2.下総国 千葉県市川市国府台 京成電鉄国府台駅 1996.10.16 2002.08.16 

                         2004.10.08  幻の美女真間の手児奈の伝説(2002.08.24)



                  
下総国は今の千葉県の北側である。市川市、船橋市、千葉市、柏市、八千代 市、
松戸市、野田市、成田市、銚子市などのほか、東京都葛飾区、江戸川区、埼玉県
三郷市、幸手市、茨城県古河市などを含む地域である。

昔は葛飾と呼ばれていたところだ。葛飾とは葛の葉が生い茂るところとでもい うのだろ
うか。万葉の時代からかなりひらけていたところらしく、万葉集にもいくつか 歌が残さ
れている。また、古代から交通の要所でもあり、この下総国の国府から北へ上 ると常陸
の国府へ、真間の継橋を渡って東へ行けば上総、安房へ通じていた。万葉の 時代に
山部赤人高橋虫麻呂がこの地を通り、くだって寛仁4年(1020)には、 更級日記
の作者が、父の上総介菅原孝標に従って上総国府から、ここを経て京へ上って いる。


下総国庁跡

和洋女子大国府台キャンパス 千葉商科大学正門
道路を挟んで東西に対面する和洋女子大千葉商大。キャンパス内に下総国府の
遺構が発掘され、一躍話題に。


下総国の国庁は、市川市の国府台に置かれた。

まだ、国庁の遺跡は発見されていないが、平成7年(1995)から始まった和洋学園国府台キャンパス内の遺跡調査で、国庁に接する道路と思われる遺構が発掘された。道路跡のほか大型の掘立建物が検出され、墨書土器や三彩小壺などが多数発掘された。

さらに、日本鹿の角や骨片などが、焼土とともにみつかり、多量の土師器や刀子などが同時に発掘されたことから、律令祭祀の中の、鬼気の進入を防ぐ境界祭祀に関わるものだろうと考えられている。

下総国庁関連遺跡発掘現場位置関係

平成16年(2004)10月8日、下総国府跡発掘現場説明会があった。前記の和洋女子大学の道路を挟んで反対側の、千葉商科大学のキャンパスの中だ。市川市教育委員会の松本氏の案内で現場を見て回った。

大きな溝
国衙域を区画する溝か。雨にも拘わらず
熱心に説明を聞く歴史愛好家たち。
掘立柱建物跡
掘立柱を建てた大きな柱坑。
国庁に関係する建物ではないかなと思われる。


大型の建物
松本さんが、掘立柱の図を見せながら、説明してくれた。8世紀の遺構だという。


発掘された埋蔵物
高級な緑柚土器や墨書土器にまじって
江戸時代のさし銭なども出土した。
国厨土器
国厨(くにのくりや)と書かれた土器の破片。
国府の役所跡の証拠になりそうだ。


千葉商科大学発掘現場                         西←→東
図の12号溝、8号溝などはかなり深く、国庁域を区画した溝である可能性が強い。。
現場の北側には六所神社跡があり、その近辺が政庁跡と推定される。
                                (下総国府跡見学会資料より)


下総国府想定図
上の図と対応する想定図。六所神社の東に南北に通る区画溝の推定線が
商大キャンパスの発掘現場の溝跡に重なる。西の窪地と推定されている
場所が現在の和洋女子大のキャンパスだ。国庁はスポーツセンターの
入り口のあたりだったと推定されている。


スポーツセンター入り口
かって早稲田の先生が、このあたりで大量の古瓦を目撃したという。
今となっては確かめようがないが、下総国庁の官衙がこのあたりに眠っている。

下総国戸籍

2012年(平成24年)、市川市史編纂歴史部会は、平等院文書から下総国の戸籍を復元し、報告書にまとめて発刊した。戸籍は6年毎に編纂されたが、この報告書では養老5年(721)の戸籍が復元されている。

下総国印が押された戸籍は、葛飾郡、倉麻郡、釬托郡の一部で、いずれも正倉院文書の断片から復元されている。このうち葛飾郡大島郷には甲和里、嶋俣里、仲村里などの里名が見える。甲和は現在の小岩、嶋俣は現在の柴又にあたるらしい。

下総国大嶋郷嶋俣里の戸籍の一部
現在の柴又と思われる大嶋郷嶋俣里の戸籍の一部である。よく見ると真ん中やや左に、孔王部荒馬という戸主がいて、その末の男の子の名前が刀良で、年が拾歳とある。また一番左の端には、孔王部真熊という人の家に、佐久良賣という名の長女がいて、年は貳拾玖歳と記されている。

隣同士の家なのだろうか、10才のトラちゃんと、29才のサクラさんがいたのだと思うと楽しくなる。

サクラさんの戸籍 トラちゃんの戸籍
戸籍を見ていくと刀良という名前は、男にも女にもつけたようで、たくさん見つかる。男は刀良だが女は刀良賣(とらめ)となっている。

孔王部はアナホベと読んで、穴穂部天皇(安康天皇)の御名代だったらしい。安康天皇は5世紀の人だから、この時代(8世紀)まで300年も経っているので、実体はほとんど無くなって、苗字になっていたのだろうと思う。刑部(おさかべ)、三枝(さえぐさ)、長谷部、磯部など現代にも良くある苗字を見つけるのも楽しい。

戸籍は同じものを3通作って、1通は国府に保管し、2通を都へ送り、1通は民部省に保管され、1通は中務省から天皇に回されたという。6年経つと新しい戸籍に差し替え、古いものは寺などに下げ渡され、裏面を写経などに使ったらしい。それが正倉院に伝わり、現在に残されたのだ。


下総総社跡


和洋学園の前の市川市立のスポーツセンター。


その一角に下総国総社(六所神社)の跡があった。「下総総社跡」の碑があるので、
其処と 知れる。木のベンチで取り囲んで、丁寧な説明板が設置されている。

六所神社跡
大きな木のふもとに六所神社跡の碑がある。
戦時中陸軍に接収されていた。
野球場から和洋女子大を望む
六所神社の南側は野球場だ。ここに
下総国庁がねむっていそうだなあ。


下総六所宮


下総総社は明治19年(1886)境内が陸軍に接収され、須和田の地に遷座する。
祭神は大己貴命、伊弉諾尊、素戔嗚尊(すさのうのみこと)、大宮売尊(おおみやめ)
布留之御魂、彦火瓊々杵尊(ひこほににぎのみこと)
の六柱。

例大祭は十月二十日。

府中六所宮の碑 鳥居から本殿を望む


六所神社本殿 扁額



下総国分寺


下総総社跡から20分ぐらい東へ歩くと、下総国分寺に至る。
下総国分寺は仁王門を持つなかなかの規模で、往時の威容が偲ばれる。

下総国分寺の寺料は5万束と非常に大きい。常陸国分寺の6万束に次ぐ規模である。


昭和四〇年(1965)から本格的発掘調査が行われ、現本堂が旧金堂の跡に建てられたことが判明した。東に金堂、西に七重塔を配し、その北奥に講堂を設ける法隆寺式伽藍配置である。しかし、軸線が左右に多少づつづれているのが気になる。


仁王門
明治24年に焼失した山門に代わり、昭和49年に天平様式で建てられた。
南大門と称する。焼失前は楼門造りの立派な門で、宝暦年間の建立だった。

仁王像
明治の火災時に焼失を免れた阿形像。
現国分寺本堂
国分山国分寺と称する真言宗豊山派の寺。

塔の礎石
本堂の前に四個の礎石が集められてある。元の位置とはまったく違っているが。

講堂跡の碑
墓地の中に礎石と思われる石が数個ある。
七重塔の碑
庫裏の裏にひっそりと建っていた。

宝相華文軒丸瓦 (下総国分寺)
            (市川市考古博物館蔵)
蓮華文軒丸瓦 (安芸国分寺)
                (安芸国分寺蔵)
下総国分寺の瓦は、宝相華文と呼ばれる独特の文様で、全国国分寺に共通する蓮華文の瓦とは際だって異質である。宝相華文は西域のデザインが、シルクロードを経て中国に伝わり、の時代に盛んに使われた。それが新羅を経て日本に伝えられた。

もとは仏像彫刻や仏画に多く用いられたが、瓦の意匠とするのは極めて珍しいことだという。
下総国分寺が宝相華文の瓦を用いたことは、この地方に新羅系帰化人の勢力が強かったことを思わせる。下総国府推定地からも新羅系と思われる土器が、多数出土しているという。



香取神宮(下総一之宮)


下総一之宮香取神宮は、国府跡とされる市川国府台から、かなり離れた香取市にある。
延喜式に伊勢神宮、鹿島神宮とともに神宮の名で載せられた格別の宮である。

祭神は経津主神(ふつぬし)。一説には鹿島神の武甕槌命(たけみかづち)の兄とも言
われる。鹿島神が陸軍神、香取神が海軍神で、軍艦香取の遺品が社蔵されている。

香取神道流上泉伊勢守信綱は、新陰流の開祖で、新陰流は弟子の柳生石舟斎により、
柳生新陰流として発展した。鹿島新当流の塚原卜伝と並ぶ超弩級の剣客である。

鳥居
参道正面に立つ。鮮やかな朱塗りの鳥居。
楼門
元禄13年(1700)五代将軍綱吉の造営。


拝殿
黒漆塗り檜皮葺。千鳥破風に唐破風を重ねた印象的な建物。

おまけ

手児奈霊堂

手児奈霊堂 山部赤人の歌碑
なぜか、誰も寄らないような片隅にある。

手児奈の霊堂である。国分寺から坂を下って15分ほど歩くと、この霊堂に至る。


手児奈伝説

真間は手児奈(てこな)伝説の地である。

昔、といっても万葉時代にすでに伝説だったのだから、相当の昔である。

手児奈という娘がここ真間に住んでいた。その美しさは都にまで評判が届くほど の美女で
あったという。万葉歌人高橋虫麻呂の長歌によると、手児奈は、粗末な麻の着物に青い襟、
ただの麻で織った裳をつけ、櫛で髪を梳かすこともなく、沓さえ履かずにいても、錦や綾絹
に包まれて大事に育てられた都の高貴な姫君より、はるかに美しかったという。

あまりの美しさ故、男たちが我がものにしようと争い、それを 嘆いて、真間川に身を投げて
死んでしまった。

また、一説によると手児奈は国造の娘で、その美貌を請わ れ、ある国の国造に嫁いだが、
親同士が不和となり、海に流されてしまった。とか、いろいろ 形を変えて伝えられている。

万葉集に手児奈をうたった歌がある。山部赤人の歌二首。

高橋虫麻呂の歌一首


さらに万葉集巻十四東歌にも

など手児奈を詠んだ歌が見える。

真間の井
ここで在りし日の手児奈が、水を汲んだので
あろうか。
亀井院
この裏手に真間の井がある。

北原白秋もこの亀井院で大正五年(1916)の一時期を過ごした。彼の最も貧窮した時期であった。

米びつに 米の幽かに音するは 白玉のごと はかなかりけり

江戸の人 鈴木長頼が、万葉の古跡を後世に
伝えようと建てた石碑。
元禄九年(1696)の建立とわかる。
真間の井、手児奈の墓、継橋の三カ所にある。


真間川
手児奈が身を投げたという真間川
手児奈橋
真間川に架かる手児奈を記念した手児奈橋


真間の継ぎ橋

真間の継橋
手児奈霊堂の入り口近くにある。
下の小川の跡もきれいに整備されている。
残念ながら水は流れていない。


万葉の名所をもうひとつ。ここは、真間の継ぎ橋の跡である。継ぎ橋というの は、昔、
入り江だったこの真間の地に、いくつかの橋を架け、橋と橋とを結んで交通し ていた
らしい。継ぎ橋というわけだ。


これも万葉集の東歌の部に、この継橋を詠んだ歌1首。詠み人知らず。

下総国府域推定図             (市川考古博物館資料より)


国府台駅から下総総社の跡をみて、国分寺を拝し、真間の手児奈の伝説を訪ね て
京成市川真間駅にいたる約半日の散歩コースである。


下総国地図




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