03.03.05
相模国は、現在の神奈川県とほぼ一致する。 奈良時代の初期相模国府は国分寺の跡が海老名市にあるので、海老名市にあったであろうとする説、小田原の千代廃寺を初期の国分寺跡と見て、小田原に在ったとする説があるが、いずれも決め手に欠ける。 平安時代に編集された倭名類聚抄やその他の古文書に、相模国府は大住郡とするので、平安時代には現在の平塚市に移されたらしいとされてきた。しかし、最近の発掘調査から、相模国府は最初からこの地に営まれたとする明石新氏などの説が有力になってきた。 さらに15世紀に成立した十巻本伊呂波字類抄には、余綾(ヨロキ)郡とするので、中世には現在の大磯のあたりに移ったと考えられる。 |
相模国府(大住郡) (03.03.05取材) |
倭名類聚抄によると相模国府は、大住郡にあったとされる。 昭和54年(1979)から昭和57年(1982)にかけて、国道129号線の拡幅工事に伴う発掘調査が行われ、平塚市の相模四之宮前鳥神社の周辺から、多量の墨書土器、彩釉陶器、装身具などが出土。さらに平成2年(1990)には国厨(くにのくりや)と書かれた土器が見つかり、ここ四之宮周辺遺跡が、大住郡にあったとされる相模国府の遺跡であることが、ほぼ確定的になった。 |
相模国四之宮前鳥(さきとり)神社 莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)命を祀る。 命は応神天皇の皇子で、論語、千字文を 伝えた百済の博士王仁から学問を習い、 仁徳天皇と互に皇位を譲り合った故事 で知られる。 |
前鳥神社の碑 寛政六年の銘がある。 |
真言宗高林寺 この寺の境内から、墨書土器が多量に出土。 往事の国司館であったという仮説も立てられ た。 |
国道129号線 この道路拡幅工事の現場から、「国厨」と 墨書された土器が出土。相模国府の遺跡 がこの地に眠っていることの、有力な証明 になった。北に高林寺交差点を望む。 |
稲荷前A遺跡 国道129号線の拡幅工事に伴う発掘調査で、墨書土器多数が出土した。 官衙の構築遺構こそ未発掘だが、相模国府の存在を雄弁に語る成果である。 上の写真の129号線の東西から、左図のように「国厨」、 「旧?」、「大住」と読める墨書土器が出土した。 豆に支と書いてシと読むが、味噌のような調味料を、表すという。このあたりに国庁の役人のために食事を給する厨房があったのだろう。 (平塚市教育委員会資料1995) |
多量に出土した墨書土器 「政所」、「御司」など官衙名、「大住」、「郡」 などの郡名が書かれたものが多い。 |
帯飾り 国府の役人が身につけた帯飾り。 銅夸、石夸、締め具など。 |
灰釉陶器 | 緑釉陶器 |
当時の高級食器で、尾張国猿投産のものが95%を占める。 東国の他の国府遺跡に比べて、出土量が非常に多い。 |
皇朝十二銭 この付近から21点出土した。 質、量ともに、県内では飛び 抜けている。 |
国厨土器 平成2年(1990)の発掘で、計6点出土 した。8世紀第3四半期に該当する土器で、 天平年間には相模国府がこの地に存在した 証となった。 |
曹司土器 全国でも出土例が少ない「曹司」と書かれた 土器。高林寺境内から出土した。 |
相模国府(余綾(ヨロキ)郡) |
15世紀に編まれた辞書の十巻本伊呂波字類抄によると、相模国の国府は余綾郡とある。大住郡から何らかの理由で移転したらしい。この最後の相模国府は未だ発掘されていない。大磯駅の北に、国府という地名がいくつか残っているので、 おそらくこのあたりだろうと推定されている。 国府本郷というところに、神揃山(かみそろいやま)という小高い丘がある。 |
大磯町の神揃山。 |
吾妻鏡によれば、治承四年(1180)富士川に平家を破った頼朝は、10月23日ここ相模国府で、北条時政以下25名に論功行賞を行ったという。 |
相模国府祭(さがみこうのまち) |
毎年5月5日にこの神揃山で、めずらしい祭りが行われる。 相模国の一之宮「寒川神社」(寒川町)、二之宮「川匂神社」(二宮町)、 三之宮「比々多神社」(伊勢原市)、四之宮「前鳥神社」(平塚市)、「平塚八幡宮」(平塚市)、「総社六所神社」(大磯町)の六大社から神輿が出て神揃山に集まる。 国府祭と書いて「こうのまち」と読む祭りの始まりである。 |
2002.05.05撮影 | |
一之宮寒川神社の神輿入山 | 反対側から二之宮川匂神社の神輿登場 |
三之宮比々多神社の暴れ神輿 | 神輿が鎮まると祝詞が奏上される |
座問答
宮の格式の象徴である虎の皮を、相手より前に
進めようとする寒川、川匂両神社の神職「いずれ明年まで」と仲裁に入る比々多神社
国府祭の全貌(お祭りが大好きな菅谷さんの「定年どっこい」にリンクします)
六所神社(相模国総社) |
湯津爪櫛 六所神社の守り櫛。 男性から女性に贈ると その女性は一切の災 禍から免れるそうな。 800円。 |
相模国分寺跡 |
相模国分寺は、東西160b 南北120bの回廊に、講堂 金堂、七重の塔を持つ大寺 であった。 左はその復元図。 金堂と塔を東西に配し、回廊 をめぐらす法隆寺式の伽藍配 置である。 |
相模国分寺と法隆寺の比較 | |
相模国分寺の規模は、法隆寺 と比べるとかなり大きい。 塔も、金堂も大ぶりで、東国を 律令制に従わせようとした大和 朝廷の、意気込みの表れであ ろうか。 寺料も四万束と非常に大きい。 「飛鳥の寺と国分寺」 坪井清足著より |
史跡公園の整備予想図 塔跡と南面回廊、僧坊跡の整備が進んでいるが、金堂や講堂 は、まだ手つかずだ。 |
七重塔の基壇 昭和41年(1966)、平成4年(1992)の 発掘調査により20.4M四方、高さ1.3M であったことが確認されている。 |
塔の礎石 礎石から塔の初重は、10.8M四方と 推定される。 高さは65Mの堂々たる塔であった。 |
史蹟碑 大正10年に国指定を受けた記念碑 金堂址の推定地に建っている。 |
金堂跡 礎石らしい石がいくつか見えるが、 保存らしい保存はされていない。 |
南回廊跡 東側から中門跡を望む。 昭和41年(1966)と平成5年(1993) の発掘調査により、中門は正面20.7M、 側面10.8Mと推定される。 ほとんどの遺構は残っていなかったが、 回廊の東部分に10個の礎石が旧位置に 残っていた。 |
僧坊跡 僧坊跡は整地され、礎石位置が墨で書かれている。 |
現在の国分寺は道を挟んだ 南側の小高い丘の上にあった。 真言宗の寺である。 この地にはもともと薬師堂があり 国分寺がたびたびの火災で 消失した時に、何度かここに避 難したことがあるという。 |
境内にあった六地蔵。 |
この地蔵たちもかなり古く、前の水桶には 天明五年六月奉納とあった。 天明五年は1785年。徳川第10代将軍 家治の時代である。 |
寒川神社(相模国一之宮) |
境内は1万5千坪。鬱蒼とした神林に囲まれ、厳かな雰囲気である。
7月20日の浜降祭は、近郊各社の御輿20余基を従え、茅ヶ崎海岸
南湖の浜へ渡御。暁の旭光を浴びた荘厳な祭りだ。(県無形文化財)
神門 | 拝殿 |
平成9年10月、本殿、幣殿、拝殿、翼殿、回廊、神門が完成。 本殿は銅板葺き、総檜作り。 |
平塚八幡宮 |
本殿は堂々とした建物。 大住郡の相模国府は、この宮にゆか りがあると言われている。 保元3年(1158)の「石清水文書」に 「相模国、旧国府別宮」とみえるのは 余綾郡の新国府に対する大住郡の 旧国府で、別宮はこの八幡宮であろ うとされる。 と、いうことは12世紀には、国府は 余綾郡(今の大磯市あたり)に移って いて、大住郡のこのあたりは旧国府 と呼ばれていたのであろう。 |
境内は美しい樹木でいっぱいで 平塚八幡宮の森は、神奈川の 美林50選に選ばれている。 |