69.琉球王国 沖縄県那覇市 2002.01.15 2007.04.05
琉球王国は12世紀から17世紀にかけて栄えた海洋国家である。17世紀に薩摩藩の勢力下に入ったが、対外的には独立国家として行動した。明治維新を迎え、ひとつの県として、完全に日本に組み込まれた。 琉球王国の最盛期は、北は奄美諸島、南は八重山諸島を含む長大な海洋王国であった。ちなみに宮古島から西を先島諸島、そのうちで石垣島から西を八重山諸島という。 |
ニライカナイの伝説 |
琉球王国の人々はニライカナイの伝説を信じていた。遙かな海の向こうの海底深く、ニライカナイと呼ばれる常世の国がある。神はそこから生まれ、琉球にやってきて、人々に恵みをもたらすのだと。 |
与那国島海底遺跡 (写真は新嵩喜八郎氏) |
昭和61年(1986)、新嵩喜八郎氏は与那国島のダイビングスポットを開拓中に、インカ帝国の遺跡に似た奇妙な地形を発見した。東京大学や琉球大学の専門的な研究も進み、1万年以上前の人工の遺跡だろうと推定されている。 ニライカナイの伝説が、海のロマンを呼び起こしたようである。 |
柳田国男の海上の道 | |
中国文明発祥の地は、黄河の南の殷帝国だとされる。殷の通貨は子安貝であったという。財、買、賠、貨、購、寳など財産関係を表す漢字には、貝の字が必ず入っている。殷の廃墟からは、子安貝が大量に発掘されている。通貨として使われていたのだ。ところが、河南の海岸はおろか、中国のどの海岸にも子安貝は産しない。子安貝は珊瑚礁の海岸でなければ生育しない。アジアでは琉球、特に宮古島が最大の生育地なのだ。 そこで柳田の仮説は、世界最大の子安貝の消費地が殷の王室で、最大の産地が琉球だとしたら、殷人が貝を求めて琉球に渡ったであろうことは、容易に推定できる。やがて彼らが日本列島に至って、我々の祖先となったというのである。 柳田国男は著書「海上の道」で、壮大な歴史ロマンを描いて見せた。そこでは、琉球が重要なポイントになっているのである。 |
小野妹子と琉球 (隋書流求国伝) |
隋の大業3年(607)隋の海軍が琉球を探検して帰国した。しかし、言葉が通じないのでやむを得ず彼らの用いる「布甲」を取って帰ってきた。ちょうど、日本から遣隋使として小野妹子が来ていたので、隋の朝廷は妹子に尋ねた。妹子はその「布甲」を見て、夷邪国人が用いるものだと答えたという。おそらく妹子は屋久と答えたのだろう。九州から南の島は、多祢とか屋久と呼んでいたらしいのだ。隋の人はそれを聞いて、流求という漢字を当てた。琉球が史書に登場する初めである。布甲はどういうものかよくわからないが、ベッコウのことかもしれない。 |
阿倍仲麻呂・鑑真和上と阿児奈波 (唐大和上東征伝) |
時代は奈良時代。天平勝宝5年(753)阿倍仲麻呂や鑑真和上を乗せた遣唐使帰国の船が、琉球へ漂着した。仲麻呂と鑑真は別船で大和を目指したが、仲麻呂の乗った船は安南に漂流し、とうとう帰国は果たせなかった。一方の鑑真は、無事に大和へ着いた。運命は過酷にも二人の行くへを隔てたが、二人が琉球でのひとときを共に過ごしたことは、意外に知られていない。琉球が阿児奈波(おこなわ)と大和言葉で記された初めである。 |
源為朝が琉球に? |
保元元年(1156)保元の乱に敗れて伊豆大島に流された源為朝は、なぜか沖縄の今帰仁(ナキジン)城に現れ、南部の大里按司(アジ)の妹と結ばれ尊敦(ソントン)という息子をもうけて、また大島に帰ったという。この尊敦がのちの舜天王だという。琉球の歴史書中山世鑑によれば、この舜天が天孫氏を名乗って中山王となった。琉球の史書に現れる最初の王である。 為朝伝説は、後世の粉飾だろうが、天孫氏という名のりは意味ありげである。 |
三山時代 |
さて、12世紀になってようやく琉球統一の兆しが見えてきた。沖縄本島は三っつの勢力にまとまってきた。北山、中山、南山がそれである。この時代を三山時代と呼ぶ。中山王舜天が現れてから150年以上が経過した1350年、浦添按司謝名モイが首里城を築き、中山王察度と名乗る。 明の洪武帝は1372年、楊載を派遣して琉球の中山王察度と、日本の太宰府に入貢を勧めた。太宰府は明に臣従する気はないとして拒否したが、察度は弟を派遣し進貢した。察度はここに琉球王として初めて、琉球中山国王として明に冊封されたのである。
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第一尚王朝 |
1406年、佐敷の按司思紹の子巴志は、察度の子武寧を滅ぼし、父の思紹を武寧の子と称して明朝から冊封を受け、中山王とした。1416年には北山を破り、事実上琉球の覇者となった。1422年、父のあとを継ぎ、1429年には南山を滅ぼして三山を統一した。1430年明朝は巴志に、王冠とともに「尚」姓を贈った。尚王朝の始まりである。 日本では室町六代将軍義教の時代だ。
この時代は、琉球と明との関係が密接で、明からは学者、技術者などが勅命で琉球に渡来し、首里城のそばに住んで文化、技術を伝えた。また、琉球の船団はマレーシアやルソンにも進出、ポルトガルやスペインがアジアに現れるまで、南海の貿易に活躍した。
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第二尚王朝 |
尚王朝7代目尚徳は、父の重臣金丸に位を譲り、1469年29才で死去。金丸は尚徳の後継として冊封を受け、尚円と名乗る。尚思紹から尚徳までの七代64年を第一尚王朝と呼び、尚円から始まる王朝を第二尚王朝と呼ぶ。 第二王朝三代目の尚真は、1500年、宮古島の仲宗根玄雅に先導させて、石垣島のオヤケ赤峰を討ち、1522年には与那国島の鬼虎を滅ぼして八重山諸島を平定した。 尚真王の時代は、明への進貢も1年1貢となり、中国商品を遠く南のベトナムまで運ぶなどして、莫大な交易利益をあげ、国力が充実した。この時代を嘉靖の栄華と呼ぶ。 1609年(慶長14年)、薩摩藩が琉球に侵攻、4月1日首里城陥落。尚寧王は薩摩に幽閉される。これより以降、琉球王国は完全独立を失う。しかし、明、清とは表面上独立国として相変わらず冊封を受け、徳川幕府が鎖国をしたあとも、薩摩藩の監視の下で朝貢貿易を続けた。
第二尚王朝は尚円に始まり、薩摩支配のもとで王統は継続し、1879年(明治12年)第19代尚泰王が東京に遷されるまで、400年を超える長命政権であった。 同時代の中国と日本の長期政権の統治期間を見てみると、琉球の第二尚王朝がいかに長期であったかがわかる。 元 (1275−1368) 93年 明 (1368−1661)293年 清 (1644−1912)268年 室町幕府 (1336−1573)237年 徳川幕府 (1603−1868)265年 第二尚王朝(1469−1879)410年 |
首里城 |
首里城は1350年、中山王察度が築いてから、525年にわたって国王の城であった。 東西約400m、南北約200m。行政空間、京の内と呼ばれる祭祀空間、御内原(ウーチバル)と呼ばれる王の居住空間に別れている。 |
守礼門 有名な守礼門。薩摩支配下にあっても、明や清と冊封関係にあったので、国王の代替わりには、冊封使を迎えねばならなかった。そのため、儒教の守礼の教えを堅持する国との建前を示したものといわれる。 |
瑞泉門 | 久慶門 |
正殿 3階建てで、正面の唐破風は日本風、龍を柱に見立てた龍柱は琉球様式、建物全体は中国様式で建てられている。中国の影響を受けているなら、正殿は南面しなくてはならないのに、なぜか西向きである。正殿の真東に琉球の聖地久高島があるという。ニライカナイの影響かな。 |
久慶門 首里城の最も外側にある門。この石組みは素晴らしい。 |
ペリー来航 |
1841年(天保12年)、清国はイギリスとアヘン戦争を戦い完敗。その第一報は琉球王国から幕府に伝えられた。1846年(弘化3年)、遂にイギリスの軍艦が琉球に現れ、宣教師ベッテルハイムは、王府の帰国要求に応ぜず、家族とともに滞在、翌46年、遂に薩摩藩は琉球王府に外国貿易を認めた。幕府の開国より8年も前のことである。 1853年(弘化6年)5月、アメリカのペリー提督率いる蒸気船が那覇港に入港。6月には210人の海兵隊を率いて首里城に向かい開港を強要した。琉球王府は首里城北殿でペリー歓迎のパーティーを催し、一行を満足させた。 ペリー等は那覇港を前線基地として江戸に向かい、1854年(安政元年)3月、幕府はついに日米和親条約を締結、長い鎖国政策に終止符を打つのである。琉球国はここでも大きな役割を果たしていたのだ。 |
識名園 |
琉球王家の最大の別邸。冊封使の迎賓館としても使われた。中国、日本、琉球の様式をミックスした回遊式庭園である。1万2千坪の敷地を有する。 |
左は琉球様式の賓館、右は中国様式の六角堂。 |
心字池 心字池に映る情緒豊かな影が安らぎを与える。 |
琉球の民俗 |
石頑當 セキガントウと読む。交差点の角によく見かける。車や魔物が飛び込まないようにするおまじないだそうだ。琉球の魔物は直線にしか進めないんだそうだ。だから、曲がり角に置いておくと入ってこれないというわけだ。 |
ヒンプン これもおまじないだ。門と家の間に衝立のように立てる。沖縄の家には本来玄関がないんだそうだ。最初、目隠しのつもりかなと思ったけれど、これも魔除けのおまじない。で、女性は左から、男性は右から入らなくてはいけないらしい。 |
御嶽 ウタキと読んだり、オンと読んだりする。島中にたくさんある。川平だけでも4カ所あると聞いた。雨乞いや豊年祭など、島の祭事には欠かせない施設である。 |
イビ門 御嶽の最も重要な区域で、ここから先は入ってはいけない。結界である。長さは11mほど、イビ門の高さは1.8m。中は三段の高低がついている。 |