2004.10.08 幻の美女真間の手児奈の伝説(2002.08.24)
下総国庁跡 |
和洋女子大国府台キャンパス | 千葉商科大学正門 |
道路を挟んで東西に対面する和洋女子大と千葉商大。キャンパス内に下総国府の 遺構が発掘され、一躍話題に。 |
下総国の国庁は、市川市の国府台に置かれた。
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大きな溝 国衙域を区画する溝か。雨にも拘わらず 熱心に説明を聞く歴史愛好家たち。 |
掘立柱建物跡 掘立柱を建てた大きな柱坑。 国庁に関係する建物ではないかなと思われる。 |
大型の建物 松本さんが、掘立柱の図を見せながら、説明してくれた。8世紀の遺構だという。 |
発掘された埋蔵物 高級な緑柚土器や墨書土器にまじって 江戸時代のさし銭なども出土した。 |
国厨土器 国厨(くにのくりや)と書かれた土器の破片。 国府の役所跡の証拠になりそうだ。 |
千葉商科大学発掘現場 西←→東 図の12号溝、8号溝などはかなり深く、国庁域を区画した溝である可能性が強い。。 現場の北側には六所神社跡があり、その近辺が政庁跡と推定される。 (下総国府跡見学会資料より) |
下総国府想定図 上の図と対応する想定図。六所神社の東に南北に通る区画溝の推定線が 商大キャンパスの発掘現場の溝跡に重なる。西の窪地と推定されている 場所が現在の和洋女子大のキャンパスだ。国庁はスポーツセンターの 入り口のあたりだったと推定されている。 |
スポーツセンター入り口 かって早稲田の先生が、このあたりで大量の古瓦を目撃したという。 今となっては確かめようがないが、下総国庁の官衙がこのあたりに眠っている。 |
下総国戸籍 |
2012年(平成24年)、市川市史編纂歴史部会は、平等院文書から下総国の戸籍を復元し、報告書にまとめて発刊した。戸籍は6年毎に編纂されたが、この報告書では養老5年(721)の戸籍が復元されている。 下総国印が押された戸籍は、葛飾郡、倉麻郡、釬托郡の一部で、いずれも正倉院文書の断片から復元されている。このうち葛飾郡大島郷には甲和里、嶋俣里、仲村里などの里名が見える。甲和は現在の小岩、嶋俣は現在の柴又にあたるらしい。 |
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下総国大嶋郷嶋俣里の戸籍の一部 | |
現在の柴又と思われる大嶋郷嶋俣里の戸籍の一部である。よく見ると真ん中やや左に、孔王部荒馬という戸主がいて、その末の男の子の名前が刀良で、年が拾歳とある。また一番左の端には、孔王部真熊という人の家に、佐久良賣という名の長女がいて、年は貳拾玖歳と記されている。 隣同士の家なのだろうか、10才のトラちゃんと、29才のサクラさんがいたのだと思うと楽しくなる。 |
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サクラさんの戸籍 | トラちゃんの戸籍 |
戸籍を見ていくと刀良という名前は、男にも女にもつけたようで、たくさん見つかる。男は刀良だが女は刀良賣(とらめ)となっている。 孔王部はアナホベと読んで、穴穂部天皇(安康天皇)の御名代だったらしい。安康天皇は5世紀の人だから、この時代(8世紀)まで300年も経っているので、実体はほとんど無くなって、苗字になっていたのだろうと思う。刑部(おさかべ)、三枝(さえぐさ)、長谷部、磯部など現代にも良くある苗字を見つけるのも楽しい。 戸籍は同じものを3通作って、1通は国府に保管し、2通を都へ送り、1通は民部省に保管され、1通は中務省から天皇に回されたという。6年経つと新しい戸籍に差し替え、古いものは寺などに下げ渡され、裏面を写経などに使ったらしい。それが正倉院に伝わり、現在に残されたのだ。 |
下総総社跡 |
和洋学園の前の市川市立のスポーツセンター。
その一角に下総国総社(六所神社)の跡があった。「下総総社跡」の碑があるので、
其処と 知れる。木のベンチで取り囲んで、丁寧な説明板が設置されている。
六所神社跡 大きな木のふもとに六所神社跡の碑がある。 戦時中陸軍に接収されていた。 |
野球場から和洋女子大を望む 六所神社の南側は野球場だ。ここに 下総国庁がねむっていそうだなあ。 |
下総六所宮 |
下総総社は明治19年(1886)境内が陸軍に接収され、須和田の地に遷座する。
祭神は大己貴命、伊弉諾尊、素戔嗚尊(すさのうのみこと)、大宮売尊(おおみやめ)
布留之御魂、彦火瓊々杵尊(ひこほににぎのみこと)の六柱。
例大祭は十月二十日。
府中六所宮の碑 | 鳥居から本殿を望む |
六所神社本殿 | 扁額 |
下総国分寺 |
下総総社跡から20分ぐらい東へ歩くと、下総国分寺に至る。 下総国分寺は仁王門を持つなかなかの規模で、往時の威容が偲ばれる。 下総国分寺の寺料は5万束と非常に大きい。常陸国分寺の6万束に次ぐ規模である。
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香取神宮(下総一之宮) |
下総一之宮香取神宮は、国府跡とされる市川国府台から、かなり離れた香取市にある。
延喜式に伊勢神宮、鹿島神宮とともに神宮の名で載せられた格別の宮である。
祭神は経津主神(ふつぬし)。一説には鹿島神の武甕槌命(たけみかづち)の兄とも言
われる。鹿島神が陸軍神、香取神が海軍神で、軍艦香取の遺品が社蔵されている。
香取神道流上泉伊勢守信綱は、新陰流の開祖で、新陰流は弟子の柳生石舟斎により、
柳生新陰流として発展した。鹿島新当流の塚原卜伝と並ぶ超弩級の剣客である。
鳥居 参道正面に立つ。鮮やかな朱塗りの鳥居。 |
楼門 元禄13年(1700)五代将軍綱吉の造営。 |
拝殿 黒漆塗り檜皮葺。千鳥破風に唐破風を重ねた印象的な建物。 |
おまけ
手児奈霊堂 |
手児奈霊堂 | 山部赤人の歌碑 なぜか、誰も寄らないような片隅にある。 |
手児奈伝説 |
高橋虫麻呂の歌一首
さらに万葉集巻十四東歌にも
など手児奈を詠んだ歌が見える。
真間の井 ここで在りし日の手児奈が、水を汲んだので あろうか。 |
亀井院 この裏手に真間の井がある。 |
北原白秋もこの亀井院で大正五年(1916)の一時期を過ごした。彼の最も貧窮した時期であった。
米びつに 米の幽かに音するは 白玉のごと はかなかりけり
江戸の人 鈴木長頼が、万葉の古跡を後世に 伝えようと建てた石碑。 |
元禄九年(1696)の建立とわかる。 真間の井、手児奈の墓、継橋の三カ所にある。 |
真間川 手児奈が身を投げたという真間川 |
手児奈橋 真間川に架かる手児奈を記念した手児奈橋 |
真間の継ぎ橋 |
真間の継橋 手児奈霊堂の入り口近くにある。 |
下の小川の跡もきれいに整備されている。 残念ながら水は流れていない。 |
これも万葉集の東歌の部に、この継橋を詠んだ歌1首。詠み人知らず。
下総国府域推定図 (市川考古博物館資料より) |
下総国地図