50.薩摩国  鹿児島県川内市 JR鹿児島本線川内駅 2003.09.07


私の国府物語も50番目の大台に届いた。記念すべき国は薩摩国である。薩摩国の成立はいつなのか、実はよくわかっていない。続日本紀の大宝2年(702)8月1日の条に、

「薩摩、多祢、化をへだて命にさからふ。是において兵を発し征討す。遂に戸を校し吏を置く。」

という記事が見える。薩摩と種子島が政府に逆らったので、これを鎮圧し役人を派遣したということであろうか。これを薩摩国司が任命された記事と見て、この日をもって薩摩国の成立と見る説が通説である。東北の蝦夷と同じで、熊襲と呼ばれた南九州は、最初に日向国が置かれ、次第に薩摩、大隅地方が征服され、大和朝廷の支配下に組み入れられていったのであろう。

日向、大隅、薩摩の3カ国の国府は、蝦夷と対峙していた陸奥や出羽と同じように、熊襲に備える軍事的前線基地の性格も持っていたと思われる。養老律令の職員令には、国守の役割として次のような記事がある。

「壱岐、対馬、日向、薩摩、大隅等国、惣知鎮悍、防守、及蕃客、帰化、、、」

鎮悍、防守とは中国の律令にある言葉で、砦を築き敵襲に備えるといった意味である。
常に外敵にさらされていた壱岐や対馬と同じように、南九州の3国も外敵に備えた軍事施設を設け、敵襲に備えていたことがわかる。その敵は熊襲であった。その熊襲の末裔薩摩隼人が中心になって、幕末の動乱期を主導し、勤王の軍を起こして明治維新の幕を開けたことは、歴史の皮肉と言うべきであろうか。


薩摩国府


薩摩国府は鹿児島県川内市に置かれたとされる。平安時代に、各国の国府所在地を網羅した源順(みなもとのしたごう)著「倭名類聚抄」、その後に編纂された「伊呂波字類抄」などの古辞書類に、なぜか薩摩国府だけが載せられていない。国分寺跡がこの地にあり、その近くで墨書土器などが発掘されたので、おそらくこのあたりに営まれたと推定されている。


薩摩国衙の復元模型(川内市歴史資料館)と薩摩国府推定図(鹿児島県教育委員会)

正殿と東西の脇殿からなる。前殿は無いようだから、他国に比べて規模は小さい。国府域も6町四方と推定されている。右図の東側の2町四方の張り出した部分が、薩摩国分寺跡である。

薩摩国分寺に隣接していたらしいが、まだ確とした遺構は発見されていない。国厨と読める墨書土器や、戯画が描かれた土師器などが発見されている。

天平宝字8年(764)正月、都から薩摩守として赴任した万葉歌人大伴家持も、この役所で政務を執ったのであろうか。残念なことに薩摩守時代の家持の歌は、1首も伝えられていない。


九樓守公神社(薩摩国総社?)


薩摩国総社は九樓守公神社とされる。もとは、九神社と守公神社の2社であったらしい。
祭神は九神社が甕速日神(みかはやひ)、守公神社が饒速日神(にぎはやひ)だという。
甕速日神はイザナギの神が、妻イザナミの死の原因となった迦具土神(かぐつち)を斬った時に、その血潮の中から生まれたとされる。饒速日神はニニギノミコトよりも先に大和へ降り立ち、後に神武天皇を助けて功績があったとされる神で、物部氏の祖とされる。

一之宮新田神社の摂社になっていて、一の鳥居の西側に小さく鎮座している。




薩摩国分寺跡


薩摩国分寺跡は昭和51年(1976)より環境整備が進められ、昭和60年(1985)に完成した。九州地方では最初の史跡公園であり、1万6千uの敷地は西の角が道路によって削られているものの、塔跡や金堂の跡は基壇と礎石が復元され、築地塀の復元模型も往時を偲ばせる。


薩摩国分寺の復元模型
金堂の基壇から講堂、北の築地塀を望む 伽藍配置図
中門と金堂を回廊で結び、回廊の中に塔を置く。
南北130m、東西120mの寺域は、溝と築地塀で囲まれていた。この伽藍配置は国分寺としては珍しいもので、飛鳥の川原寺の伽藍配置に類似している。


塔の基壇
一辺長が10mの基壇の上に、内径60cmの注穴を持つ心礎が置かれている。
金堂の基壇
創建以来3回建て替えられたことがわかっている。


築地塀の復元 井戸の跡



新田神社(薩摩一之宮)


薩摩一之宮は、枚聞神社(ひらききじんじゃ)とこの新田神社が相争っている。薩摩国はもともと中央との関係が浅く、延喜式に載せられた神社(式内社)はわずか2社のみで、日本で一番少ない。その2社は揖宿郡(いぶすきぐん)の枚聞神社と、出水市(いずみし)の加紫久利神社である。新田神社は延喜式はもちろん、日本書紀から三代実録にいたる六国史にも登場しない。従って社格は枚聞神社が圧倒的に高いと言える。

新田神社はかって新田八幡宮と称したように、九州に根強い八幡信仰を取り入れ、武神としての性格を持ったこと、また宮司に当たる執印に、同族の惟宗氏が任命されたことから、薩摩守護島津氏と結びついた。蒙古襲来の国難に当たって、鎌倉幕府が全国の一之宮と国分寺に蒙古調伏の祈祷を命じたが、その時、島津氏が新田八幡を一之宮として幣帛を捧げ、蒙古の役の戦勝によって、その霊験あらたかなりということで、一之宮を称するようになったという。

祭神は瓊々杵尊(ニニギノミコト)だ。後方の神亀山には、瓊々杵尊の御陵とされる可愛稜(エノミササギ)がある。天照大神天忍穂耳命を合わせ祀る。不思議なことに、八幡宮を称しているのに、応神天皇や神功皇后などのいわゆる八幡神を祀っていない。これはどうしたことだろう。謎である。


正面の鳥居と太鼓橋 勅使殿


子抱き狛犬
子供を抱いた狛犬は珍しい。
昔からこの狛犬の頭をなでると
安産がかなうという。
大楠の木
樹齢800年と推定される大樟。
根回り13.3m、高さ20m。


島津氏と国分寺と一之宮

薩摩藩主島津氏は、鎌倉初期の頃の人惟宗(これむね)忠久に始まるとされている。惟宗氏は藤原摂関家に仕え、日向国いまの宮崎県都城市にあった摂関家の荘園島津庄の荘官をつとめた。島津庄は日向から次第に拡大して、南九州一円に広がり日向、大隅、薩摩にまたがり八千町歩という日本最大級の荘園に発展した。惟宗忠久は島津忠久と名乗り、武人として勢力を蓄え、鎌倉幕府成立にともない薩摩、大隅、日向三カ国の守護に任命される。

この惟宗氏の系統から、新田八幡の長官である執印(しゅういん)職に惟宗康友が任命されている。これ以来、新田八幡の執印職は惟宗康友の子孫が世襲し、執印氏を名乗る。
新田八幡の執印であった惟宗友成は、弟重兼に執印職を譲り、自分は薩摩国分寺を束ねる留守職に就任する。この友成の子孫がやがて国分氏を名乗り、その地位を固めていく。つまり一之宮新田八幡の執印氏と、薩摩国分寺の留守職国分氏、そして薩摩藩主島津氏は同族だということである。

国分寺は聖武天皇の時代に創建されたが、時代と共に衰微し、平安時代末期になるとほとんどその活動がわからなくなる。しかし、ここ薩摩では藩主、一之宮執印、国分寺留守職が同族によって相伝されたために、相互に文書の行き来があって、膨大な資料が残された。暗闇に沈みがちな中世の国分寺の活動が、薩摩に残された古文書から、わずかに光があてられつつある。

               (この項は鹿児島大学助教授日隈正守氏の論文を参考にしました。)



薩摩国地図


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