48.対馬嶋 長崎県下県郡厳原町  2003.07.13


対馬に初めて訪れたのは、2003年7月12日のことであった。梅雨前線が活発化していて、福岡空港から対馬へ向けて飛び立ったエアーニッポン147便は、対馬空港へいったんは着陸態勢を取りながら、視界不良で福岡空港へ引き返した。空港からタクシーで博多港へ、博多港から高速ジェットフォイルで、対馬の厳原港へ着いたのはすでに午後6時をまわっていた。前途多難を思わせる旅の始まりであった。

対馬は日本の曙とともに歴史に登場する。晋の歴史家陳寿(233−297)が書いた三国志のひとつ、魏志東夷伝に載せられた倭人伝、いわゆる魏志倭人伝に倭国の最初の地として登場するのだ。

倭国は帯方の東南大海の中にあり。山島に依りて国邑をなす。旧百余国。漢の時、朝見する者あり。今、使訳通ずる所三十国。

郡より倭に至るには、海岸にしたがって水行し、韓国をへて、あるいは南し、あるいは東し、その北岸狗邪韓国に至る七千余里。初めて一海を渡る千余里。
対馬国に至る。その大官を卑狗(ひこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。居るところ絶島。方四百里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径のごとし。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、舟に乗りて南北に市糴(してき)す。

魏志倭人伝原文 (岩波文庫中国正史日本伝より)

この日、私はタクシーで和多都美神社まで走ったが、片道50キロほどの道は、海の国と言うより山国と言った方がよいような山道ばかりで、まさに山険しく、深林多しの感ひとしおであった。運転手も対馬は山国ですよと言っていた。

司馬遼太郎の「街道を行く」で、対馬のタクシーは暴走族なみだと書かれてあったから、覚悟していたが、おとなしい模範運転で、これは、司馬さんの指摘がだいぶ薬になったようだと、ひとりで笑ってしまった。


対馬国府

和名抄などの古辞書類によれば、対馬国府は下県郡に在るとされる。対馬国府は現在の厳原町役場付近と推定されている。明治までの厳原の旧地名は府中であり、国分寺跡とされる金石城跡も近い。現在まで発掘調査はなされておらず、遺構や遺物の発見はない。

国府跡推定地(厳原町役場) ここで、国防の最前線を指揮したのであろうか。


対馬国分寺跡(金石城跡)

対馬嶋分寺は斉衡二年(855)に講師を置くとの記録があるが、ほとんど資料が伝わっていない。
寛平六年(894)に新羅から海賊船が来襲し、嶋分寺の僧面均が活躍して、これを防いだとの伝承がわずかに残っているのみである。

室町時代末期の文明十二年(1480)、対馬の領主宗家十代目宗貞国が宗家菩提寺として再興し、対馬国分寺と称するようになった。

昭和二十四年(1949)、この再興された国分寺跡の発掘が行われ、多数の古瓦が出土した。現町民体育館の下に僧坊が、運動場に金堂や講堂が埋まっているものと思われる。その国分寺の跡に建てられた第十四代宗将盛の金石城は、それから百五十年間この地にあった。現在はこの金石城の発掘調査が盛んに行われていて、その下に眠っている国分寺は忘れられているかのようである。

対馬国分寺跡
向こうの運動場の下に金堂が眠っている。
金石城跡の発掘現場
本格的に発掘が続けられている。


現国分寺

天徳山国分寺と称する曹洞宗の寺で、宗氏十四代将盛が金石城を作るに当たって、国分寺を当地へ移した。文化四年(1807)将軍家斉の襲職を賀す朝鮮通信使の聘礼式(へいれいしき)が、対馬府中で行われることになった。そのための客館が対馬国分寺とされ、客殿とともに現在も残る四脚門が新築された。

しかし、家斉の将軍宣下は天明七年(1787)であり、それから20年もた経ってからの賀使というのはおかしい。慶長12年(1607)に国交が回復してからは、朝鮮通信使が訪日すると対馬藩の案内で、美々しく江戸まで道中する習わしであったのに、対馬で聘礼式を行うというのも異例である。どうもこの頃から、朝鮮と幕府の間がぎくしゃくしていたらしい。

朝鮮通信使行列絵巻(対馬民俗資料館資料)
雨森芳洲のこと

雨森芳洲は木下順庵の門下で、幕府の中枢にいた新井白石と30年来の同門であった。師の推挽を受けて対馬藩に書記として奉職し、朝鮮外交の第一線に立った。対馬府中で聘礼式が行われる百年前のことである。

幕府の新井白石は華美に流れていた朝鮮外交を、改革し簡素化しようとしていた。当時は朝鮮通信使の接遇は勅使の接遇よりも、重かったのである。白石の改革方針は当然と言えば当然である。

しかし、第一線の対馬藩と、直接の応対に当たる雨森芳洲にとって、それはかなり辛いものであった。芳洲と白石は激しく対立するが、次第に幕府と朝鮮とは溝が深まっていった。

しかし、芳洲は誠心誠意朝鮮使節を接遇し、友情を育んだ。困難極まる外交の第一線にあって、芳洲の人となりは、朝鮮使節の心にも深くしみこんだものと思われる。88歳で対馬に没した。


国分寺山門 対馬随一の四脚門とされる


国分寺本堂 新築なった本堂


和多都美神社(対馬一之宮)


対馬は古代、日本の先進地域であった。先進国の中国や朝鮮の文化は、必ずこの対馬を通って大和へ伝えられた。対馬を根拠とする海女族は、古代の政治に大きな影響力を持っていた。その証拠が日本書紀、古事記が伝える海幸彦、山幸彦の物語である。戦前は誰でも知っていた神話だが、いまは、どうだろうか。


海幸彦、山幸彦の物語。

天照大神の孫、瓊々杵命(ににぎのみこと)の子供に、火照命(ほでり)、火遠理命(ほおり)という兄弟が居た。兄は海で魚をとって暮らし、弟は山で獣を追って暮らしていたので、兄は海幸彦、弟は山幸彦と呼ばれた。ある時、山幸彦は嫌がる海幸彦から、無理矢理釣り針を借りて、海の魚を釣ろうとするが、一匹も釣れずに大事な釣り針をなくしてしまう。兄はどんなに弟が詫びても許さず、元の釣り針を返せと言う。

困り果てた山幸彦が海岸でしょんぼりしていると、塩土翁(しおつちのおきな)がいぶかって、「どうして日の皇子が泣きたもうか?」と訊くので、山幸彦がわけを話すと、翁は舟を与えて、「これに乗っていけば、魚鱗(いろこ)の宮に着く。そこはわたつみの神の宮で、きっと力になってくれる。」と言う。

舟は無事にわたつみの神の宮に着く。そこで出会った海神の娘、豊玉姫と結婚する。なくした釣り針も、鯛の喉から見つかる。3年後、わたつみの神の支援を受けて、山幸彦は本土に攻め上り、兄の海幸彦を服従させる。この山幸彦と豊玉姫の子供が、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)で、神武天皇の父になる人である。

これが、記紀に書かれた神話のエッセンスだ。そして、魚鱗(いろこ)の宮というのが、対馬一之宮の和多都美神社である。この神社のさらに北方に海神神社があり、一之宮はこちらだという説が多いが、海に浸かった二つの鳥居は、山幸彦と豊玉姫が今にも海からあがってきそうな雰囲気で、私はこちらが一之宮と信じたい。

和多都美神社


海に向かって続く鳥居 今にも豊玉姫があがってきそうだ


高速船ジェットフォイル「VENUS]号

帰りも雨が激しいので、飛行機をあきらめて船にしようと厳原港へ来てみたら、なんと船も満席だという。しかたがないので、キャンセル待ちに望みをつなぐこととして、3時間半港の待合室で待機した。その甲斐あって何とか滑り込んだが、散々な対馬探訪であった。これもまたいい思い出になるであろう。


対馬嶋地図



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