30.山城国 京都府乙訓郡大山崎町 JR東海道線山崎駅 99.04.23
東京への帰還がかなった99年4月の好日、かって同じ職場にいた姫たちと京都に遊んだ。姫の名は秋田敬子さん、大室淑江さんである。いつも一人旅のこのシリーズも今回はちと華やかである。 |
山城国府( |
山城国の国府は何度か移転したらしいが、倭名類聚抄によると山城国府は河陽離宮とあるから、今回は長岡京の南にある大山崎町の、河陽離宮の跡とされる離宮八幡を訪ねてみた。 ここは嵯峨天皇の河陽離宮があったところで、後年、山城国の国府をここに移した。国府はやがて他地に移ったが、この地は貞観元年(859)清和天皇の勅命で、宇佐八幡を勧請した。以来、離宮八幡または山崎八幡と呼ばれている。 |
この宮は油の宮として有名である。貞観年間というから9世紀の半ばだが、ここ山崎で荏胡麻から油を絞る技術が考案され、瞬く間に全国に広がった。 「宵ごとに都へ出づる油売 更けてのみ見る山崎の月」 と歌われたように、ここから全国へ油商人が出かけていったのである。 後に油の専売権をもち、この山崎八幡の許可なしでは油の売買はできなかった。 今の境内からはとても往年の隆盛は想像できないが、江戸時代までは大変な権威であった。 毎年4月3日の日使頭祭(ひのとうさい)は、室町時代には50隻の船が淀川を渡る華麗な祭典で、京都賀茂神社の葵花をかざす祭りを北祭と呼んだのに対して、油長者が藤花をかざすここの祭を、南祭と呼ぶほど豪華を極めたものであったらしい。 |
長岡京跡 |
長岡京は桓武天皇が京都に都を移す前に、奈良から遷都した都である。 離宮八幡の近くの阪急電鉄大山崎駅から、京都に向かい西向日駅で下車、小さな町を北にたどると、住宅地の中に長岡京跡はあった。 延暦3年(784)11月11日に、突貫工事の最中、桓武天皇は、ここ長岡京に遷都した。造長岡京使に任命された中納言藤原種継は、昼夜兼行の工事を続けていた。 |
遷都から1年後の延暦4年(785)、工事の采配をとっていた藤原種継は、突如暗殺される。首謀者は皇太弟早良親王とされ、大伴家持をはじめとする大伴一族が連座、無実を訴え続けた早良親王は、抗議のため食を絶ち、配所への途次に息絶える。 この血なまぐさい事件の舞台が、ここ長岡京であった。 |
山城国分寺跡(恭仁京跡) |
翌24日(土)は、山城国分寺の跡を探しに、JR奈良線で加茂に向かった。あいにくの雨だったが、加茂駅からのタクシーの運転手が親切で助かった。 国分寺の跡へ行ってほしいというと、国分寺は知らないが恭仁京の跡ならわかるという。とりあえずそこへ行こうということで、恭仁京の跡へ訪れた。 |
山城国分寺は恭仁京の跡を利用して造られた。従って、ここは恭仁京跡でもあり、山城国分寺跡でもあるわけだ。続日本紀の天平18年(746)に恭仁京大極殿を施入し、国分寺と為すとの記事が見える。 国分寺金堂とされた恭仁京の大極殿は、基壇の東西53メートル、南北28メートル。建物は9間、4間の大きなものであった。 下の写真は唯一残る薬師堂。同行の姫たちにもご登場願った。 左が大室さん、右が秋田さんである。 |
金堂の跡より少し離れて、七重塔の跡があった。礎石は17個中15個が残っている。 |
恭仁京 |
恭仁京は聖武天皇が都としたところである。天平12年(740)に藤原広嗣の乱が起きると、天皇は不可解な彷徨を始める。伊勢、不破、近江を転々とした後、ここ恭仁京を定め、右大臣橘諸兄に命じて京の造営を行い、天平13年(741)遷都した。しかし、3年後にはまた難波京に遷都している。わずか3年間の都であった。 万葉集にある恭仁京を詠んだ歌を、いくつか紹介しておこう。恭仁京は久邇京とも書いたらしい。 万葉集 巻の第六 三日の原(みかのはら) 布當(ふたぎ)の野邉を清みこそ 大宮處 定めけらしも 山高く川の瀬清し百代まで 神(かむ)しみ行かむ 大宮處(おおみやどころ) 泉川 ゆく瀬の水の絶えばこそ 大宮處 遷ろひ往かめ 三香の原 久邇の京(みやこ)は荒れにけり 大宮人の遷ろひぬれば 泉川は現在の木津川である。いずれも詠み人知らず。 この地は瓶の原(みかのはら)と呼ばれ、風光明媚な場所であった。 新古今集の中納言兼輔の次の歌は、百人一首にも採られた名歌である。 みかの原 わきて流るるいづみ河 いつ見きとてか恋しかるらむ |
海住山寺 |
山城国一之宮( |
山城国一之宮はふたつだ。通称上賀茂神社と下鴨神社である。正式には賀茂別雷神社、賀茂御祖神社という。延喜式は二つでワンセットとし、祭礼も二社同時だが、宗教法人としては別個の法人格を持つ。世襲の神職を出す社家は、上宮が191家、下宮が57家もあるという。数が多すぎて本家筋が絞れない。明治維新で社格の高い神社の宮司家は男爵に叙せられたが、賀茂家はついに華族に列することがなかった。 なぜ、上宮が賀茂で下宮が鴨なのかはわからないが、京都を南北に流れる賀茂川も、下鴨神社を過ぎると鴨川と呼び名が変わる。 |
賀茂別雷神社(上賀茂神社) |
祭神は 定められてから、伊勢の斎宮とともに未婚の皇女が卜定された。 |
|
上賀茂神社の大鳥居 この大鳥居から奥に見える二ノ鳥居まで 広い馬場になっていて、五月五日には 競馬会神事が行われる。 |
朱塗りの楼門 前にかかる玉橋とともに、朱塗りの姿が 美しい。 |
細殿前に盛られた立砂 この三角錐に盛られた白砂は、一種の |
上賀茂神社拝殿 この奥に本殿と いずれも国宝である。 |
賀茂御祖神社(下鴨神社) |
祭神は 姫が鴨川で身を清めていたところ、上流から丹塗りの矢が流れてきた。矢は、美しい男神となって姫と結ばれ、生まれた子が、上宮の祭神 従ってこの宮を 3万9千坪の境内は、糺の森と呼ばれる鬱蒼たる森で、 |
|
下鴨神社楼門 | 舞殿 |
中門から拝殿を望む この拝殿の奥に、東西の本殿が並ぶ。 本殿はいずれも国宝である。 |
本殿前になぜか言社と呼ばれる出雲神の社が七社鎮座する。それぞれ十二支の生まれ年の守り神とされる。 |
賀茂の祭礼 |
上宮、下宮で行われる祭礼は、5月15日を中心に行われる葵祭が一番の盛儀だ。 十二単や衣冠束帯に正装した官人官女が、御所から下宮、上宮へ参向する。 小川に流し、祈願者の一切の罪障が清められるという。 風そよぐ 奈良の小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける 藤原家隆のこの歌は、この夏越祓を詠んだものだ。私の得意札のひとつであった。 |
|
下鴨神社の前は鬱蒼とした森で、 やはり現場を歩くと、新しい驚きを発見する。 上宮の奈良の小川と、この宮に流れていたらしい奈良の小川は、繋がっていたのだろうか、新しい興味がわいてきた。 |
|
奈良の小川の遺構 江戸時代までは清流が流れていたらしい。 2001年から発掘調査が行われている。 |