。というのも宇佐の神人13人が、当社が正八幡を名乗るのは怪しからぬと抗議に来て、神罰に触れて全員死んだという伝説が残っていて、彼らを祀った十三塚という塚もある。

もしかすると、和銅年間に移住してきた豊前国の渡来系の人たちが、宇佐八幡の祭神を、この宮に迎え入れたのかもしれない。宇佐八幡は本来、渡来系の八幡神を祀り、祝(はふり)も渡来系の辛島氏が勤めてきた。しかし、奈良時代に入り藤原氏の影響が強くなると、渡来系に代わって大和の大三輪氏(大神氏)が送り込まれ、渡来系の人々は祭祀の実権を次第に奪われていったという。この説に立つと豊前から移住させられた渡来人達が、この宮に自分たちの八幡神を祀り、正八幡を名乗った理由がはっきりする。

本来の祭神 彦火火出見命は天孫ニニギノミコトコノハナサクヤ姫との間の子で、兄の海幸彦とともに山幸彦と呼ばれ、兄の釣り針をなくした縁でわだつみの神の娘豊玉姫と結ばれ、ウガヤフキアエズの命をもうける。神武天皇の父君である。

神格は高く、延喜式によると、薩摩、大隅、日向の南九州三カ国中唯一名神大社に列している。

毎年2月の初午祭が有名で、神馬を先頭に多数の鈴懸馬が踊りながら参拝するという珍しい神事で、当日は20万人の人出で賑わう。旧正月18日に近い日曜日。


拝殿の前にある勅使殿
九州に多い形式で、勅使殿の奥に舞殿、
拝殿、本殿が並び、回廊で結ぶ。
本殿
享禄3年(1530)藩主島津貴久により、
再建された。


拝殿の格子天井
草花や野菜が描かれている。
摂社の竹内神社(手前)と本殿
千木を載せた権現造りが美しい。


大隅国地図



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