45.筑前国  福岡県太宰府市  西鉄大牟田線都府楼前駅 03.05.25

万葉集筑紫歌壇 金印の謎

筑前国は古代きわめて重要な国であった。天智天皇が663年白村江で唐の大軍に惨敗したあと、ここ筑前国は国土防衛の最前線として、にわかに急を告げる。前線司令部として太宰府が置かれ、防衛線には水城が築かれ、九州各地の兵の他、東国からは防人が徴されて、唐・新羅連合軍の来襲に備えた。

太宰府は緊張関係が解けた後も、九州全域の政治の中心として、「遠の朝廷(とうのみかど」として栄えることになる。


太宰府政庁跡

西鉄大牟田線の都府楼前という名の駅で降りる。有名な太宰府天満宮は西鉄太宰府線太宰府駅から参道になっていて、大変ににぎやかだが、肝心の太宰府跡そのものは、訪れるひと数も少なく、ゆったりと眠っている。国分寺観世音寺学業院跡にも近く、史跡公園として整備されているので、万葉の昔を偲びながら散策するにはもってこいの場所だ。

太宰府政庁復元模型
             (都府楼第27号より)


政庁跡の碑
太宰府政庁跡に3本の石碑が建っている。中央は
明治4年乙金村の庄屋高原善七郎が自費で建立。
右は幕末の碩学亀井南冥の碑文を載せる。左は
御笠郡有志の発起で建てられ、有栖川宮熾仁親王の
篆額を掲げる。
正殿跡から南門を望む
天平の昔、大伴旅人が太宰帥として、
この景色を眺めたのであろうか。


正殿は7間×4間の4面庇建物で、
間口28.5m、奥行13.0m。


回廊東より南門を望む
大君の遠の朝廷とあり通ふ
    島門を見れば神代し思ほゆ   柿本人麻呂


やすみしし我が大君のおす国は
    倭(やまと)もここも同じとぞ思う
 太宰帥大伴旅人
資料館にあった礎石
境界溝の真上に建っている資料館の中に
掘り出された玉石溝が保存されている。
その中に出土した時と同じ状態で、礎石の
一つが残されていた。柱を乗せた丸い形が
よく確認できる。

太宰府政庁周辺復元図      (横田賢次郎氏作成) 政庁の変遷               (九州歴史資料館)
1期7世紀後半   2期8世紀初〜10世紀中   3期10世紀中〜11世紀中


悲劇の丞相 菅原道真

昌泰四年(900)右大臣従二位菅原道真は、大宰権帥として左遷される。専権の心があり、上皇を欺き惑わして、天子の廃立を企てたという理由であった。宇多上皇の懸命な取りなし、道真本人の必死の弁明もむなしく、二月一日道真は罪人として都を追われる。

東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花
        あるじ無しとて 春な忘れそ


大宰権師とは名ばかりの官名で、実際は罪人として配所に流されたのであった。
配所で詠んだ漢詩のうちの一つ、菅家後集に収められた「不出門」には、太宰府の配所での道真の哀しみが歌われている。

一従謫落就柴荊   ひとたび謫落(たくらく)せられて、柴荊(さいけい)に就きてより
萬死兢々跼蹐情   
萬死兢々(きょうきょう)たり 跼蹐(きょくせき)の情(こころ)
都府楼纔看瓦色   都府楼はわずかに瓦の色を看(み)
観音寺只聴鐘声   観音寺は只 鐘の声を聴く
中懐好逐孤雲去   中懐(ちゅうかい)は好く 孤雲を逐(お)いて去り
外物相逢満月迎   外物は満月に相ひ逢ふて迎ふ
此地雖身無検繋
   此の地は、身に検繋(けんけい)無しといえども
何為寸歩出門行   何すれぞ寸歩も門を出でて行かん

(注) 謫落(左遷)  柴荊(あばら屋)  兢々(おそれおののく)  跼蹐(身も縮まる)
    都府楼(太宰府の政庁)  中懐(こころ)  検繋(しばるもの)

菅原道真は失意の内に太宰府で死去した。延喜3年(903)時に道真59歳であった。道真の憤懣は怨霊となって、流罪を命じた醍醐天皇と、左大臣藤原時平に祟り続けた。醍醐天皇の皇子は次々に病死し、左大臣時平の子孫も絶えた。延長元年(923)にはたまりかねて、道真の官位を従二位右大臣に復し名誉を回復したが、怨霊はおさまらず、延長8年(930)には、ついに御所の清涼殿に落雷。民部卿藤原清貫がその落雷に当たって死亡。道真の怨霊のしわざだと、宮廷は恐れおののいた。993年にはついに正一位太政大臣を贈られる。さらに北野天満宮太宰府天満宮に祀られ、朝廷の篤い尊崇を受けることになる。

菅原道真を祀る太宰府天満宮
反橋 楼門

太宰府天満宮拝殿


筑前国府跡?(水城小学校)


筑前国府は太宰府の陰に隠れて、はなはだ影が薄い。いまだに、どこに置かれていたのかはっきりしないのである。ただ、いくつか候補地はあって、その一つ、遠賀軍団印が発掘された水城小学校付近という説が有力である。延喜式に筑前国府は、太宰府から1日の行程にあるとあるので、少し近すぎる気はするが。

唐・新羅連合軍の侵攻に備えて、九州の成年男子を徴集した兵士と、東国から派遣された防人と呼ばれた兵士が6軍団に分れて配置された。1軍団には1000人の兵士が組織されていた。筑前国には4軍団がおかれたが、そのうち遠賀軍団は、ここ水城小学校の近くに、御笠軍団が国分寺の近くに置かれ、厳しい訓練を受けていた。筑前国府が近くにあって、そういう軍団を指揮監督していたと考えられる。


遠賀軍団印出土の碑
太宰府市立水城小学校の校庭にある。
軍団印は銅印で、近くから出土した御笠軍団印と共に
東京の国立博物館に収蔵されている。
軍団印出土の記念碑
左の碑の並びに立派なレリーフが施された
記念碑が建っている。


筑前国分寺跡

筑前国分寺跡は大正十一年(1922)十月に国史跡に指定されている。
昭和三十五年(1960)から数次にわたり発掘調査が行われ、寺域は東西186メートル、南北150メートル。中門と金堂を回廊でつなぎ、回廊の中に塔を建てる大官大寺式の伽藍であった。出土瓦は創建期は平城宮形式が使われ、付近から窯跡も発見されている。

延喜式に載っている寺料は3万束と大きいが、創建期の記録はない。


現国分寺
現在の国分寺は真言宗の寺。
本堂が古代の国分寺の金堂の上に建っている。
塔跡から現存寺を望む
現存寺の東側に、七重塔の礎石群がある。
10世紀末には塔の姿は消えていたらしい。

講堂跡の基壇
現存寺の北に広がる。
基壇は瓦積みの化粧基壇で、塔跡と同じである。
復元された七重の塔
ふれあい資料館の庭にある。往時の10分の1の大きさで、
六千万円の費用がかかったとか。高さ5.2メートル。


観世音寺


観世音寺は天智天皇の発願によって、創建された。百済救済のための外征の途次、筑紫の地で亡くなった母帝斉明天皇の追善の寺である。発願は天智帝ではあったが、堂塔の完成は70年後の天平十八年(746)のことであった。

養老七年(723)に、造観世音寺別当として西下してきた沙弥満誓は、太宰帥大伴旅人、筑前守山上憶良などの協力を得て工事を促進し、天平十八年(746)僧玄ムのもとに落慶供養が行われた。

天平宝字五年(761)には、西国の授戒の道場として戒壇院が設けられる。東大寺、下野薬師寺とともに、日本三戒壇のひとつとして隆盛を極める。


観世音寺戒壇院
創建当時の面影を残す。江戸時代に再建され
今では観世音寺から独立した禅寺になっている。
戒壇院の扁額
沙弥満誓が建設に携わり、玄ムが落成供養を行い、
吉備真備が大宰大弐としてバックアップした観世音寺。
空海も唐からの帰途立ち寄ったという。


観世音寺本堂
江戸時代黒田家により再建された。
日本最古の鐘(国宝)
文武天皇二年(698)の鋳造と言われているので、
京都妙心寺の鐘とともに日本最古の梵鐘である


馬頭観音像(重要文化財)
藤原末期大治年間(1126〜1130)の造立
阿弥陀如来と四天王像(重要文化財)
定朝様式の寄せ木造りの阿弥陀如来と、
一木彫りの四天王像。


筥崎宮(筑前一之宮)


筑前国の一之宮は筥崎宮である。神功皇后が応神天皇をお産みあそばした際の臍の緒を、筥に納めてこの地に納め、松を植えられた故事に基づく。玄界灘に面して、この朱の鳥居が立つ。ここから延々と参道が続く。

八幡神を祀る。筥崎八幡とも呼ばれる。神格は高く、延喜式で名神大社、宇佐、石清水と並んで日本三大八幡宮の一つに数えられる。


玄界灘に面して建つ朱の鳥居


楼門 拝殿


伏敵門
楼門には敵国降伏の額が懸かる。この楼門を伏敵門と呼ぶ由縁である。
元寇の際に亀山上皇が敵国降伏を祈願されたことに因む。


花庭園
参道の脇に花庭園がある。牡丹、百合などの花が丹精込めて育てられている。
6月に訪れた時は、大型の百合の花と競うように、梅ナデシコが可憐な花を咲かせていた。


アジサイ苑
本殿の裏にアジサイ苑がある。6月のアジサイの季節には、
3500株もの見事なアジサイが咲き乱れる。


外国人の巫女さん
留学生だろうか白人の巫女さんが居た。伏敵門という物騒な掲額がある反面、花庭園やアジサイ苑
そして、こんな美人の巫女さんとそろって、優しい神様でもあるようだ。




筑前国地図


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