26.近江国 滋賀県大津市瀬田 東海道本線瀬田駅 98.10.30
                        2005.03.13 2005.07.10



平安の都に一番近い国近江。京都から逢坂山を越えると、近江の国である。
瀬田川に架かるこの橋は、近江八景のひとつ
瀬田の唐橋である。


瀬田の唐橋と言えば、私の好きな太平記に有名な道行き文がある。太平記の名調子にしばらく
お付き合いください。


太平記巻第二「俊基朝臣再関東下向事」

落花の雪に踏み迷ふ、片野の春の桜狩り、紅葉の錦を着て帰る、嵐の山の秋の暮れ、
........中略..........
憂きをばとめぬ相坂の、関の清水に袖ぬれて、末は山路を打ち出の浜、沖を遙かに見渡せば、
塩ならぬ海にこがれ行く、身を浮き舟の浮き沈み、駒もとどろと踏み鳴らす、瀬田の長橋 打ち
渡り、行きかふ人に近江路や、世のうねの野に鳴く鶴も、子を思ふかと哀れ也。


元徳三年(1331)蔵人右少弁日野俊基卿が、幕府打倒の企てが露見して、鎌倉へ送られる時
の道行きである。
片野の春の桜狩りは大阪の交野の桜を詠んだ藤原俊成の次の歌をふまえて
いる。


新古今和歌集春歌下
またや見む 交野のみ野の桜狩り 花の雪散る 春のあけぼの

また、この歌は伊勢物語の八二段を下敷きにしている。

伊勢物語八二段
前略..................
いま、狩りする交野の渚の家、その院の桜 ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて枝を折りて
かざしにさして、上中下みな歌 よみけり。馬の頭なりける人のよめる。


世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし

となむよみたりける。............後略

と、まあ、こんなわけで 片野の春と言っただけで、重奏低音のように響き合うのもおもしろい。
結局日野俊基は鎌倉化粧坂で斬られる。建武中興前夜の悲劇であった。


近江国府跡


近江国府跡はわかりにくい所にあった。三大寺という地名だった。
一時間ほどうろうろしていたら、土地のおじいさんが親切に案内してくれた。もう76才だというのに大変元気で、驚いてしまった。

まだ発掘の最中らしい。近江国庁跡の碑の南に広大な庁跡の遺跡が広がっていた。
最初の発掘は1963年三大寺山の地で、住宅団地の建設工事の現場から大量の瓦が出土したのがきっかけであった。滋賀県教育委員会による本格的発掘調査が始まり、基壇の上に建った瓦葺きの礎石建物が次々に発掘された、それまでその地名から寺跡であると思われていたのが、建物配置や細長い脇殿のような建物の発掘により、
近江国庁の跡であることがわかった。

この近江国庁の発掘は、国庁の建物配置がほぼ完全に近い形で復元され、その後の諸国の国府政庁の発掘に大きな影響を与えた記念すべき調査であった。


近江国衙跡の碑 国衙域の遺構


近江国府の研究は、昭和10年(1935)の米倉二郎(広島大学名誉教授)の論文が嚆矢となる。米倉は現在の地形に着目して方八町の国府域を想定した。そしてその方八町の四隅に神社が鎮座し、さらに、その外辺にあたるところに周濠の跡と考えられる道や川が存在することなどをもって、古代にこの地に近江国府があった根拠とした。

昭和38年(1963)住宅団地建設現場で偶然見つかった三大寺遺跡は、米倉の想定した国府域の中心線上にはあったが、想定した国府域の南端に位置していた。そのために最初は寺跡ではないかと思われていたが、出土した基壇建物は寺の構造とは大きく異なり、まちがいなく国府政庁の遺構であると結論づけられた。

発掘された正殿は、東西27.9M、南北19.3Mの基壇の上に、東西23M、南北15Mの四面庇の瓦葺き礎石建物であった。正殿の左右から、東西の脇殿が、北側からは正殿と同規模の後殿が発掘された。いずれも基壇上に建てられた瓦葺きの礎石建物である。この建物配置は、藤原京や平城京の大極殿朝堂院の配置に酷似していた。この時発掘された近江国庁の遺構は、古代国府の典型とされ、以後、各地の発掘調査の拠り所となったのである。

近江国庁の復元図                            (大上直樹氏作図)


平成7年(2005)3月13日、大仏師渡邊勢山師とともに、久しぶりに近江国庁跡を訪れた。
相変わらずわかりにくいところにあった。案内表示も全くないので、あやうく迷ってしまうところだった。現場も前回の訪問から7年経ったにしては、とても整備されたとは云えない状況で、ずいぶん遅いテンポだなあと感じた。

政庁跡の東側に一群の建物群が見つかっていて、築地塀の復元や、説明板を掲示した休憩所が出来ていたが、肝心の政庁本体の方は、荒れ放題のように見えた。我が国の国府政庁発掘調査の記念碑的な現場なのに、史跡整備に一貫性が感じられないのは残念である。


南門から木製外構基壇を望む
国庁域の東側に築地塀で区画された
建物群が発掘された。
築地塀
古代の建築技法によって復元されている。


木製外構基壇と渡邊勢山師
国庁の東側から発掘された建物群のうち、最も大きい建物の基壇。木製の外構基壇は
めずらしい。この周辺で食器と思われる土器が大量に出土しているので、何か宴会を
するような施設だったと考えられている。



建部大社(近江国一之宮)

国庁跡から西へ少し丘を下ると、近江国一之宮建部大社だ。これはたいへん大きく、荘厳な社だ。社有地は9万uにおよぶ。

建部大社の参道 神門

拝殿、本殿は檜皮葺きの堂々とした建物である。延喜式内名神大社であり、日本武尊を祀る。
景行天皇43年(113)日本武尊が伊勢で崩御された時、父景行天皇はいたく嘆かれ、
御名代(みなしろ)として建部(たけるべ)を定められた。

景行天皇46年(116)御名代の地、神崎郡
建部の里に尊の神霊を祀ったのが、当社の草創と伝えられている。その後、天武天皇の白鳳4年(676)当時近江国府のあったこの地に移し、近江一之宮として崇めてきた。


拝殿 本殿
奥が正殿、手前が権殿。

正殿
日本武尊を祀る
権殿
大巳貴命を祀る


境内社 石灯籠
文永7年(1270)の銘がある。重要文化財。



近江大津京跡


天智天皇六年(667)都が飛鳥から近江へ遷された。近江大津京である。672年壬申の乱によって近江京が廃され、再び飛鳥に都が戻されるまで五年間の栄華であった。

近江神宮山門
近江京の一角に建てられた近江神宮。祭神はもちろん天智天皇。昭和15年の創建。
毎年一月には百人一首の全国大会が催される。テレビ中継でおなじみの神社である。


外拝殿 拝殿


錦織(にしきごおり)遺跡
昭和49年の発掘調査により、この地点から
内裏南門の跡が発掘された。
内裏の門の遺構
昭和53年に回廊が発掘され、この地が
近江京の中心部であることが確定した。


近江京を偲ぶ歌は、いずれも私の心を打つ。

淡海 夕波千鳥 (な)が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ       柿本人麻呂

さざ浪や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな            薩摩守忠度

近江国分寺

近江国分寺は、日本の天台宗の開祖最澄が最初に僧になった寺として歴史に残っている。
最澄は近江国に生まれ、宝亀十年(779)12才で近江国分寺に入った。14才で得度し最澄となのる。延暦四年(785)東大寺で授戒。時に最澄19才。俗名三津首広野(みつのおびとひろの)

最澄が授戒したことを通知する近江国分寺の僧綱

近江国分寺は何度か移転している。最初に国分寺として営まれたのは、聖武天皇の紫香楽宮の近くに建てられた甲可寺だという。聖武天皇は天平15年(743)、甲可寺で大仏を建立すると発願され、翌年大仏の骨柱を建てるまでになった。しかし、紫香楽宮遷都に対する反対が多く、不審な火災が頻発したために、遷都も大仏建立も断念して、平城京に戻られた。

第一次の近江国分寺は、この甲可寺を当てたと考えられている。現在、紫香楽宮跡として国の史跡に指定されているところが、最初の近江国分寺跡だというわけである。

延喜式の寺料は六万束と大国にふさわしい。



第一次近江国分寺(甲可寺)跡

大正15年(1926)に国の史跡に指定されたときは、聖武天皇の紫香楽宮跡と思われていた。
しかし、建物の配置が東大寺によく似た配置であり、宮殿というより寺に近いことは、当時から指摘されていた。昭和51年(1976)、宮町遺跡で宮殿の柱根が出土し、宮跡はそちらだということになると、こちらの方は第一次国分寺とされた甲可寺跡だということになった。このため、現地の説明文のタイトルは紫香楽宮跡のままでありながら、本文は甲可寺跡の説明をするというわかりにくいことになっている。

中門跡 講堂跡

金堂跡
中門跡から一段高いところにある。大仏師渡邊勢山師は「この礎石配置からすると
大仏を金堂におおさめするには、いささか狭いなあ」という印象だといわれる。


紫香楽宮?
金堂跡に立つ紫香楽宮という神社
どなたを祀ってあるのかわからないが、
なんだか混乱する。
金堂の礎石群
小高い丘の頂上に点在する。
かっては聖武天皇の離宮紫香楽宮跡と
考えられていた。

塔跡
五重塔であったらしい。
塔の礎石
中央の心礎は火災のため割れている。

甲賀寺伽藍配置図
丘陵に建てられたので、この図とはだいぶ雰囲気が違うと思うが。中門と金堂の間は
かなりの段差があって、このように回廊を巡らすことは出来ない。


宮町遺跡(紫香楽宮跡)


紫香楽宮の遺構は、宮町と呼ばれる集落の田んぼの中から発掘された。かなりの突貫工事であったらしく、低地を埋め立てるのに木の根や、雑木を埋め込んだらしく、それが建物の構築用に溝を掘るときに邪魔になり、再度切断した痕跡が出てきたという。


宮町遺跡
紫香楽宮が営まれた跡だという。
昭和40年代の水田圃場工事で、柱や
土器が出土し話題になった。
紫香楽宮跡
平成12年(2000)紫香楽宮の朝堂と
思われる大型建物の遺構が発見された。


第2次近江国分寺(瀬田廃寺)跡

瀬田廃寺跡
名神高速道路の瀬田西インターの近くだ。
瀬田廃寺塔の礎石
焼損の痕跡は少ない。

日本略記に延暦4年(785)に近江国分僧寺火災焼尽とある。この火災を起こした寺が、紫香楽の第一次国分寺であるのか、第2次の瀬田廃寺であるのか議論のあるところである。第一次の寺の遺構からは焼失の跡が確認されているが、瀬田廃寺からは明確な焼損の痕跡が無い。どうも延暦4年に焼尽したのは、第一次の甲可寺の方で、そこから直接第3次の国昌寺へ移転したとも考えられる。そうすると、最澄は紫香楽の第一次国分寺で得度したことになるのだが。


第3次近江国分寺(国昌寺)跡

国昌寺跡に立つ青嵐小学校
日本略記に「弘仁11年(820)国昌寺を以て国分光明寺と為す」との記事がある。
延暦4年(785)の焼失から35年後のことであった。その国分寺も寛仁元年(1017)には
尼寺と共に焼失した。昭和初期まではこの小学校の敷地に、礎石が残っていたらしい。
現在その内のいくつかは、近くの西方寺にあるという。
このあたりの地名は、大津市国分である。古代の国分寺は地名となって残っているのだ。

藤原仲麻呂の威勢をもって造営された保良宮も、この近くだったらしい。

近江国分寺跡の碑
青嵐小学校の校舎の北側に立つ。
「分」の字の刀が突き出している。
青嵐小学校の校庭
この校庭が国分寺の伽藍だったの
であろうか。



もうひとつの国分寺

国分寺を称する寺が瀬田の唐橋を西に渡って、しばらく行ったところにあった。
これもわかりにくい。というよりおよそ寺らしくないのだ。普通の民家だ。

境内に巴御前の供養塔があるというので、入ってみた。
なんだか普通の家の庭に入り込むようで気が引けたが。


国分寺 巴御前の供養塔



近江国地図



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