53.但馬国 兵庫県城崎郡日高町 JR山陰本線江原駅 2004.01.24 04.24 06.11.18
但馬の国を語る時は、天日槍(あめのひぼこ)のことを語らなければならない。古事記、日本書紀によれば、天日槍は新羅の王子だったという。そして彼は赤い玉の化身として日本から来た女性と結婚したが、ある時、夫婦喧嘩の果てにこの女性は日本へ帰ってしまう。彼女を忘れられない天日槍は、七種(書紀)とも八種(古事記)とも言われる神宝とともに、但馬の国へ渡ってくる。そして、妻の故郷難波に向かうが、海の神に妨害されて果たせず、結局、土地の娘を娶り農耕を伝えて、但馬の開拓神として崇められる。この、天日槍を祀ったのが但馬国一之宮の出石神社である。 一之宮の祭神が異国の神であるのは、おそらく但馬一国だけではなかろうか。 さて、山陰はもともと出雲の大国主命が開いた国である。当然のことながら大国主命と激しい領土争いが起こる。播磨風土記が伝えるところによると、大国主命はここでは別名の葦原志許男(あしはらしこお)命として登場する。天日槍と葦原志許男は、勝負がつかないので、山の上から三本の矢を射て、落ちた所を支配地にしようということになった。天日槍の矢はすべて但馬に落ち、葦原志許男の矢は、養父郡と気多郡に落ちた。そこで、天日槍は但馬の出石を本拠とし、葦原志許男は養父神社と気多神社に大己貴命(おおなむちのみこと)ととして祀られたという。 |
但馬国がいつ丹波国から独立したのかははっきりしていないが、日本書紀によると、天武13年(684年)10月、諸国の境を定めるとあるので、この時に丹波国から分離したと思われる。丹波、丹後、但馬を三丹と呼ぶ。 |
但馬国府跡 |
但馬国府はどこにあったのか。延暦23年(804)に但馬国府を気多郡高田郷に移すという記録があり、この高田郷に置かれた国府は、現在の日高町祢布(にょう)に比定されている。 平成7年(1995)、日高町祢布地区で大型建物の遺構が発掘された。ヒノキの柱が規則正しく配置された建物や、四脚門を持つ築地塀、それに白磁や青磁などの高級食器が数多く出土した。この地が、延暦23年に移された第2次但馬国府であろうことは、ほぼ間違いなさそうである。 それでは初期の但馬国府はどこにあったのか、これは未だ謎に包まれている。 大量の木簡が出土した出石町の袴狭遺跡に比定する説、但馬国正税帳の記録から気多郡内にあったとする説などがあるが、はっきりした根拠が出ていない。 また、第2次但馬国府と推定される祢布遺跡の最寄り駅は、JR山陰本線の江原駅だが、そのひとつ北に国府(こくふ)という駅がある。昭和30年まで国府村という村があった。府中、府市場などの地名も残っているし、室町時代の古文書には、国府市場(こうのいちば)という記載もある。11世紀以降に祢布からさらに移転した、第3次但馬国府の名残だろうと推測されている。 |
但馬国府・国分寺館 但馬国府・国分寺館は平成16年(2004)2月に着工、平成17年(2005)3月に完成した歴史博物館である。9058u(2800坪)の敷地に1464u(440坪)の展示館と収蔵庫が建つ。ユニークな形状の展示館に入ると、但馬国府跡と推定される祢布ヶ森遺跡や、国分寺遺跡からの出土品をわかりやすく展示している。この種の遺跡博物館としては、おそらくトップクラスの充実度を誇っている。以下は但馬国府・国分寺館の展示と資料から構成している。 |
祢布ヶ森遺跡の大型建物群 上の写真は発掘された遺構から推定した大型建物の模型。下はそれらが眠っていた土地の現況。遺構はいずれも大規模な掘立柱の建物である。まだ、政庁らしき遺構は発見されていないが、上の建物群は、その大きさや柱の太さから推して、国衙の重要な役所の遺構だと考えられる。 |
祢布ヶ森遺跡 祢布ヶ森遺跡はJR江原駅から西へ5分ほど歩いたところにある。豊岡市日高支所に隣接する健康福祉センターと、その西のブリジストンタイアの敷地、国道を挟んで北側の地区から、建物の遺構、墨書土器、陶硯、木簡、漆紙文書などが大量に出土している。残念ながら政庁、脇殿、正倉などの中枢の遺構はまだ未発見であるが、日本後紀延暦23年(804)正月の条に、「気多郡高田郷に遷す」と記された、9世紀の但馬国府の遺構であることはほぼ確実である。 |
祢布ヶ森遺跡から出土した木簡 巻物の内容を表した題籤軸、荷物に付ける付札、文字を練習した習書など多様な木簡が多数出土した。題籤軸には、死亡や逃亡者を記録した死逃帳や、税や口分田の関する書類に、朝来、気多、二方、養父など但馬国の郡名が記されていて、但馬国の各郡の帳簿がここに集められていたことがわかる。この地が但馬国府であったろうと推測される証拠である。年号が記された木簡も見つかり、天長、承和、寛平と、いずれも9世紀の年号が記されていることから、前述の高田郷に遷された但馬国府であることがわかる。円山川の湿地帯にあたるため、土中の水分によって劣化が抑えられ、比較的良好な状態で出土している。 |
陶硯 陶製の硯も多数出土した。丸形の円面硯(右)、風の字に似た風字硯(中央上)、須恵器を転用した転用硯(中央下)などが大量に出てきた。中央下に置かれた鉄製の刀子は、失敗した木簡を薄く削って、新しく文字を書くときに使われた。さしずめ古代の消しゴムといったところか。 |
但馬国正税帳 正倉院に所蔵されている但馬国正税帳。天平9年(737)の但馬国の収支報告書だ。但馬国府・国分寺館の資料によれば、この年の支出は稲にして2万7千束。1束は2合(300g)、10kg4000円として、現在の金額に換算すると325万円になるという。うーん、この時代の物価がわからないから多いんだか少ないんだか、、、 |
国司の食事 上の但馬国正税帳や木簡の記述から復元した国司の食事。鮎のひしお煮、アワビのウニ和え、ナスの塩漬、ウリの粕漬、鰯とわかめの汁、蘇(チーズ)、白米、酒などとかなり贅沢だ。まあ、この国の最高位の貴族だから納得できるとは言えるが。 |
気多神社(但馬国総社) |
但馬国総社は気多神社である。前述の国争いの後に大己貴命が鎮まったとされる神社だ。 |
気多神社の鳥居 国道のすぐ傍なのだが、この宮に行く道は 非常にわかりにくい。 |
本殿 延宝5年(1677)の再建。大正時代に修復 されたが、平成になって再度修復中。 |
境内の摂社 総社として但馬国の八坂神社、須賀神社、愛宕神社など主要な神社を境内に祀ってある。 |
但馬国分寺跡 |
JR山陰線の江原駅で降りて、北へ10分ほど行くと但馬国分寺の跡へ出る。農地や民家の間に、表示板がある。普通に歩いていたのでは気がつかない。 昭和四八年(1973)から発掘調査がすすめられ、金堂、塔、中門、回廊と寺域東南の隅を区画する築地塀の遺構が見つかり、国分寺遺跡としては珍しい木簡などが出土した。 文化11年(1814)1月19日、伊能忠敬はこの地を通過した。但馬国府・国分寺館の資料から、彼の詳細な測量日記を覗いてみよう。この日の朝は雪だったが、明け方から晴れた。(現代語に改めてある) 出石領国府村:左側の国分寺旧跡田地中に柱の敷石が三つあり。左に110mほど入ったところに、式内社売布神社がある。祭神不明で神主はいない。祭日は九月九日。左側に当時国分寺という庵室がある。浄土宗宵田村にある蓮生寺の末寺という。
館長さんがコピーしてくださった伊能忠敬測量隊の行程は、実に詳細なもので、1月11日から15日間にわたって、本隊と別働隊が但馬国の測量にあたった。 |
但馬国分寺復元模型 南門、中門、金堂が南北一直線に並び、中門と金堂を回廊で囲み、その外に塔を配する典型的な国分寺様式。 (但馬国府・国分寺館蔵) |
但馬国分寺伽藍配置 | 七重塔 |
この二俣に分かれた左の道路に入ると 但馬国分寺跡の遺跡群がある。 |
中門跡 中門の跡は大根畑だ。 |
塔跡 民家の庭に塔の跡がある。 |
塔の礎石 芯楚らしいのがひとつだけあった。 |
金堂跡 | 回廊跡 |
風鐸と水煙 塔の相輪に吊り下げられた風鐸(左) 相輪の上部を飾った水煙の断片(右) ほぼ完全な形で出土した風鐸は珍しい。 風が吹くと澄んだ音がしたのでしょうか。 |
緑釉緑彩耳皿 耳の形の似ているところから耳かわらけとも呼ばれる。箸置きとして使用された。 一度素焼きをしたあとに、銅や鉛を含んだ釉を塗り、もう一度窯で焼いて作る。 |
国分寺の井戸 僧侶の食事を作る大衆院に付属していた。 瓦や土器、釣瓶、木簡などが出土した。 |
釣瓶と鎖 釣瓶は松をくりぬいて作ってある。 井戸の底から出てきた。 |
現存寺 護国山を称する浄土宗の寺 慶長元年(1648)民間人の山田屋専西が、寺地を寄進して再建した。 |
本堂 本尊薬師如来像は79Mの寄せ木造り。 平安後期の作風で町の指定文化財。 |
国分寺の礎石 但馬国分寺南大門の礎石。伊能忠敬の測量日記によると、文化11年(1814)には3個の礎石が残っていたという。 |
出石神社(但馬国一之宮) |
但馬国一之宮は出石神社である。祭神は天日槍(あめのひぼこ)。冒頭に述べたように新羅の王子だった人である。全国一之宮の中で異国の神を祀る唯一の神社である。新羅神を祀った神社は全国に58社もあるというが、一之宮にのぼったのは出石神社ただ一社である。 古事記、日本書紀にも登場するこの新羅の王子は、古事記によれば八種の神宝を携えてきたという。二種の玉、四種の比礼(ショールのようなものか)、奥津鏡、辺津鏡であるという。このために延喜式はこの神社への奉幣を八座とした。伊勢内宮でさえ三座なのにである。おかげで神社財政は極めて裕福であった。 |
出石神社 朱塗りの柱が美しい。 |
鳥居の木口 河川の改修の際、土中から出土した 当神社の鳥居の木口。平安時代のものとか。 |
拝殿 | 本殿 |
本殿 見事な流れ造りの本殿。反り返った千木が珍しい。四月というのに美しく紅葉した 紅枝垂(べにしだれ)が素晴らしかった。 |
出石町 仙石氏の城下町だった出石町は、明治になって鉄道の開通を拒否した。そのために山陰本線は、福知山を出ると江原、豊岡と大きく迂回して城崎に向かう。出石に入るには、豊岡か江原からバスで30分かかる不便なことになってしまった。逆にそのお陰で静かな城下町のたたずまいが現代に残り、観光客がたくさん訪れている。歴史の皮肉であろうか。 |
辰鼓楼(しんころう) 出石のシンボルである。時を知らせる鼓楼 であったが、明治以降は時計台として親し まれている。 |
出石そば 信州から出石に転封された仙石氏によって 伝えられた。人口1万人の町に、45軒の そば屋があるという。小皿に盛られて出て くるそばは、腰があって美味い。私は10皿 平らげたが、いくらでも食べられる美味い そばであった。 |
但馬国地図
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