24.讃岐国 香川県坂出市  JR予讃線讃岐府中駅 98.08.10 14.05.19


98年8月、始めて瀬戸大橋を渡り香川県に入った。讃岐の国である。かって菅原道真が右大臣にのぼる前に、国守として在任した国である。また、ここは崇徳上皇が都を追われて、無念のうちに崩御された地でもある。高松でレンタカーを借りて、古代の夢の跡をたどった。

島根大学の大橋泰夫先生からメールで、讃岐国府跡が確定したらしいとのお知らせをいただいた。2014年の2月に現地説明会があるという。2月には行けなかったが、5月に16年ぶりに讃岐国を訪れた。

 
 讃岐国       (香川県埋蔵文化財センター資料)

讃岐国府跡

1998年8月、四国に渡った私はレンタカーを借りて、讃岐国府を探し始めた。予讃線の讃岐府中駅の近くに国府があったはずだが、どこを探してもわからない。ふと、埋蔵文化財センターがあるのに気がついた。小高い丘の上に立派な資料館があった。そこで聞くと親切に教えてくれた。田圃の中だという。
 
讃岐国府跡碑
うーん、まさしく田圃の中だ。ここで菅原道真が讃岐守として政務を執っていたのか。千年の時の流れを思った。 この碑は1925年(大正14)に建てられた。この地区に残る古地名から推定された讃岐国府跡を記す記念碑である。

考古学的発掘が進んでいなかった明治・大正時代に、古い地名とかすかに残る条理の痕跡から古代の国府跡を推定した研究だったが、最新の発掘調査で判明した国府跡に、極めて近いことは、驚きというほかはない。

讃岐の国府は開宝寺という古代の寺が、目印になる。菅原道真が讃岐守としてこの地で政務を執っていた時に、開宝寺を詠み込んだ漢詩を作った。この詩が菅家文章に残されて、その注釈に「開宝寺は府衙の西に在り」とある。

1970年、この開宝寺の塔の跡が発掘され、讃岐国府の位置も見当が付くようになったのである。道真は当時の讃岐国の現状を多くの詩に残していて、古代の讃岐国の研究に欠かせない。その意味でも偉大な先人であった。

 
 開宝寺の遺構と讃岐国府域   (香川県埋蔵文化財センター資料)
 
16年ぶりに訪ねた讃岐国府は、やはり開宝寺の東に眠っていた。 香川県最高峰の竜王山を水源とする綾川は、府中湖に流れ込み、そこから北上して、府中小学校の北で大きく東に曲がり、JR予讃線を越えたところで、さらに90度北へ向きを変える。蛇行する綾川に囲まれるように讃岐国府は眠っていた。

開宝寺塔跡 から北東を望む
 
開宝寺塔跡から東を望む
 
香川県教育委員会では1977年から1981年にかけて、讃岐国府跡の発掘調査を実施、緑釉陶器や倉庫跡などを発掘した。その成果を引き継ぎ、香川県埋蔵文化財センターは、2009年から讃岐国府跡探索事業を開始、ほぼ国府の全容を明らかにしつつある。

通算30回にわたる発掘調査の結果、コンテナ600箱もの瓦や土器などが出土した。

灰釉陶器 神功開宝と石帯

灰釉陶器は愛知県の猿投窯で焼かれた高級陶器。神功開宝は皇朝十二銭のひとつで、天平神護元年(765)に発行された。石帯はベルトの飾りで、高級官僚の身分を表したとされる。いずれも、身分の高い貴族が使用したもの。

 
 墨書土器と刻書土器

須恵器の表面に文字を書いたり、刻んだりしたもので、同様の土器は全国の官衙の遺跡から出土する。
 
 (上記はいずれも讃岐国分寺跡資料館展示)

2014年度事業では、8世紀のものとみられる直径1.3mの掘立柱の穴が発見された。未だ2間だけだが、かなり大型の建物とみられ、初期の讃岐国府の中心的建物ではないかと考えられている。

 
 直径1.3mの柱穴を持つ大型建物
 (香川県埋蔵文化財センター資料より)

讃岐国府跡探索事業で判明した讃岐国府は、律令制草創期の7世紀から、成熟期の8世紀、変質期の10−12世紀、衰退期の12−13世紀まで重層的に遺構が発掘されている。地方統治の変遷過程をたどる上で、大変貴重な遺跡になるだろうと思われる。 

 
香川県埋蔵文化財センター 
讃岐国府を見下ろす小高い丘の上にある。ここはいつ行っても親切だ。今回もアポ無しで訪ねたのだが、数年前の資料までコピーして説明してくださり、 丁寧に対応していただいた。旅人には嬉しい資料館である。

開宝寺跡

坂出市水道局のポンプ場の左脇を入ると、民家の裏手に開宝寺塔跡がある。塔の礎石がいくつか残っているだけだが。
 
客舎冬夜(菅家文章より)
客舎秋徂到此冬
空床夜々損顔容
押衙門下寒吹角
開宝寺中暁驚鐘
   開宝寺在府衙西
行楽去留遵月砌
詠詩緩急播風松
思量世事長開眼
不得知音夢裏逢

客舎、秋ゆきてこの冬に至る
空床 夜々顔容を損したり
押衙門の下、寒くして角笛を吹く
開宝寺の中 暁にして鐘に驚く
      開宝寺は府衙の西に在り
行楽の去留は月砌にしたがう
詠詩の緩急は風松にうごかさる
世事をおもんばかりてつねに眼を開けば
知音に夢の裏にだにも逢うことを得ず 
   
月砌(げっせい)月光の照らす庭先  
知音(ちいん)自分をよく知っている友



讃岐総社

国府跡から予讃線の線路に沿って北へ進む。坂出の市街地を東に折れると、讃岐総社に出る。ふつう総社は、国府からそう離れることはないのだが、ここはかなり離れたところにあった。
 讃岐総社

社伝によると草創は延長4年(926)という。現在の宮司富家氏は。保元の乱で崇徳上皇側の総指揮を執った悪左府藤原頼長の長男で、土佐に流された中納言師長を祖とする家で、上皇ゆかりの讃岐総社を守って、現在まで連綿と続いている。
 
拝殿 本殿
祭神は伊弉諾、伊弉冉の2神。


讃岐国分寺

讃岐国分寺は高松から坂出に向かう街道の右手にある。現在の白牛山国分寺は真言宗の寺で四国第80番札所でもある。
 讃岐国分寺本堂
天平の国分寺の講堂の跡に立っている。鎌倉中期の建物で、本瓦葺入母屋造り。国の重要文化財である。本尊は十一面千手観世音菩薩。欅の一木造りの立像で1丈7尺3寸(5.7m)の巨像で、こちらも国の重要文化財だ。
 
金堂の礎石 僧坊跡
本堂の前面には塔と金堂の礎石がある。本堂の裏には僧坊の跡が覆屋で保護されている。
石造りの讃岐国分寺模型
国分寺の裏手は史跡公園になっていて、石造の国分寺伽藍模型があった。これは珍しい展示物だ。

 現国分寺と古代の国分寺の伽藍配置
 
 金堂の模型    (讃岐国分寺跡資料館蔵)
 
 国分寺と国分尼寺
 
   
 讃岐国分寺跡資料館
国分寺の東側に立派な資料館がある。左の塔のような建物は、資料保管庫だそうだ。国府跡からの発掘物もここに展示されている。 写真撮影可。月曜日休館。


讃岐国一之宮 田村神社 

拝殿
讃岐国一之宮は田村神社という。式内名神大社だから格式は高い。古来から水の神様だったらしい。祭神は倭迹迹日百襲媛命、吉備津彦命、猿田彦大神、高倉下命、天村雲命の5柱。

不思議なことにこの神社は、なぜか荘厳な雰囲気がない。境内は広く様々な摂社が並んでいるが、なんとなく空気が俗っぽいのだ。所狭しと置かれた讃岐七福神や桃太郎などの神像のせいだろうか。

布袋様 桃太郎と倭迹迹日百襲媛
高松駅から琴平電鉄一宮駅が最寄り駅だ。

金刀比羅宮 

讃岐国はと言えば金比羅さんでしょう。歌に芝居に浪曲に、この宮ほど人気がある神社はあまりない。私はこの宮が讃岐の一之宮だとばかり思っていた。祭神は大物主命と崇神天皇だ。水運の神様だと思っていたが、祭神はあまり関係ないなあ。

象頭山頂に鎮座し、本殿までは785段、奥社までは1368段の石段を登る。登れども登れども続く石段に、本殿までたどり着くのは至難の業だ。74才の私にはかなりきつい修行であった。
どこまで続く石段ぞ
旭社
神仏分離前の松尾寺の金堂で、銅瓦葺二層入母屋造。社屋全体に彫刻を施し、大変堂々とした殿舎で、あまりの見事さに、森の石松は本殿と間違えて、この旭社に代参の刀を奉納して帰ってしまったという。

拝殿
ようやくたどり着いた本殿。檜皮葺で、四方に破風を上げた大社造り。不思議な躍動感がある。 
   
本殿 

神仏分離令が出る明治までは、典型的な神仏習合の神で、仏教の金毘羅大物主神が混合したものらしい。大物主神が海の彼方から波間を照らして現れた故事により、古代から海上交通の神として尊崇されてきた。 



白峰寺

崇徳上皇
は第75代の帝で、鳥羽天皇の第一皇子、母は藤原璋子。保元元年(1156)7月、保元の乱の敗戦により、讃岐へ流される。長寛2年(1164)8月26日、46才で崩御。白峰で荼毘に付され、その地に埋葬された。 
 白峰寺護摩堂
 白峰寺本堂
 頓証寺
崇徳上皇の霊を鎮魂する寺で、扁額は第100代後小松天皇の御宸筆である。殿舎は上皇が住まわれた木の丸殿を、遷したものと 伝えられている。
崇徳上皇陵 西行法師像
頓証寺に守られるように、崇徳上皇の白峰の陵がある。御陵に寄り添うように西行法師がいた。雨月物語に出てくる崇徳帝の怨霊を、西行が供養し鎮魂した話が、妙に真実味を帯びてくる。

雨月物語巻之一白峰

この里近き白峰といふ所にこそ新院の陵ありと聞きて、 拝みたてまつらばやと 十月はじめつかた、かの山に登る。
...中略....
朱をそそぎたる竜顔に、おどろの髪膝にかかるまで乱れ、 白眼を吊りあげ...略.....
さながら魔王の形、あさましくもおそろし。...略....
魔道の浅ましき有り様を見て、涙しのぶに堪えず、復び一首の歌 に随縁の心をすすめたてまつる。

よしや君 昔の玉の床とても
   かからむ後は 何にかはせん


このことばを聞こしめしてめでさせ給ふやうなりしが御面も和らぎ、陰火もやや薄く消えゆくほどについに竜体もかきけちたるごとく見えずなれば、...略...

十日あまりの月は峰に隠れて木のくれやみのあやなきに、夢路にやすらふが如し。

この話は西行の歌集「山家集」や、「源平盛衰記」にも収録されており、かなり人口に膾炙された話であった。

源平盛衰記によると、陵に詣でた西行の前に崇徳上皇が現れ、

松山や 波に流れて 来し船の やがて空しく なりにけるかな

と詠じられた。西行涙を流しての御返歌。

よしや君 昔の玉の床とても かからむ後は 何にかはせむ 

山家集には西行の歌を次のように載せている。

よしや君 昔の玉の床とても かからむ後は 何にかはせむ
刹利も 須陀も かはらぬものを


注:  刹利=貴族  須陀=奴隷


西行の恋

ところで西行は何でこんな所にまで、崇徳帝を慕ってきたのだろうか。
その秘密が
白洲正子の「西行」を読んで、ようやくわかった。

西行は俗名を
佐藤義清(のりきよ)といい、院の北面の武士であった。
先祖はムカデ退治で有名な俵藤太秀郷に遡る名門で、18才で左兵衛尉に登ったほどだから、なに不自由ない御曹司といえる。

その御曹司が23才の若さで出家してしまったのは何故か。当時も親友の突然の死に、世の無常を感じたのではとか、いろいろに言われたけれど、源平盛衰記は恋だという。それもとんでもないことに、相手は鳥羽天皇の中宮璋子(たまこ) のちの
待賢門院だというのだ。璋子は徳大寺家の姫であった。義清は徳大寺家の家人でもあったから、璋子とは主従の関係であった。

その璋子に義清は恋をした。そしてどうも想いを遂げたらしいのだ。


源平盛衰記

さても西行発心のおこりを尋ぬれば、源は恋故とぞ承る。申すも畏れある上臈女房を思い懸けまいらせたりけるを、あこぎが浦ぞと云ふ仰せを蒙りて思い切り、官位は春の夜、見果てぬ夢と思いなし、楽しみ栄えは秋の月西へとなずらへて、有為の世の契りを逃れつつ、無為の道にぞ入りにける。

この、「申すも畏れある上臈」というのが、璋子だというのである。源平盛衰記は、
西行の歌として次の歌をあげる。


思いきや 富士の高嶺にひと夜寝て 雲の上なる月を見んとは

大胆にも彼は、天皇の中宮と一夜を共にし、そのあと、その人から「あこぎが浦」とぴしゃりと袖にされてしまうのだ。しかし、彼はその夢のような一夜が忘れられず、ついに出家してしまう


あこぎが浦」は、古歌に

伊勢の海 阿漕が浦に打つ網も 度重なれば 人の知るらむ

から、その意味がわかる。


中宮と一夜を共にしたなんて、いくらなんでも、それはないんじゃないかと思われるが、西行の歌を、その想いを感じて読むと、そうかもしれないと思われてくる。

弓張りの 月に はづれて見し影の 優しかりしはいつか忘れん

面影の忘らるまじき別れかな 名残を人の月にとどめて

花に染む 心のいかで残りけむ 捨てはててきと思う我が身に

青葉さえ見れば心のとまるかな 散りにし花の名残と思えば

璋子は幼い日から白河上皇に愛され、長じて上皇の孫の鳥羽天皇の中宮にあがっても関係が切れず、上皇の子を宿してしまう。後の崇徳天皇である。鳥羽天皇にしてみれば、崇徳は祖父白河上皇の子であるから叔父であり、自分から見れば名目上は子であるから、憎しみを籠めて「叔父子」と呼んだ。崇徳に罪はないのに、、、、
後の保元の乱の原因となり、敗れた崇徳上皇は讃岐に流され、そこで憤死する。

西行にしてみれば、青春の時、浮き世を捨ててまで恋い慕った璋子の忘れ形見である。
その墓にぬかずき、彼は何を思ったのであろうか。




讃岐国地図





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