55.丹波国  京都府船井郡八木町  JR山陰本線八木駅  2004.01.25 04.25


丹波国は現在の京都府の西北、福知山から亀岡の一帯と、兵庫県篠山市を合わせた地域である。私などは学生時代に歌ったデカンショ節の地元として記憶していた。

丹波篠山 山家の猿が 花のお江戸で 芝居する ヨーイ、ヨーイ、デッカンショ

酒は飲め飲め 茶釜で沸かせ 御神酒あがらぬ 神は無し ヨーイ、ヨーイ、デッカンショ

さて丹波国は古代、出雲族が盤踞していたという。その一部は老の坂を越えて京都に入り、北区や伏見区に出雲の地名を残した。丹波国一之宮は出雲神社である。それも、元出雲といい、大国主命は最初この地に祀られ、後に今の出雲大社に鎮まったという。

日本書紀によれば天武天皇13年(684年)、諸国の境を定めしむとあるので、この時に西北の諸郡を但馬国として分離、さらに和銅6年(713年)に北東の5郡を丹後国として分離したと思われる。


丹波国府は何処?


丹波国府はまだ発掘されていない。亀岡市千代川町拝田に比定する説と、船井郡八木町屋賀に比定する説がある。木下良氏(元國學院大教授)は拝田にあった国府が、のちに屋賀へ移転したと考え、これが現在の通説になっている。

屋賀に国府があった証拠となるのが、承安四年(1174)に大納言藤原成親後白河上皇に献上した荘園「吉富庄」を描いた絵図「丹波国吉富庄絵図」であり、その絵図の中のひときわ目立つ建物群を、「国八庁」と記してある。この「国八庁」が丹波国の国庁と考えられ、屋賀地区に比定できるのである。藤原成親は後に鹿ヶ谷事件(1177)に連座し、吉備国有木に流されそこで暗殺される。源平動乱の前夜のことであった。

「吉富庄」はもともと源義朝の所有であったが、保元・平治の乱を経て、藤原成親の手に渡り、この頃には衰微してしまった律令制の名残である国衙領をも併合して、巨大な荘園になっていた。源平動乱の後、この荘園は義朝の子頼朝の所有となった。頼朝は後にこれを京都の神護寺に寄進する。

この絵図に池上寺(ちじょうじ)という寺が国庁近くに描かれている。比叡山延暦寺の末寺だが、この寺周辺の土地をめぐって延暦寺と、京都の神護寺との間で争いが起こり、その訴訟の記録がいくつか残っている。室町期の文書であるが、地方統治の実際の様子がわかって興味深い。

池上寺は現在も池上院(ちじょういん)として法灯を守っており、平安時代の作と思われる聖観音立像や、十一面観音像を有する。池上院は天台密教の皇慶の創建と伝えられ、皇慶は肥前から丹波に至り、万寿五年(1028)に丹波守藤原章任の命により、国庁に於いて十臂毘沙門法を修したことが記録に残っている。この寺が丹波国府と密接に関わっていたことがわかる。

吉富庄絵図
中央南に国八庁がみえる。北の神吉村の東の建物が池上寺。


池上院山門 本堂
 趣のある山門。ツツジの植え込みが見事だった。 きれいに掃き清められた境内。本堂は普通の民家とあまり変わらない。

地上院は京都府南丹市八木町池上にある。南東には八木町国府という地名が残っている。さらに近くの屋賀には宗神社が鎮座する。古代の丹波国府はこの近辺にあったのだろう。

宗神社(丹波国総社?)

山陰本線に八木という小さな駅がある。そこで降りて宗神社という神社を訪ねた。屋賀という集落にある小さな神社だ。古代の丹波国総社だという説がある神社である。そこで地元の川勝さんという人に出会った。秦氏の末裔で古くからの旧家だという。川勝さんの話によれば、このあたりには国府姓を名乗る人が多いということであった。古代、この地に国府が置かれた痕跡であろうか。


宗神社鳥居 参道


舞殿 本殿


丹波国分寺跡

丹波国分寺跡はJR山陰線の亀岡駅から、北へ車で10分ほど上った所にあった。細い農道の中にあった。浄土宗の護国山国分寺として法灯を伝えるが、その山門の前に礎石群が残されている。昭和三年(1928)国指定史跡とされ、金堂跡基壇をはじめ、中門、塔、講堂などの跡が確認されている。塔を東に金堂を西に配する逆法隆寺式(法起寺式)の伽藍配置であった。

この寺は無住で、亀岡市の専念寺の管理を受けているが、おかげで周囲は電線もなく時代の面影を色濃く残している。従って、知る人ぞ知る時代劇の格好なロケ地であり、「暴れん坊将軍」
「水戸黄門」「鬼平犯科帳」などに登場している。全国の国分寺の中でも屈指のスターというわけだ。


塔跡
七重塔の可能性が高く、天平期の礎石が
ほぼ完全に残っている。
礎石
中央の芯礎は花崗岩で直径3メートル弱。


現存寺山門
このたたずまいは雰囲気がある。
鬼平や黄門様が立っても違和感がない。
薬師堂
本尊の薬師如来像は平安後期の作で
重要文化財である。



出雲大神宮(丹波国一之宮)

丹波一之宮は出雲大神宮と称する。延喜式で神宮号を許されたのは、伊勢は別格として関東の鹿島、香取、九州の筥崎、宇佐の四宮に限られ、明治になってもその格式は変わらなかった。
戦後それがフリーになったので、この宮も神宮号を称するようになった。

それというのも、島根県の出雲大社に祀られる大国主命が最初に鎮座したのがこの宮であり、和銅年間に出雲国へ遷座したという。従ってこの宮を元出雲と呼ぶというのだ。出雲大社の源なら神宮号を自称するのもうなずける。

祭神は、その大国主命と后神三穂津姫であるが、不思議なことに三殿あるうちの左右は、その二柱の夫婦神だが、中央に祀られる神が不明である。背後の御影山がそもそものご神体とされ、国常立神だという説もあるが、とにかく中央神が明確に伝わっていないのだ。

いずれにしても一之宮を出雲神としていることは、この地に出雲からの移住民が数多く住み着いた証拠でもあろう。

現在の本殿は足利尊氏造営による三間流造、国の重要文化財である。


出雲大神宮 舞殿


拝殿 本殿


丹波国地図



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