29.摂津国 大阪市北区国分寺 JR天満駅 99.04.07


摂津国は現在の大阪市から、豊中市吹田市高槻市を経て、さらに尼崎西宮芦屋宝塚から神戸市に至る地域を含む。

阪神工業地帯として、日本経済の牽引力になっている地域である。延喜式では上国とされた。


摂津国府(渡辺の津)

摂津国は当初、摂津職という官がおかれ、律令初期には孝徳天皇の難波豊崎宮、聖武天皇の難波宮が営まれるなど、最重要の地とされていた。摂津職は延暦十二年(793)に摂津国に改編されるが、摂津国難波港は外交上の重要拠点であり、外国賓客の泊まる館が軒を並べた。その中で特に重要賓客をもてなす館を鴻臚館といった。

摂津国の国府がどこにあったのか、今となっては確たる地を明らかにすることはできない。
しかし、承和十一年(844)、難波
鴻臚館を摂津国府の政庁に転用したとの記録が残っている。
鴻臚館は渡辺の津にあったという。渡辺の津は現在の天満橋のあたりといわれる。

江戸期の淀川                        (上が南、右方が難波の海)
江戸期の淀川毛馬から大きく南に折れて、大川として海に注いでいた。
おそらく古代も同じ川筋であったろう。上の図の天満橋天神橋の間が、
八軒家の渡し場であった。古代の渡辺の津もこのあたりだったのではないだろうか。

難波の港を出て行く遣唐使船
天満橋の南詰めに立つビルに掲示して
あった。
渡辺橋
渡辺の津に橋名の所縁を持つ渡辺橋
古代の鴻臚館はこの辺にあったのだろうか。


平安中期に入り、摂関政治華やかなりし頃になると、摂津国に強い勢力を張った武将が現れる。
天元六年(983)摂津守に叙任した清和源氏源満仲である。摂津多田庄に勢力を張り、嫡子の頼光も摂津守に任じて、渡辺綱坂田公時などの四天王を従え、当時都を騒がした大江山の酒呑童子などを退治した事で有名である。

その四天王の一人渡辺綱は、嵯峨源氏の末で、ここ渡辺庄に本拠を置いていた。ここは全国に繁栄している渡辺姓の本貫地なのだ。面白いことに全国の渡辺さんの家紋は、三つ星の下に一文字のいわゆる「渡辺星」が80%を占めるという。この三つ星はオリオン座の三つ星を表したものだそうだから、摂津一之宮の住吉神社の祭神と相通ずるものがある。

渡辺星

御伽草子の中で、渡辺綱は大活躍をする。羅生門に巣くう鬼を退治に出かけ、片腕を切り落として持ち帰る。しばらくすると、摂津国渡辺庄から親類の女性が訪ねてきて、その鬼の腕を見たいという。綱が自慢げに鬼の腕を見せると、その女は突如鬼に変じて、腕をくわえて天空高く舞い上がり、いずことも無くかき消えたという。ここ渡辺庄が全国的に脚光を浴びた瞬間であった。

頼光の弟、頼信の孫が八幡太郎義家であり、以後、この家系が清和源氏の嫡流となる。


八軒家船着場跡
天満橋の昆布の老舗の店前にある。
天満橋から天神橋を望む
近代的なビルが建ち並んでいる。


八軒家の船着場
大川の向こうに見える橋が天神橋だ。


難波宮跡

孝徳天皇、聖武天皇が都とした難波宮の跡は、今の大阪城の直ぐ南にあった。
大阪市中央区法円坂1丁目に史跡公園として保存されている。

大化改新の後、皇位についた孝徳天皇はすぐに都を飛鳥から難波に移す。そして改新から8年後の白雉3年(653)9月、この地に長柄豊崎宮が完成する。

天皇とともに中大兄皇子、藤原鎌足、間人皇女など大化改新の立て役者が、ここに顔を揃えていたわけだ。

大阪歴史博物館より眺めた難波宮跡



難波京大極殿の基壇跡から大阪城を望む
大極殿の基壇は、東西41.8メートル、南北21.08メートルで、正面に
3カ所、背面に2カ所の階段があった。


大極殿 から南方を望む 大極殿 の礎石の復元

歴史博物館内に復元された大極殿
大阪歴史博物館の最上階に復元された大極殿 の内部。
朱塗りの柱と役人、官女の人形で再現されている。
この博物館は写真撮影が自由である。これは特筆すべき
事だろう。
八角殿院
時を知らせる鐘楼ではないかとされる八角殿院。
位を持つ役人は寅の刻(午前4時)に南門の外に
左右に並び、
日が昇ったら朝廷で再拝し、それから
政庁へ入った。午の刻(正午)の鐘を聞いて退庁したという。
朝廷という所以である。

難波京の模型                           (大阪歴史博物館)



摂津国分寺


摂津国分寺として現在に伝わっているのは2カ所ある。一つは国府がおかれたと推定される鴻臚館に近い北区長柄あとの一つは天王寺区にある。

長柄国分寺は、JR大阪環状線天満駅で降り、商店街を北に行って天神橋6丁目交差点を東に折れたところにある。長柄国分寺または護国山国分寺と称し真言宗の寺である。

この国分寺は659年、孝徳天皇の菩提を弔う寺院として造営された長柄寺が前身で、天平13年(741)の詔勅により、摂津国分寺とされた。

摂津国分寺山門

境内には昭和45年(1970)に起きた、地下鉄谷町線のガス爆発事故の犠牲者を悼む供養堂がある。

本堂 昭和金堂

天王寺区の国分寺は、あるにはあったが無惨である。境内をぐるりと金属の塀で囲みなんと駐車場にしてしまったらしい。何でこんなことにと腹立たしく、悲しい気持ちであった。

摂津国分寺跡の碑
奈良時代の古瓦が出土したことから
大阪市教育委員会は、この地を国分寺跡
としたいようだ。
天王寺国分寺
天王寺の国分寺を名乗る寺は、ご覧のような現状で、無惨としか言いようがない。



住吉神社(摂津国一之宮)


摂津一之宮は、住吉神社である。伊弉諾尊が黄泉国から帰って、禊ぎをされたときに産まれた、3人の神様、底筒男、中筒男、表筒男のいわゆる住吉三神を、第一本宮、第二本宮、第三本宮に祀る。さらに第四本宮に息長足姫を祀る。延喜式では名神大社、明治には官幣大社に列す。

住吉三神はオリオン座の三つ星の神格化だという説がある。たしかに東の海から登って、西の海へ沈むオリオンは、海で産まれた神にふさわしいかもしれない。住吉神社の本殿はいずれも西に向かって立っている。

息長足姫つまり神功皇后が新羅からの凱旋の途上、この地に立ち寄り鎮まったと伝えられる。

またこの宮は、柿本人麻呂の柿本神社、衣通姫の玉津島神社とともに和歌の神とされる。この宮は人ではなく、住吉の神がみずから歌を詠まれたという伝承が残されている。

我みても 久しくなれぬ住吉の 岸の姫松 いく世かえぬらむ

十一世紀に住吉神社の三十九代神主となった津守国基は、後拾遺集を始め勅撰集に20首が入集した著名な歌人である。代表作を一首。

薄墨に 書くたまずさと見ゆるかな 霞める空に 帰る雁がね

たまずさは手紙の意である。薄墨色の紙に書いた手紙に、空に連ねる雁の様を喩えている。

太鼓橋
朱塗りの欄干が美しい。
第一本殿
底筒男の神を祀る。

第三本殿(左)と第四本殿
本殿はいずれも国宝である。檜皮葺妻入りで屋根に置千木と堅魚木を備えた住吉造


摂津国地図



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