11.信濃国長野県上田市 JR信越線上田駅 '97.07.17  03.10.13
                                           '09.09.18

信濃国は古くは科野と呼ばれたらしい。(しな)という木が多かったことから、科野という地名が出来たといわれている。科という木は菩提樹の仲間で、かなりの巨木になる。この樹皮の繊維で古代人は織物を作った。木肌は白く柔らかで加工しやすいので、古代人にはありがたい木であった。現在でも割り箸やマッチの軸、ベニヤ板などに利用されている。

科野国とう国名は和銅6年(713)の風土記編纂を境に、信濃国に変わっていく。好字を以て地名とせよという朝廷の指示に影響されたのであろうか。

承平年間(931−938)に編纂された和名抄では、信濃国府は筑摩郡に在りとするから、今の松本市近辺だと推定される。しかし、小県(ちいさがた)の上田市の近くに国分寺跡があるし、惣社のひとつである科野大宮も存在するので、信濃国府も最初は上田市近辺におかれたのが、後に筑摩(ツカマ)の松本市近辺へ(うつ)ったとするのが学界の通説である。しかし、国府の遺構はどちらからも発見されていない。

興国5年(1344)、後醍醐天皇の皇子宗良(むねよし)親王は足利方に攻められ、信濃国伊那郡に香坂高宗を頼り大河原に拠点を構えた。文中2年(1373)まで30年にわたり北朝への抵抗戦を続け、信濃宮と呼ばれて北朝方に恐れられた。


科野大宮(信濃国総社)(2003.10.13再取材)


長野行き新幹線で上田に降りて、北に10分ほど歩くと科野大宮がある。信濃国の総社と推定されている神社だ。境内には樹齢を重ねた大木が多くあり、科野大宮の社叢として上田市の自然記念物に指定されている。

信濃国の初期国府は、ここ上田に置かれたと見ていいが、まだその遺構は発掘されていない。総社と推定されるこの神社の近くに、染屋台地と呼ばれるところがある。その台地の古里(こさと)と呼ばれるあたりが、信濃国府のあったところらしい。

科野大宮は延喜式には載っていないが、創建はかなり古く、崇神天皇の頃と伝えられている。
平将門と貞盛の天慶の戦によって、国分寺とともに社殿はいったん灰燼に帰したが、その後も朝野の尊崇を集め、室町期には十三万余坪の広大な境内を有する大社であった。

科野大宮
旧街道に面して巨木が目を引く。
拝殿
大己貴命と事代主命を祭神とする。


本殿
古い様式の一間社片流造り。崇神天皇の御代、信濃国造建五百連命が科野大国魂を
祀ったのが初めだという。


伊和神社(信濃国惣社)(2009.09.18取材)


和名抄に記された筑摩郡の信濃国府は、松本市近辺だと推定されている。松本駅の近くに国府町という交差点を見つけた。コクブと読むらしい。さらに30分ほど東に歩くと惣社という地区がある。こちらもソウザと読む。

国府(コクブ) 惣社(ソウザ)

その惣社の地に鎮座する伊和神社には様々な伝承がある。享保9年(1724)松本城主だった水野家家臣が編纂した信府統記には惣社六社大明神とあり、源頼光とその四天王に一人武者を加えた六柱を祀るとあるが、これはかなり怪しい。六社明神を無理矢理こじつけたとしか思えない。

享保年間の再興時の鳥居の額には正一位惣社岩大明神とあったといい、これが現在の社名伊和神社の由縁だろうという説がある。天正年間(1573−1591)にこの地の地頭折野薩摩守が、自分の故郷播磨国の伊和大神を勧請したのだというのだ。

いずれにしても中世以降の伝承で、この神社の創建はそれよりずっと古く、国司巡拝の便により国内の主要神社を併せ祀った古代の惣社であり、平安時代に信濃国府がこの地に営まれた歴史を、今に伝える神社であることは間違いない。

鳥居
左右二本の欅の大木に挟まれるように建つ。
拝殿
切妻妻入りの簡素な拝殿。
欅の古木
樹齢千年を超えるという。
源頼光と四天王
信府統記の伝承による社。
本殿
大己貴命を祀る。
茅葺き一間社流造の美しい社殿。小さいが趣のある建物である。


信濃国分寺(2003.10.13再取材)


信濃国分寺は僧寺と尼寺がほぼ同規模で、しかも境を接して造られた極めて珍しい例である。
昭和38年(1963)から本格的な発掘調査が実施され、僧寺、尼寺ともにほぼ全容が明らかになった。遺跡はほぼ中央をしなの鉄道が横切っているが、史跡公園として良く整備されていて、隣接して立派な資料館を併設している。

信濃国分寺の創建時期は明らかでないが、延喜式には寺料四万束とあるので、相模、伊勢などの国分寺の規模と同じである。

寺域の規模は、東西176m、南北178mで、天平尺で方100間と考えられる。


信濃国分寺・尼寺復元模型(信濃国分寺資料館蔵)
僧寺は南大門、中門、金堂、講堂を南北に配し、中門と講堂を回廊で結ぶ。七重塔は回廊の外側の東側に置くいわゆる国分寺式である。僧寺の西側に隣接した尼寺は、150m四方の寺域を持つと考えられており、僧寺の100間四方に対して80間四方とほぼ拮抗する規模であったと推定されている。


国分僧寺模型 国分尼寺模型


国分寺講堂跡
従来仁王堂と呼ばれていた地区で、
江戸時代まではここに小堂があって、
国分寺金堂跡ではないかと思われて
いた。
金堂跡
しなの鉄道によって分断されているが、
東西31m、南北22mの基壇上に、
正面24m、側面14mの金堂があった
と推定されている。


塔跡
13m四方の基壇上に、7.8m四方の
塔が建っていた。
信濃国分寺駅
しなの鉄道の上田からひとつ目の駅だ。


現国分寺

現国分寺
国分寺跡と国道を挟んで北側にある。
毎年1月8日の縁日が有名で、八日堂の
別名がある。
本堂
これは堂々とした立派な薬師堂。江戸末期
の万延元年(1860)の竣工で、
完成までに
33年の歳月を要したという。


多宝塔
これは珍しい石造の多宝塔だ。
鎌倉期のもので、多宝塔は普通木製
であって、
石造は数えるほどしかない。
三重塔(国重要文化財)
国の重要文化財、三重塔。
室町期の建立。
和唐折衷の美しい塔である。

1月8日の八日堂の縁日で、「蘇民将来」のお守りが配られるが、息災安穏と繁栄を願う護符として有名である。

蘇民将来は中国の伝承。

一晩の宿を貸した蘇民将来の親切に牛頭天王(ごずてんのう)が感心し、子々孫々まで息災と繁栄の護符を授けたという故事に因んでいる。


蘇民将来のお守り




諏訪大社(信濃一之宮)(2003.05.12)

信濃国の一之宮は、諏訪大社である。

諏訪湖を挟んで、南に上社本宮と前宮、北に下社春宮と秋宮の四宮を擁し、全国に9,000を数える諏訪神社の頂点に位置する。

祭神は
建御名方富命(タケミナカタトミノミコト)。出雲の大国主命の次男で、父の国譲りに反対して、天孫族の建御雷命(タケミカヅチノミコト)と戦って破れ、この地まで逃げてきたと、古事記に記されている。なかなか骨のある神様だ。


一之鳥居と二之御柱 本宮一之御柱
諏訪大社の天下の奇祭「御柱祭」は、7年に一度行われる。第201回御柱祭は平成10年(1998)
に斎行されたから、次回は平成16年(2004)の春である。高さ17Mのモミの巨木を16本八ヶ岳か
ら切り落とす。勇壮、壮絶な祭りである。


拝殿
諏訪大社には本殿はない。拝殿は西向きなので東に向かって礼拝するが、この奥には
何もない。諏訪大社の不思議である。
この拝殿は天保6年(1834)の建造で、付属する5棟と共に国の重要文化財である。


法華寺


諏訪大社の隣に法華禅寺がある。天正10年武田を滅ぼした織田信長が、この寺を本営として
論功行賞を行った。
明智光秀が満座の中で信長から面罵され、その時の恨みが本能寺の変
の原因とも言われる歴史的場面の舞台である。

山門
勝家、秀吉、光秀などが信長とともに
この山門をくぐったのだろうか。
吉良義周の墓
吉良義周は吉良上野介の孫である。
上杉綱憲の次男。吉良家を嗣いだが、
浅野内匠頭の事件で仕形不届として、
高島藩諏訪家に預けられ、3年後不運な
生涯をひっそりと閉じた。享年21歳。


穂高神社(信濃国三の宮)(2009.9.19)

安曇野に鎮座する穂高神社は信濃国三の宮とされるが、社格は非常に高く、延喜式では明神大社に列する。祭神穂高見命安曇族の祖とされ、元は北九州の海の民であったという。

その末裔である安曇比羅夫は、天智天皇に仕えた武将で、663年白村江の戦で戦死した。
毎年9月27日の命日には、お船祭が行われる。JR大糸線穂高駅から歩いてすぐだ。


鳥居 安曇比羅夫像
拝殿


信州そば

安曇野に広がる蕎麦畑

信州といえば蕎麦だ。蕎麦好きにはたまらない。しかし、評判と実際とはかなり違うことがあるので要注意だ。私好みの蕎麦は、二八でのど越しの良い細打ちの蕎麦だが、信州では第一に戸隠の蕎麦を挙げたい。戸隠ならどの店でも、清冽な水によってきりりとしまった蕎麦が味わえる。思わずため息が出るほどうまい。

小諸の懐古園の入口にある老舗草笛もうまい。大衆食堂のような店のたたずまいだが、想像出来ないほどの上品な蕎麦を出す。

小諸城三の門
小諸城主仙石政明は但馬の出石に
転封になったが、信州の蕎麦の味が
忘れられず、蕎麦職人を移住させた。
出石蕎麦の初めである。
草笛本店
外見は大衆食堂のような雰囲気。
しかし、ここで出される蕎麦はうまい。
地産地消にこだわり、浅間山麓に
自社専用の農場を持つ。

松本の名店浅田もいい。薬味に出される辛味大根が実にうまい。辛口のつゆと蕎麦との相性が最高なのだ。
そば処浅田 ざるそば


信濃国地図


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