2008.09.07

東京都埋蔵文化財センター
昭和55年(1980)に設立された。多摩ニュータウン開発工事で発掘された964カ所の遺跡の調査、研究、資料公開を行っている。写真撮影が自由なのも嬉しい。


多摩ニュータウン
多摩ニュータウンは、昭和40年代から開発が進められた東京のベッドタウンで、
八王子市、多摩市、町田市、稲城市を含む広大なニュータウンである。上の図で多摩川の西の淡いグリーンに色づけをしたところである。
多摩ニュータウン拡大図
上図西端の境川は、JR横浜線の相原駅の近くから橋本駅の西を町田街道に沿って流れる。南端の三沢川は、鶴川街道に沿って流れ京王線若葉台駅から京王相模原線に平行して多摩川に注ぐ。この、境川、三沢川、多摩川に囲まれた丘陵地帯に、東京のベッドタウン多摩ニュータウンが開発され、開発工事の中でおびただしい数の遺跡が発掘された。

遺跡の時代層は、旧石器時代から縄文、弥生、近世に至るまで幅広いが、特に縄文早期前期中期の遺跡群が群を抜いて多く、貴重な出土品は東京都埋蔵文化財センターに保管され、無料で一般市民に公開されている。

上図の中央を流れる乞田川の南岸、451と457遺跡の中間に、この文化センターは位置している。京王相模原線、小田急多摩線の多摩センター駅から徒歩5分の至便の地だ。


縄文早期の土器(BC8,000~BC4,000)
底が尖った尖底深鉢が主体で、撚り糸文を施したものから、細かな沈線文による装飾、さらに貝殻などでつける条痕文を施すものへと変化していく。

撚り糸文系土器

沈線文系土器


条痕文系土器


縄文前期の土器(BC4,000~3,000)
諸磯式土器と分類される土器が多数出土している。尖った底は平らになり、細い竹を割った工具で沈線文、爪形文、刺突文などを施す。深鉢の他、浅い鉢など器形の多様化もみられる。

深鉢

浅鉢 深鉢


縄文中期の土器(BC3,000~BC2,000)
中期になると器形も深鉢、浅鉢のほか、釣手土器など様々な用途に応じた土器が作られる。種類、量ともに隆盛を極める。この期の古い層からは、勝坂式と呼ばれる土器が、その上の新しい層からは、加曽利E式と呼ばれる土器が大量に出土する。

勝坂式土器
神奈川県相模原市の勝坂遺跡を標準とする土器。太い隆帯で模様をつけたり、彫刻的な模様で全体を飾る。

多様な文様
左は連続して人が手をつないでいるように見える。右はバンザイをしているのだろうか。

有孔鍔付土器
土器の縁に鍔がありそれに小さな穴が
あいている。形が太鼓のように膨らんで
いるので、上に皮を張って太鼓にしたの
だろうか。酒を造った器という説もある。
顔の付いた釣手土器
ランプの取っ手部分が人の顔に
なっている非常に珍しい土器。

加曽利E式土器
千葉県の加曽利貝塚を標識とする土器で、口縁部に渦巻き状またはS字状の文様がつけられ、胴部に縄文がつけられる。


加曽利E式土器


縄文中期の土製品(BC3,000~BC2,000)
人の形をしたもの、動物の形をしたものなどいろいろな土製品が作られた。祭に使ったのであろうか。宝飾品の種類も多くなる。

顔の付いた把手 顔の付いた把手

土偶 土器に貼り付けた顔


板状土偶

玦状耳飾り


縄文後期の土器(BC2,000~BC1,000)
後期になると、集落も出土する土器もかなり減ってしまう。寒冷期に入り海面が後退したために、多摩の台地から、より低い土地へ移動したのだろうと思われる。富士山の火山活動もこの頃から活発になった。

称名寺式土器 注口土器

深鉢 深鉢

縄文後期の人骨(BC2,000)
熟年男性の骨
身長150cm。墓場から出土。
胎児の骨
土器の中から出てきた。


縄文の森と住まい
多摩ニュータウン第57遺跡に縄文時代の住居を復元している。文化センター入り口の東側に広がる。
文化センターに隣接する遺跡庭園「縄文の村」
縄文時代に生えていたと思われるカヤ、ケヤキ、コナラ、トチ、クルミ、クリなどの樹木、ヤダケ、アケビ、ヤマユリ、エゴマなどが植えられている。
縄文前期、中期の住居も復元されている。


縄文前期の竪穴住居
大型の復元住居。縄文人がしたように、家の中の炉では防腐と防虫を兼ねて1年中火を
焚いている。しかし、夏は40度を超え、ほとんどサウナ状態だ。年中火を焚いているのは
現実的でない。夏は熾火程度にして、煮炊きは外でやっていたのであろう。


縄文中期の柄鏡形敷石住居
ちょうど柄の付いた鏡のような床面を持ち、床一面に平らな敷石を敷き詰めている。
左は復元した住居、右は発掘された遺構。


縄文紀行


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