下毛野朝臣古麻呂は下毛野国造の一族で、大宝元年(701)に制定された大宝律令の編者の
ひとりである。地方豪族の出身でありながら、藤原不比等の信任篤く、正四位下にのぼり、兵部卿、
式部卿を歴任した。東大寺、観世音寺と並ぶ三戒壇のひとつが下野薬師寺に設置されたのも、
古麻呂の中央政界における政治力の影響であろうか。
その下野薬師寺に前法王太政大臣禅師道鏡が、位階をことごとく剥奪され、この寺の別当として
左遷されてきた。宝亀元年(770)八月のことであった。一介の修行僧から位人臣を極め、天皇位
まで狙った怪僧道鏡も、2年後の宝亀三年(772)四月失意のうちに、その波乱の生涯をこの地で
閉じた。
| 下野国庁跡(2003.01.03再取材) |
下野国府跡の発掘調査は、昭和五一年(1976)から五八年(1983)まで栃木県教育委員会により
実施された。それにより古代の下野国庁が、ほぼその全貌を現し、昭和五四年(1979)には国指定
史跡に指定された。
下野国庁は8世紀前半から10世紀前半の間に、4期の変遷が認められる。
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| T期 8世紀前半から中頃まで(奈良時代前期) 掘立柱建物で屋根は板又は檜皮で葺いた。 政庁の区画は約90M四方。 U期 8世紀末まで(奈良時代後期) ほぼT期建物を踏襲。前殿が1棟となり 前殿、脇殿は瓦葺きとなる。 |
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| V期 9世紀初めから中頃(平安時代初期) 主要殿舎が礎石建物となり、周囲を区画する 施設は掘立柱の板塀から築地塀に変わる。 W期 9世紀後半から10世紀初め(平安時代前期) 前殿が無くなり、脇殿は再び掘立柱建物になる。 |
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| 史跡公園になった下野国庁跡 | 南門から復元された前殿を望む |
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| 復元された前殿 U期の前殿を復元した。 東西24.9M南北8.3M高さ6.3M。 |
檜造り。 八葉複弁蓮華文の軒丸瓦、三重弧文の 軒平瓦、鬼瓦は出土品により復元した。 |
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| 正殿があったと推定される宮野辺神社境内 | 脇殿跡は藤棚になっている |
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| 正殿が眠る宮野辺神社 | 古風な習俗を残す祭儀の説明板 氏子組織や神前の直会など民俗学的に 貴重だという。 |
国庁域は約90メートル四方で、築地で囲まれ、南正面からは幅9メートルの朱雀大路が延びて、
その左右に官衙や国司館が立ち並んでいた。しかし、京のように整然とした碁盤目状の街路は
認められない。役所や倉庫などは、政庁周辺に分散して存在していた。
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| 下野国庁の推定図 (岩波書店「古代の役所」より) |
史跡の北側に立派な資料館がある。
| 下野国総社(大神神社) |
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| 拝殿 | 本殿 |
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| 参道 | 神楽殿 |
室の八嶋
また、俳聖松尾芭蕉も元禄2年(1689)にこの地を訪れ、
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| 室の八嶋 池の中に八つ島があるらしいが、今は 草木が生い茂っていて見えない。 |
芭蕉の句碑 糸遊の句碑。 |
| 下野国分寺跡(2003.01.03取材) |
思川というすてきな名前の川を渡ると、下都賀郡に入る。国分寺の跡は川を渡るとすぐである。
延喜式の寺料は4万束。大正10年(1921)国指定史跡に指定された。
寺院地の規模は東西413M、南北457Mであったことが確認されている。
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| 下野国分寺の伽藍配置 南大門、中門、金堂、講堂を南北に配し、 中門、金堂を回廊で結び、東南に塔を 配する典型的な国分寺様式。 |
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| 史跡公園として整備される計画とか | 南大門跡から金堂方向を望む |
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| 中門跡の発掘現場 | シートからのぞいていた古瓦? |
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| 金堂跡 | 講堂跡 |
| 下野薬師寺跡(2003.01.03取材) |
天平宝字五年(761)筑紫観世音寺、下野薬師寺に戒壇を設ける。戒壇とは僧侶の資格
を認定する機関で、東大寺とともに三戒壇と呼ばれる。東国の僧侶は皆ここ下野薬師寺で、
戒律を受けなければならなかったのである。従ってその寺格は際だって高く、
続日本紀によると、嘉祥元年(848)に下野国司はその上申書の中で、
「体制巍々として、あたかも七大寺の如く、資材また巨多なり。」とその偉容を誇っている。
| 道鏡幻夢 和泉国弓削の里(今の八尾市)に生まれた道鏡は、東大寺に入り修行を積んだ。 聖武天皇の第一皇女阿倍内親王は、女性として初めて皇太子となった。女帝はこれ までにも例がないわけではない。推古、皇極、持統、元明、元正帝は女帝である。 しかし、いずれも適任者が居ない時の代役としての登極で、皇太子ではなかった。 天平勝宝元年(749)聖武天皇は譲位し、阿倍内親王は孝謙天皇となる。 天平宝字二年(758)淳仁天皇即位。彼女は孝謙上皇となる。 天平宝字五年(761)孝謙上皇は近江国保良宮に、静養に向かわれた。気鬱の病 を癒すためだった。上皇の従兄弟にあたる太政大臣藤原仲麻呂(恵美押勝)は近江 国守を兼ねていたし、保良宮に別邸もあった。琵琶湖を望む景勝の地であったらし い。 孝謙上皇は淳仁天皇に譲位されてから5年、45歳になられていた。保良宮に移ら れても、上皇の病はいっこうに快方に向かわない。東大寺から看病禅師が迎えられ た。それが道鏡であった。道鏡はこの時おそらく50歳ぐらいと思われる。 上皇の病間に招かれた道鏡は、まず心を鎮める香を焚き、静かに読経を始めた。 道鏡の声は低く、しかし澄んだ声で朗々と響き、上皇はしばし恍惚の時を過ごした。 おそれながらと道鏡は床を滑って上皇に近づくと、その玉体を柔らかく撫でさすっ た。上皇はうっとりと身をゆだねられる。10月のけだるい時間が流れていった。 孝謙上皇は道鏡を愛した。彼が小僧都から大臣禅師に登るまでに1年とかからなか った。権力の危機を感じた太政大臣藤原仲麻呂と淳仁天皇は、上皇を諫めた。 しかし、逆に仲麻呂は退けられ、乱を起こして自滅する。天平宝字六年(764) のことであった。淳仁天皇も廃され、上皇は再び位につき称徳天皇となる。 翌年、道鏡は太政大臣禅師、翌天平神護二年(766)には法王にまで登りつめる。 3年後神護景雲三年(769)運命の宇佐神宮神託事件が起こる。道鏡を天皇にし ようという、日本の歴史始まって以来、まさに前代未聞の大事件であった。 翌宝亀元年(770)八月称徳天皇が53歳の若さで崩御。即時道鏡は造下野薬師 寺別当として、流罪同然に左遷される。2年後の宝亀三年(772)四月道鏡は失 意のうちに、この地で死去。一介の修行僧道鏡が一天万乗の君孝謙上皇に会ってか ら、九年間の夢まぼろしのような月日であった。 |
孝謙上皇・弓削道鏡の名誉回復
(道鏡は、上記のような女犯戒を犯した僧ではなかったという最近の学説を、河内国に載せました。)
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| 下野薬師寺跡 国指定史跡だ。 |
下野薬師寺の伽藍配置 |
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| 安国寺境内にあった薬師寺の礎石 | 薬師寺塔跡 |
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| 薬師寺戒壇跡に建つ六角堂 鑑真和上の画像を納めた厨子と 不動明王、韋駄天像などが安置 されている。 |
江戸後期の建物 礎石、柱、屋根まで全て正六角形という 珍しい建物。 |
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| 講堂の発掘現場 建物は間口33.6M 奥行き15M。 奈良薬師寺の講堂とほぼ同規模である。 |
復元された回廊建物と回廊跡 |
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| 現安国寺山門 足利尊氏が全国に安国寺を作るに当たり 下野国分寺をそれに当て、改称させた。 薬師寺金堂はこのあたりに眠っている。 |
安国寺本堂 元亀元年(1570)小田原北条氏の戦火に より焼失。現在は真言宗の寺で薬師如来を 本尊とする。 |
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| 薬師寺八幡社 薬師寺の境内にあったと思われる。 貞観十七年(875)京都石清水八幡を 勧請したという。 |
金精様 八幡宮の東側の小さな祠に祀られている。 左が八幡神の、右が道鏡の金精だという。 うーん、、、、、 |
| 二荒山神社(下野国一之宮) |
この神社はフタアラヤマとお呼びする。日光にあるもう一つの二荒山神社は、フタラサンだ。
日光の方は仏僧によって開かれ、輪王寺、東照宮とセットで隆盛を極めるが、こちらは一度
指定された国幣中社を、日光側の異議によって県社に引き下ろされた苦い過去を持つ。
10年後に国幣中社に復活するが、その故か日光の同名の神社との違いに固執する。
祭神は崇神天皇の皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)。国造下毛野氏の祖神である。
一方の日光の神社は、出雲神大己貴命(おおなむちのみこと)をはじめとする三柱の神を、
二荒山大神として祀る。延喜式には下野国河内郡二荒山神社として、名神大社に列するが、
それがいずれの神社を指しているのか確定していない。
さて、こちらの二荒山神社は、宇都宮市の市名の由来となっている。なぜ宇都宮か諸説ある。
最初、現在も下社がある荒尾崎に祀られ、次いで今の社がある臼が峰に遷座したという。
臼の宮が宇都宮となったという説が、私は一番納得できる。このほか、一之宮が東北なまりで
とか、移った宮だからだとか、現(うつつ)の宮からだとか、いろいろ云われている。
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| 拝殿 | 本殿 |
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| 女体神社 | 鳥居と石段 |
| 宇都宮名物餃子 |
宇都宮といえば餃子だ。2004年6月11日清水和親氏の案内で、二荒山神社近くのスーパー
の地下にある「来らっせ」という店に入った。この店では市内の有名店の餃子を注文できる。
居ながらにして餃子名店巡りが出来る便利な店だ。
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| 宇都宮餃子「来らっせ」 長崎屋の地下にある。 清水氏も満足の様子。 |
7種の餃子 市内の有名店の餃子。 それぞれの特徴があって美味しい。 |
| 下野国地図 |
