17.遠江国 静岡県磐田市  JR東海道線磐田駅   '98.04.25 '07.07.06



遠江国は琵琶湖の近つ淡海(近江)に対して、浜名湖の遠つ淡海(遠江)
国名の由来である。その浜名湖、今日は曇り空でどんよりと淋しそうだ。





遠江国府はどこか?

遠江の国府は、まだここだという確とした地点がない。
ただ、源平盛衰記の巻第27に


「先陣は菊川、後陣は橋本の宿、見附の国府に著く。」

とあり、また阿仏尼の十六夜日記にも、


「今宵は遠江のみつけのこうといふところにとどまる。
里あれてものおそろし。かたはらに水の井あり。

たれか来て見附の里ときくからに
       いとど旅寝ぞそらおそろしき」

と書く。さらに、謡曲「舞車」にも


「是は遠江の国見附の国府の者にて候。」

とあって、見附地域に国府があったことは間違いなかろうと
思われる。ただ、最近国分寺の南、現在の磐田駅の南の
御殿・二之宮遺跡から、木簡や墨書土器が出土し、国府趾と
いう説も出ている。しかし、東海道からかなり南に位置するので
若干無理があるかなあと思う。あるいは国府が移転したか。

見附に国府があったとすれば、この辺だろうと言われているのが
この磐田北小学校の校庭である。



遠江国総社(淡海国玉神社)

総社は国府と違ってはっきりしている。
淡海国玉神社がそれである。
主神は大国主命。延喜式内社の格式を誇る。


鳥居と見附学校
淡海国玉神社は見附学校の隣だ。
見附学校は明治8年に建てられた小学校で
最古の木造洋風建築の学校である。
拝殿
鳥居から石段を登ると、拝殿に出る。
向拝付きの入母屋造り。文久年間の
建築である。


拝殿、幣殿、本殿
拝殿、幣殿は明治直前の文久年間のものだが、三間社流造の本殿は、明暦年間の建物だというから、17世紀の中頃のものだ。


遠江国分寺


総社を南にくだり、西へ2筋ほど入ると、磐田市役所がある。市役所の裏が遠江国分寺趾である。初めてだと少しわかりにくい。

遠江国分寺の遺構発掘は、諸国の国分寺の史跡指定に画期的な転換をもたらした。
大正10年(1921)に文化財保存法による最初の指定を受けたのは、下野、相模、美濃、播磨、出雲、石見、伊予、大隅の八カ国の国分寺跡であったが、そのころの指定は伽藍中心で、伊予国分寺跡は塔跡のわずか86uしか指定されていない。昭和に入ってから指定された飛騨国分寺にいたっては、たった30uという小面積であった。

昭和26年(1951)に実施された遠江国分寺の発掘調査は、市営住宅の建設計画がもちあがっての緊急の発掘調査であったが、金堂、中門、それを結ぶ回廊など予想以上に良好な遺構が発見され、翌年特別史跡として寺域全体が指定され、民有地の公有化が図られることになった。この後、諸国の国分寺の遺構は伽藍とそれを含む寺域全体を指定するようになったのである。


遠江国分寺伽藍配置
寺域の規模は東西、南北とも180Mと
推定される。

南大門、中門、金堂、講堂が南北に並び
金堂と中門は回廊で結ばれていた。
典型的な国分寺式伽藍配置である。
特別史跡指定による土地買収計画 磐田市教育委員会資料より


七重塔跡
回廊の西に塔があった。
国分寺の権威を示す七重の塔である。
塔の規模は9.6M四方で、高さは66Mと推定されている。
心礎
塔跡の中央に残っている心礎。


金堂跡
間口7間(24.8M)、奥行4間(15.7M)、基壇は間口33M、奥行き22M、高さ約1Mで、
正面に7段の石段が見つかっている。

参慶山国分寺
現在の国分寺は、薬師堂として残っている。
遠江48カ所の薬師札所の、第一番でもある。
浄水石
境内に置かれた手洗い石。
国分寺の礎石を流用したらしい。


遠江国の地図

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