34.大和国 奈良県高市郡高取町 近鉄壷阪山駅 2000.03.30 2007.03.20


大和国は現在の奈良県にほぼ重なる。日本国家発祥の地と言っても良いであろう。卑弥呼ひみこの邪馬台国はまだ論争が続いており、その位置は固まっていないが、実在が明らかだとされる崇神すじん天皇の、磯城瑞籬宮しきみずかきのみやから飛鳥を経て、藤原京、平城京と4世紀から8世紀にかけての古代日本国やまとのくにの都が営まれた地である。


日本書紀に景行天皇の歌として
やまとは 国のまほらま たたなづく青垣 山こもれる やまとしうるはし

古事記には日本武尊の歌として
やまとは 国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる やまとしうるはし

いずれもふる里の大和国を偲んだ歌として、載せられている。

まほらま真秀まほあちとかこちといった場所を表す接尾語が付き、さらにが重ねられて、最も素晴らしい所という意味であろうか。大和をこよなく愛した飛鳥人の心が伝わってくる。

大和三山

万葉集巻1に中大兄皇子の有名な歌が載る。
香具山は 畝傍うねびしと 耳梨みみなしと 相争あいあらそいき 神代より かくにあるらし
いにしえも しかににあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき


藤原京の跡に立つと、この歌に詠われた大和三山の優美な姿を眺めることが出来る。
耳成山
醍醐池から眺めた耳成山。富士を小さくしたような端正な姿だ。わずか139Mの低い山だが、満々と水をたたえた池を従えて、その存在感は群を抜く。

この地にかずら児という美少女がいた。三人の男に想いをかけられ、悩んだ末に耳成の池に身を投げて死ぬ。残された男が歌を詠んだ。万葉集巻16。
耳無しの 池し恨めし 吾妹子わぎもこが 来つつかずかば 水はれなむ


香具山
香具山は藤原京の東に位置する。耳成、畝傍の両山が平野の中にすっくと立つのと違って、香具山はなだらかに横たわるような姿だ。古来、神の天下る山として尊崇され、三山のうちでは、最も多くの歌に詠まれている。高さは148M。

万葉集巻1持統天皇
春過ぎて 夏きたるらし 白妙の 衣乾したり 天の香具山

万葉集巻10柿本人麻呂
ひさかたの 天の香具山 この夕べ 霞たなびく 春立つらしも


畝傍山
標高199M。大和三山の中では最も標高が高い。山麓には神武天皇の畝傍御陵がある。

大和国府

その大和、残念ながら国府の所在は未だ不明である。ただ、和名抄をはじめ古文書には国府在高市郡とあるので、現在の高取町土佐の国府神社付近と推定する説が有力である。

高市郡は天武天皇の第一王子高市皇子と関係があるのだろうか。近くの高松塚古墳の被葬者は、高市皇子だとする説もある。古くから坂上氏の勢力地であり、征夷大将軍坂上田村麻呂の軍征を、後方から支えた地であった。

国府神社(大和総社?)

近鉄吉野線壷阪山駅で降りて、国道沿いに南に10分ほど歩くと、左側に小高い丘がある。国府神社である。古文書の言う大和国府の所在地であろうか。あるいは大和総社であろうか。

民家の間にひっそりとあった。やまとしうるはしと詠われた飛鳥地方から少し南に位置する。


国府神社の碑 本殿

大和国分寺(2000年3月、2007年3月取材)

壷坂から奈良へ向かう近鉄の窓から、何気なく外を眺めていたら、大和国分寺という表示が目に飛び込んできた。驚いてホームに飛び降りた。大和八木の駅であった。大和には総国分寺として東大寺があるので、独立した国分寺は無いと思っていたし、いろんな文献にも書かれていない。びっくりした。とにかく降りて探してみたら、それは民家と寺の間に割り込むようにして建っていた。確かに大和国分寺との石碑がある。しかし、門が閉まっていて中に入れない。

7年後の平成9年(2007)に再度大和国分寺を訪ねた。見覚えがある門はあったが、あの時確かにあった大屋根が見えない。傍らの掲示板に陳謝出火とあって、どうも火災で堂宇は焼失したらしい。

2000年に撮影した国分寺 2007年の国分寺


大和国分寺の碑 陳謝出火の掲示


鐘楼
本堂は焼失してあとかもないが、わずかに小さな鐘楼だけが残っていた。


藤原京跡

藤原京は持統4年(690)に着工、持統8年(694)に完成した日本最初の本格的宮都である。南北907M、東西926Mの広大な広がりをもち、朱雀門、朝堂院、大極殿、内裏が立ち並ぶ壮麗な宮であった。

持統8年(694)12月から和銅3年(710)3月までの16年間、持統、文武、元明三代の都であった。

特別史跡
昭和10年(1935)日本古文化研究所が発掘を始め、昭和43年(1968)には歴史的風土特別保存地区に指定されている。
朱雀大路跡
朱雀門から南に延びる朱雀大路。昭和51年(1976)から発掘調査が行われ、幅19mで両側に4mの溝を伴う大路跡が姿を現した。


藤原宮
藤原宮は大和三山にすっぽり囲まれるように造られた。日本最初の条坊都市である。
                                      (橿原市藤原京資料室資料)

大極殿跡
少し小高く大極殿の基壇が残っている。正面45m、側面21m、9間×4間の瓦葺き4面廂付き建物で、高さは基壇も含めると25mを超えると推定されている。左の山は耳成山。


橿原市藤原宮資料室
農協の建物に間借りしていた。
万葉歌碑
万葉集の大家、犬養孝先生の書。


平城宮跡                   2007.03.20

あおによし 奈良の都は 咲く花の 匂ふが如く いま盛りなり
和銅3年(710)3月、元明天皇は藤原京から平城京へ都を移した。現在の近鉄西大寺駅と法華寺の間に、朱雀門、朝堂、大極殿、内裏を配する広大な平城宮が営まれた。元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳、光仁の七代74年間の都であった。もっともこの間、恭仁、紫香楽、難波などへ一時遷都はしたが、古代律令制が最も華麗に花開いた時代の、華やかな都であった。

朱雀門
朱雀門が復元されている。正面25m、側面10m、高さ21m。


大極殿立面図 朱雀門立面図
                  (奈良文化研究所平城宮跡資料館)


築地塀
当時の宮内省を囲む築地塀の復元。
立派な瓦葺きの建造物だ。
大極殿復元現場
第二次大極殿が復元される。
正面44m、側面19m、高さ25mの壮大な建物が、姿を現す日も近い。


第一次大極殿跡
平城宮の中心、儀式の場であった大極殿は和銅3年(710)から天平12年(740)頃までは朱雀門の真北にあった。後に東に移り内裏の南に建て替えられた。
写真は第一次大極殿跡から真南に朱雀門を望む。

第二次大極殿跡
第2次大極殿は内裏の南に建てられた。
現在ここで復元建物の工事が始まっている。
写真は第2次大極殿跡から、北に内裏の跡を望む

平城京遷都1300年祭
2010年は平城京に遷都されてから1300年。記念行事が華やかに行われた。私も家族3人で久しぶりの古都を満喫した。
復元された第2次大極殿            2010.08.23

ライトアップされた大極殿           2010.08.25

平城宮配置図
和銅3年から天平12年までの第一次平城宮と天平12年以降の第二次平城宮。
                                 (奈良文化研究所平城宮跡資料館)


猿の絵を描いた土器
長屋王邸跡から大量の木簡と共に出土した。
羊頭型硯
この形の硯は、たしか三河国府跡からも出土していたな。

奈良文化研究所平城宮跡資料館
写真撮影がOKなのは嬉しい。
説明員
熱心に説明していただいた吉村庄司さん


平城宮の案内板



古代の都の変遷
これはわかりやすい図だ。平安京に落ち着くまでに、都が転々としたことがよくわかる。

  奈良国立文化財研究所刊「平城宮跡」より


法華寺(総国分尼寺)

平城宮のすぐ東に法華寺がある。
全国の国分尼寺の総本山である。
光明皇后の屋敷跡で、国宝の11面観音を祀る。
この日は御開帳の日で運良く観音様をお参りできた。
法華寺山門 法華寺本堂
慶長6年(1601)に豊臣秀頼と淀君が、片桐且元を奉行として再建したもので桃山建築の代表例である。

東大寺(総国分寺)

こちらはご存知の東大寺。全国の国分寺の総本山だ。大仏殿である金堂は、奈良時代の創建から2回火災で焼失している。現在の建物は宝永6年(1709)のもので、高さと奥行きは当時のままだが、東西は当初の6割に縮小されている。正面57.5M、奥行き50.5M、高さ49.1mは、それでも世界最大の木造建築である。

大仏殿
大仏開眼のあと大仏殿の建築が始まり、天平宝字2年(758)に完成した。
治承4年(1180)源平の戦乱の初期に、源氏に与する南都の勢力を破らんと、左近衛権中将平重衡によって火をかけられ焼失した。重源大和尚の勧進によって再興、建久6年(1195)後鳥羽天皇源頼朝北条政子などが臨席して落慶法要が営まれた。
永禄10年(1567)松永久秀の兵火により焼失、戦国の世とあって荒れるがままに放置された。江戸時代に入り、公慶上人の勧進によって、ようやく宝永6年(1709)140年ぶりに再建された。


金銅八角灯籠
大仏殿の前に建つ。国宝である。数少ない創建当初からの遺構なのだ。
音声菩薩おんじょうぼさつの透かし彫り
息をのむように美しい。

紅葉と大仏殿

盧舎那仏
本尊廬遮那仏は,たびたびの火災で焼損、現在の像は頭部が江戸、両手は桃山、肩と背、胸が室町、腰が鎌倉期のものとされている。天平期のものは蓮華座の大部分と、胸の一部、腹、膝前、袖などに残っている。像の高さは14.7m。
天平勝宝4年(752)に完成、4月にはインドの僧 菩提僊那を導師として大仏開眼会が聖武上皇、光明皇后、孝謙天皇揃って行幸の上、盛大に執行された。


大神おおみわ神社(大和国一ノ宮)

大和国の延喜式内社は268座。全国最多である。その中で一ノ宮に崇められる宮は、大神おおみわ神社。
日本書紀崇神天皇七年の条に、次のような記事がある。

この夜の夢に、ひとりの貴人有り。殿戸みあかりのほとりむかいひ立ちて、みずから大物主神と名のりて曰わく、「天皇、またな憂へましそ。国の治らざるは、是、吾が意ぞ。もし吾が児大田田根子おおたたねこを以て、吾を祀りたまはば、たちどころにたいらぎなむ。また、海外わたのほかの国有りて、自らに帰服まうしたがひなむ」とのたまふ。、中略
冬十二月の丙申の朔乙卯に、天皇、大田田根子を以て、大神おおみわのかみを祭らしむ。この日に、活日いくひ自から神酒を挙げて、天皇にたてまつる。よりて歌詠みして曰わく、

この神酒みきは、我が神酒みきならず やまと成す 大物主の みし神酒 幾久いくひさ 幾久


大神おおみわ神社の起源説話である。大物主神は出雲の大国主神と同一神だというから、大和朝廷に国譲りして敗れたはずの出雲神を、こともあろうにお膝元の大和国一ノ宮として尊崇するとは、古代人の不思議な心理だ。何か裏があるのかしら。上記の説話から、この神は酒の神として、酒造業界が大スポンサーである。造り酒屋の軒下につるす杉玉は、この宮で授与される。

大神神社鳥居 独特な鳥居


拝殿
この宮には本殿がない。三輪山それ自体が神だからだ。ヤマトトヒモモソ姫に夜な夜な通う蛇体の神でもある。拝殿前の台上には、蛇が好む鶏卵が供えてあった。


若宮神社
大田田根子を祀る。
本殿

大和南部地図

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