53.丹後国  京都府宮津市府中  北近畿鉄道天橋立駅 2004.01.25


丹後国は古代、大和朝廷から独立した王国だったという説がある。

一之宮籠神社の宮司を世襲する海部(あまべ)氏に伝わる系図が、古代の丹後王国の存在を物語っているというのだ。海部氏系図は国宝に指定されている貴重な古文書である。
瓊々杵尊(ににぎのみこと)が、高千穂峰に降臨するより早く、近畿地方(大和説と丹波説がある)に降臨したという彦火明命(ひこほあかりのみこと)を祖とする海部氏三十二代の系図で、丹後国庁の公認印が押してある公式文書である。

彦火明命は古事記には瓊々杵尊の兄神として登場する。とすると、この命も天照大神の孫ということになり、しかも、この丹後の地に降臨して国を作ったと言うからには、大和朝廷と同格の王国であったというわけだ。

彦火明命は、また、別名を饒速日命(にぎはやひのみこと)といい、物部氏尾張氏の祖と言われている。このために物部系の王国が先に丹波や大和に勢力を築き、それを天皇家が侵略したか、連合したかして大和朝廷が成立したという説が、かなり有力になってきている。
続日本紀によると、丹後国は和銅5年(712年)4月、丹波国から加佐、与謝、中、竹野、熊野の5郡を割いて設立された。


丹後国府はどこか
2004年1月、雪に埋もれた天橋立に降り立った。

北近畿鉄道の天橋立駅から、橋立の向かい側に渡ると、府中という集落に着く。ここには一之宮である籠神社国分寺などがあって、古代の政治、文化の中心がここにあったことは確実で、府中という地名から想像しても、丹後国府がこの地に営まれたことは間違いなかろう。

籠神社と国分寺の間からは、墨書土器や木簡、硯などの遺物が出土しており、国府の存在を裏付けている。しかし、肝心の国庁建物の遺構が未発見であり、国庁域の確定には至っていない。


丹後郷土資料館にあった国庁推定図


飯役神社
ひっそりと鎮座している。
飯役と書かれた掲額
印鑰(いんやく)の転じたものだろうか。
印は国の印、鑰は正倉の鍵のこと。

丹後国分寺跡


丹後国分寺跡は雪に覆われていた。
寺域は東西、南北ともに152Mの正方形。礎石や出土瓦は創建期のモノではなく、後醍醐天皇の綸旨によって建武元年(1334)に再建された当時のモノであるという。

延喜式の寺料は2万束とあるから、かなり余裕があったと思われる。


郷土資料館から見た丹後国分寺跡。
左(東)が金堂跡、右(西)が塔跡。海の向こうに天橋立が見える。


金堂跡 金堂跡の礎石
 
間口五間、奥行四間の規模であった。35個の礎石が残っている。


塔跡
塔跡の礎石
雪舟の描いた国宝『天橋立図』には五重塔として描かれている。 16個の礎石が残っていた。中には火災の跡をとどめるモノもある。


現国分寺
真言宗の寺として法灯を守っている。
本堂
寺宝の「建武再興縁起」には、当時の
建物の図面が残されている。


(この)神社(丹後一之宮)


籠神社本殿 唯一神明造

すっきりしたたたずまいのお宮で、伊勢神宮を
思わせる清浄な雰囲気の神社だ。

主祭神は彦火明命。
相殿に天照大神、豊受大神を祀る。

(この)神社は元伊勢と呼ばれ、第10代崇神天皇の御代に、天照大神を大和国笠縫宮からこの地へ遷し、さらに伊勢に遷宮したといわれている。

社宝の籠名神社祝部海部直等之氏系図(このみょうじんしゃはふりべあまべのあたいらのうじけいず)は国宝である。

さらに宮司家に伝えられた息津鏡(おきつかがみ)邊津鏡(へつかがみ)は2千年以上も前のもので、伝世鏡としては最古のものである。天照大神が彦火明命に授けたものと伝えられており、皇室に伝わる神器鏡の原型ではないかとされる。


鳥居から拝殿を望む 拝殿


天照大神を祀る摂社 内宮元宮の碑


吽形の狛犬と立派な犬小屋 阿形の狛犬

籠神社の狛犬は鎌倉時代の作とされ、日本最古の狛犬である。普通、屋外に置かれる狛犬は、江戸期以降に限られるが、鎌倉期までさかのぼる像は非常に珍しい。屋外の狛犬としては唯一の国の重要文化財でもある。近年、立派な犬小屋が建てられた。

夜な夜な天橋立に出歩いて旅人を驚かせたので、岩見重太郎に右足を斬られたという。その傷跡が残っている。


丹後国地図



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