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このページは八重子のファンが、彼女の写真を持ち寄って作っています。
                                 
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music data by Mr.Jesty
石原八重子は、銀座のクラブ「ラ・チィーカ」のオーナーママである。八重子の魅力は、銀座の夜に生きながら、全くそれを感じさせない、ごくごく普通の女に見えるところであろう。化粧っ気も無いし、この世界にありがちなケバケバしさが無い。近所のスーパーで買い物をしている普段着の主婦が、何気なくそこにいるといった風情なのである。   

そのくせ、なぜか男心を捉えて離さない魅力が、八重子にはある。

彼女のアルバムを繰りながら、その謎に迫ってみたい。

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子供の頃の八重子は、人見知りの激しい泣き虫だったそうである。今の彼女からは想像も出来ないが、でも、ちょっとした時に見せる不安そうな頼りなさそうな仕草が、無意識に男の本能をくすぐるのかもしれない。我が手で守ってやりたくなるというわけだ。

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八重子の瞳はよく語る。その瞳に万感の想いを籠める。そんな目で見つめられたら、男はもう何もかもなげうって、のめり込んでしまうのだ。ところが八重子本人は、そのことに全く気がついていないから、夢中になった男はたまらない。勝手に自分で想像して、恋心をつのらすのだが、逆に八重子の方はケロッとしていて、男はそのギャップの大きさに翻弄される。

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泣き虫だった八重子が、東京へ出て銀座の「アンアン」に勤めて、はじめて、彼女の天性が花開く。当時最先端のミニクラブで、一躍ナンバーワンに躍り出る。八重子はこの時まだ21才。八重子自身も気付いていなかった天性が、あっという間に開花した。                  

すぐに同じ銀座のミニクラブ「シャイ」のママとして引き抜かれる。「シャイ」は彼女によって全盛を極める。いつも超満員であった。そんな得意絶頂の時でも、彼女は、けっして素人っぽい可憐さを失わなかった。             

この頃、彼女のファンのひとりが、与謝野晶子の歌をもじって、こんな歌を贈る。

八重子 はたち 櫛に流るる黒髪の おごれる春の 美しきかな

ストレートヘアがよく似合う、匂いたつような八重子であった。

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24才で八重子は赤坂に自前の店を持つ。「オロ」という店名はスペイン語だ。スペイン語で黄金という意味である。とにかくお金がほしかったと八重子は言う。当時、カラオケというものはこの世に無かった。「オロ」はギターの伴奏で、客に歌を歌わせた。これが大ヒットした。連日、わんさと客が詰めかけた。八重子はまだ「シャイ」のママでもあったから、銀座が終わってから、「オロ」にまわる。

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八重子のファンは大変だった。八重子が「オロ」に顔を出すのは、午前0時をまわってからだ。「オロ」はそれからが本番だ。閉店が3時、4時になるのは毎度のことだった。「青い山脈」、「瀬戸の花嫁」、「黒の舟歌」、「高校3年生」などが、その頃の「オロ」の定番だった。目の回るような忙しさだったけれど、八重子も客も精一杯楽しんだ。                                   
あの頃は本当に楽しかったと、彼女は遠い目をして懐かしむ。

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「オロ」を開店した翌年、今度は、虎ノ門の森ビルの中に喫茶店「ルビー」を開く。ここで彼女は、はじめて郷里の父親に報告する。父親がそれを喜んで、「あの泣き虫の八重子が、店を持ったんだ。」と知人に自慢したという話を聞いた。

いつも叱られてばかりで、恐いだけだった父が、急に身近になって泣いてしまったと八重子は言う。八重子25才の春であった。

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この年八重子は、オロにいたココという女の子とパリ旅行をする。二谷英明と白川由美夫妻の主催するツアーに参加したのだ。                          
子供好きの彼女は、モンマルトルのレストランに居合わせたドイツ人の家族と、すぐに仲良しになってしまった。                                   
多忙を極めた青春の時、つかの間の憩いだったのかもしれない。

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翌年、「(株)産栄総合企画」を設立。企業家として歩み始める。

父親がこの年亡くなり、2年前には母親を亡くす。家族に甘えることの少なかった八重子だが、両親の死はさすがにこたえた。でも、寂しさに八重子は耐えた。 

運命の神に逆らうように、昭和51年には、練馬区富士見台に建て売り住宅を購入する。この辺も並のママ族とはひと味違う。普通は通勤の便を考えて、都心のマンションにするものだが、どうしても庭のある1戸建てがほしかったのだ。花が好きな彼女は、どんなに狭くても土が必要なのだ。

夜の生活が長くなっても、けっして初々しさを失わない彼女の秘密が、こんな所にあるのかも知れない。57年には、もう少し広い庭がとれる練馬区土支田に移り、平成8年8月に、トヨタホームに改築。休日は花との生活に明け暮れる。  

   

少し時間を前に戻そう。

昭和53年5月、八重子は、ついに念願の銀座進出を果たす。「ラ・チィーカ」の開店である。思い出のミニクラブを再現した「ラ・チィーカ」は、八重子のファンで超満員だ。


昭和58年10月、銀座に2店目の「エルチコ」をオープンする。その「エルチコ」を昔からのスタッフ阿部にまかせると、今度はラ・チィーカのマスター由井の、「アルファ」出店を応援する。その旺盛な事業意欲には圧倒されるほどだ。一見、素人っぽい彼女の、どこにこんなエネルギーが潜んでいるのだろう。このあたりが、人を惹きつけてやまない彼女の魅力の、根元なのかも知れない。    

               
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八重子は、「私はお客様に夢を売っているの。」という。一日の仕事を終えた企業戦士たちが、つかの間の憩いを求めてラ・チィーカに集まってくる。そんな彼らも、自分たちの明日からの夢を、八重子の笑顔で再確認しているのかもしれない。

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今夜もラ・チィーカは、そんな夢追い人たちで、大いに賑わっていることだろう。

パリの休日