68.佐渡国  新潟県佐渡市真野町   2006.04.01


佐渡島は面積854平方キロ、沖縄本島に次ぐ我が国第2の島である。新潟市から45キロ離れた日本海に浮かぶ島で、古来、流人の島であった。承久の変に破れた順徳上皇、幕府を批判した日蓮、幕府転覆を謀った日野資朝、室町五代将軍足利義教と対立した世阿弥こと観世元清など貴人や文化人が鎌倉、室町期に流罪となってこの島へ流されてきた。鎌倉初期に大佛氏の守護代として佐渡に入った本間氏は、佐渡に勢力を伸ばし、やがてその支流は酒田で大地主となる。佐渡の本間氏は流人となって佐渡に渡ってきた貴人達にその娘を夜伽に出し、生まれた子供に家を継がせたという。

江戸期にはいると金山の島として歴史に浮上してくる。慶長六年(1601)に金鉱脈が発見され、慶長八年(1603)に大久保長安が佐渡奉行として赴任してくる。佐渡金山は徳川幕府の財政基盤確立に寄与したが、採掘人夫は重罪を犯して流されてきた流人達であった。

過疎化が進み昭和30年代に12万人を数えた人口は、現在約6万人と半減している。


佐渡島
新潟港からジェットフォイルに乗って1時間で佐渡両津港に着く。
ジェットフォイルはボーイング社製の水中翼船で最高時速80キロで
新潟、佐渡間を連絡している。


大佐渡山脈
両津港から眺めた大佐渡山脈。金北山(1172m)を主峰とし佐渡島の
北側に連なる。


佐渡国府

佐渡国は700年代に成立し、一時越後国に編入されたが、天平勝宝四年(752)分離独立
し元に復した。国府は国仲平野の国府川流域に置かれたが、現在その位置を特定するのは
難しい。ただ、1975年真野町竹田で発掘された下国府遺跡は、2棟の掘立柱建物と多くの
須恵器、土師器が出土し、佐渡国府に関連する官衙跡ではないかと推定されている。

国府川
その名もそのものずばりの国府川。西に流れて真野湾に注ぐ。


下国府遺跡
昭和50年(1975)農地の整備作業で見つかった。翌年に国の史跡に指定された。


下国府遺跡
大佐渡山脈を背景にした下国府遺跡。2棟の掘立柱建物跡を植え込みで示す。
東西34m、南北36mの遺構は、2重の堀に囲まれている。
9世紀初頭とみられる須恵器の酒器や食器のほか、「木」と書かれた墨書土器が
出土している。


総社神社

総社神社
昔は惣座大明神といったらしい。八社林に鎮座していたのを、吉岡地頭本間氏が
自分の領地に遷したという。
広い境内は雰囲気があるが、社殿は古くかなり傷んでいて、説明板もほとんど読
めない。祭神は伊弉諾尊、伊奘冉尊、素戔嗚尊など七柱。


拝殿 本殿


佐渡国分寺


佐渡国分寺はよく整備された史跡公園になっている。延喜式の寺料は1万束で、越後国の租税でまかなわれた。
その後火災などで衰微したが、鎌倉期の延慶元年(1308)に守護代本間氏から寺領が寄進され、寺勢は盛り返したという。本尊薬師如来は平安期の作で、桧一本造りだというが収蔵庫に納められていて見ることは出来ない。

佐渡国分寺跡
昭和2年(1927)塔跡が発見され、昭和4年(1929)に国史跡に指定された。史跡公園化の
事業の中で大量の古瓦が出土した。その中に人物画と三国真人と書かれた丸瓦の破片も
発見された。三国真人能登守を務めたが、罪を得て佐渡に流されたという。


佐渡国分寺配置図
南大門、中門、金堂を直線上に並べ、中門と金堂を回廊で結び、外側に塔を配する
典型的な国分寺様式である。講堂や僧坊は発見されておらず、規模としては全国で
最小規模である。東北部の新堂は平安期のものらしい。


南大門跡 南大門の礎石


金堂跡 金堂の礎石


塔跡 塔の芯礎


現国分寺

現国分寺山門
茅葺きの美しい山門である。道路からかなりの高台にある。


本堂
医王山瑠璃光院と号する真言宗の寺である。総桧造りで延宝年間の再建と言うから
300年以上前の建物だが、手入れがよく行き届いている。


瑠璃堂
茅葺きの趣ある建物で、以前はこの
お堂の中に薬師如来が安置されていた。
収蔵庫
瑠璃堂の裏に立つコンクリート造りの
収蔵庫。拝観できないのが残念。


渡津神社(佐渡一の宮)


佐渡一の宮は渡津神社(わたつじんじゃ)である。羽茂町の羽茂川のほとりに鎮座する。祭神は五十猛命。植樹、建築、造船などの神様だ。佐渡国の式内社9社の筆頭である。交通安全に霊験あらたかだという。

朱塗りの大鳥居
一宮の掲額がかかる。
神門
朱塗りの欄干とよく調和して美しい。


拝殿
奥の本殿は宝永6年(1709)、この拝殿は昭和12年(1937)の造営である。総桧造り。


真野宮と真野御陵


順徳上皇後鳥羽天皇の第三皇子だ。84代天皇として承元4年(1210)即位。藤原定家に和歌を学び、勅撰集に159首採られている歌人でもある。また著作も多く、禁秘抄は有職故実を集めた名著として名高い。

承久3年(1221)息子の懐成親王に譲位して、父の後鳥羽上皇とともに鎌倉幕府転覆の乱を起こす。承久の変である。乱に破れて佐渡に流され21年間佐渡で暮らしたが、仁治3年(1242)自ら食を断って崩御。46歳であった。真野陵に葬られたが、翌年遺骨は京都に持ち帰られ、大原三千院の近くの大原陵に父帝と並んで埋葬された。

真野宮
佐渡国分寺の末寺真輪寺が真野陵を
守ってきたが、明治になって神社にして
真野宮と称す。
祭神は順徳上皇、菅原道真、日野資朝
順徳上皇行在所跡
順徳天皇の行在所としては、金井町泉に
黒木御所があるが、ここにも行在所跡とい
う碑が立っている。
梅の花が美しく咲いていた。


真野御陵(順徳上皇ご火葬塚)
順徳上皇は46歳で悲憤の内に生涯を閉じられたが、この地で火葬された後、
遺骨は京都に還って、父帝と並んで埋葬された。

父帝後鳥羽院が隠岐で亡くなったのを知って詠まれた歌

同じ世の別れはなおも偲ばるる 空ゆく月のよその形見に

(隠岐と佐渡と遠く離れていても、この世ならまだ偲ばれもするが、もう外の世に
行ってしまわれて、私はただ月をあなたの形見と思うばかりです。)


百人一首に採られた歌

ももしきや古き軒端のしのぶにも なおあまりある昔なりけり
(宮殿もしのぶぐさが生えてしまうほど古く荒れてしまった。いくら堪え忍んでも
盛んだった往時が偲ばれてならない)


順徳上皇の辞世の歌

思いきや 雲の上をば 余所に見て 真野の入り江に 朽ち果てむとは

阿仏坊妙宣寺

国分寺の近くにこの寺がある。新潟県で唯一の五重塔を有する。阿仏坊日得の居宅を寺としたのが当寺の始まりである。阿仏坊は妻の千日御前とともに、佐渡に流された順徳上皇に供奉した北面の武士。上皇崩御の後、熱心な浄土信者であったが佐渡へ流されてきた日蓮に帰依、夫婦ともに法華宗に改宗し、幕府の意を汲む佐渡の役人や、地元民の迫害から日蓮を守り抜いた。

五重塔
相川の茂左衛門、金蔵親子が30年
かけて文政8年(1825)に完成させた。
庫裡の大黒柱
大きな茅葺きの屋根を支える大黒柱。
赤松の巨大な柱だ。


本堂と庫裡
正面が本堂、右の茅葺きの建物が大黒柱を持つ庫裡。江戸末期の建築である。


トキ資料展示館

佐渡トキ保護センターにある。朱鷺の繁殖に関するビデオやパネルが展示されている。トキ保護センターは朱鷺の繁殖に力を尽くし、現在80羽の朱鷺が飼育されている。絶滅から考えるとすごい数だ。ただ、残念ながら鳥インフルエンザ対策で近くに寄って見るわけにはいかない。望遠鏡でケージの中の朱鷺を眺めた。

キンとミドリ
日本に生息していた最後の朱鷺。剥製にして展示してある。


佐渡国地図


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